津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

一分=honor ・・?

2008-02-28 12:47:30 | 徒然
honor を辞書検索すると、プログレッシヴ英和中辞典からとして、次のように出てくる。
  [名][U] 1 名誉, 名声(⇔dishonor);信用, 面目, 体面(⇔disgrace)

 木村拓哉が主演した山田洋二監督の映画「武士の一分」(原作・藤沢周平)が、全米公開されるようだ。英語による題名が「Love and honer」だという。なるほどと思った。公式ブログによると、「『一分(いちぶん)』とは、人が命をかけてもまもらなければならない名誉や面目」とある。=にはできない日本語の豊かさを感じる。名誉とか面目とかいった直接的ではない、含蓄に富んだ言葉である。アメリカでどのような評価を得られるのか、大変興味深い。
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グーグルアースで散歩

2008-02-28 08:25:25 | 熊本
 江戸期の地図(コピー)に、現況道路を落とし込む作業をしている。ゼンリン地図をあっちこっち捜しながらの作業は、結構骨が折れる。うまい手はないかと思案していたのだが、グーグルアースをふと思いついた。「新熊本市史・地図編」に沢山の「古地図」が掲載されているが、道筋などはあまり変わっていないものの、ややスケール感が怪しくて、現在の地図とではすっきりしない部分がある。特に熊本城の北西部から西の方向については、江戸期と現況が重ならず理解できずにいた。例えば段山と呼ばれる地域など、現地を歩いても確認が難しいかっての状況が、グーグルアースで確認できるのである。河川改修された川の元の流れが、かすかに痕跡を留めていたりしていて、これには驚いてしまった。熊本城周辺は、巨木に覆われて道筋が判然としないが、それでも古い石垣らしいものも見えている。「地図で散歩」が「グーグルアースで散歩」に変わってしまって、夜なべと相成った。
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地図で散歩・・・その2

2008-02-27 13:57:16 | 歴史
 藩主のお屋敷・御花畑邸(御花畠・御華畠etc.)の一部が伺えるのが花畑公園、1/10ほどが残り当時を思わせる巨大な楠木がおおい茂っている。「御花畑屋敷惣坪数の覚」によると、その広さは14,765坪とある。台形になっているが、「東ノ方」が約340m、「西ノ方」が218m、「南方(ママ)」が148m、「北ノ方」が202mほどである。(1間≒1.82m換算)その西の端から現在の電車通りを日本銀行の前当たりまで、直線約400m・巾40~50mの「追廻し」と呼ばれる馬場があった。その東側には田畑が広がり、侍町との緩衝地となっている。お侍は現在の市役所前へ大きく迂回してお城へ登るのである。市役所の位置にはかって御馬屋があり、市役所前の坪井川にかかる橋「厩橋」に名残を留めている。「御花畑」前の橋は、現在「行幸(ミユキ)橋」となっているが、江戸期は若干位置を異にしている。橋を渡ると坂の左側が「桜の馬場」、右手が堀になっており小笠原備前の屋敷前という事で備前堀と名づけられている。上り詰めると城内への入り口「頬当御門」に至る。
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殉死者と其の家族

2008-02-27 08:13:50 | 歴史
 ある人と話していたら、森鴎外の「阿部一族」の話になり、内藤長十郎が新婚ほやほやの妻に声をもかけずに死んでいく事に話が及んだ。「一言ごめん位言わんといかんでしょう」と口を尖らせて言う。「イヤー実はあれは鴎外の創作で、長十郎は独身なんですよ」と言いかけたときに、「思いやりの気持ちが無い。どうも武士道というやつは分からん」と吐き捨てられてしまった。阿部一族誅伐事件は「阿部茶事談」がベースになっているが、最近では「茶事談」にいろいろ脚色が有る事が指摘されている。18名の殉死者についても、長十郎のような脚色が鷗外によってなされている事を、承知しておかなければならない。

 「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。
   (印とあるのは光尚のローマ字印である)

●千石  寺本八郎左衛門
         右之女房
  三百石  寺本久太郎
       佐藤安太夫女房
         むすめ壱人
  「八左衛門知行・家屋敷共ニ無相違せかれ久太郎ニ遣候
   久太郎知行ハ此方へ可請取也 印」

●五百石 大塚喜兵衛
         右之女房
         喜兵衛嫡子歳九ツ 大塚半四郎
         同人二男歳七ツ  大塚七郎
         むすめ壱人歳十五
  百五十石 喜兵衛弟・大塚七兵衛
  百五十石 同人弟 ・大塚仁右衛門尉
  「喜兵衛知行、家屋敷共ニ無相違せかれ半四郎ニ遣也 印」

●千百石 阿部弥市右衛門尉
         右之女房
  三百石   阿部権兵衛
  弐百石   阿部市大夫
  弐百石   阿部弥五右衛門
  弐百石   阿部五大夫
  拾人扶持  阿部左平太
  「弥市右衛門知行之内九百石、家屋敷共ニ遣也、弐百石ハ左平太ニ遣候
   権兵衛知行ハ此方へ可請取也 印」

●百五十石 太田小十郎
         右之親松岡源右衛門
         右之母
         小十郎弟歳十九 太田安大夫
         同人弟歳七ッ  太田太郎吉
  「小十郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違弟安大夫ニ可遣也 印」

●百五十石 内藤長十郎
         右之親内藤左大夫
         右之母
         右之妹 歳十四・同拾ヲ・同七ツ
         左大夫おい歳十三 内藤左平次
  「長十郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違親左大夫ニ可遣也 印」

●百五十石 原田十次郎
         右之親原田久右衛門
         右之母
  五人扶持 十次郎弟 原田十兵衛
  「十次郎知行百五十石、家屋敷共ニ無相違弟十兵衛ニ可遣也 印」

●弐百石  宗像加兵衛
         右之女房
         加兵衛嫡子歳拾ヲ・宗像太郎八
         同人二男歳四ツ・ 宗像万介
         同人三男歳弐ツ・ 宗像太郎介  
         むすめ壱人歳七ツ
  「加兵衛知行弐百石、家屋敷共ニ無相違せかれ太郎八二可遣也 印」

●弐百石  宗像吉大夫
         右之女房
         むすめ壱人歳四ツ
  「吉大夫妻子ニ八人扶持方可遣也 印」

 前かとハ御知行百石被下候
●四人扶持 橋谷市蔵
        市蔵弟歩之御小姓仕居申候 
 御切米拾石三人扶持 橋谷久丞
  「市蔵先知百石弟久蔵(ママ)ニ可遣也 印」

●御切米拾五石五人扶持
      井原十三郎
         右之女房
         十三郎嫡子歳七ツ・井原半十郎
         十三郎母
  「十三郎御切米扶持方、家屋敷共ニ無相違せかれ半十郎ニ可遣也 印」

●御切米拾五石五人扶持
      本庄喜介
         右之女房
    百五十石 本庄角兵衛
    御目見ニ仕候 喜介二男歳十六・本庄熊介
         むすめ壱人
  「喜介切米扶持方、家屋敷共ニ無相違せかれ熊介ニ可遣也 印」

●御切米拾石三人扶持
      伊藤太左衛門
         右之女房
         縁ニ付居申候・右之妹壱人
  「太左衛門女房ニ五人扶持方、太左衛門家屋敷共ニ可遣也 印」

●     野田喜兵衛
         右之女房
   御切米拾五石五人扶持・喜兵衛嫡子歩之御小姓仕居申候
         野田三郎兵衛
  「喜兵衛女房ニ為養之扶持方可遣也 印」

     御銀見   
●     右田因幡
         右之女房
         因幡嫡子・右田佐左衛門尉
         縁ニ付居申候・むすめ弐人
  「因幡子佐左衛門親ニ不替銀を極候へと可申渡候
   家之儀ハ佐左衛門先其儘可置也 印」

●御切米拾石弐人扶持
      小林理右衛門尉
         右之母
         右之兄壱人・清田七介所ニ居申候
  「理右衛門母為養之五人扶持、理右衛門家屋敷共ニ可遣也 印」

●御切米拾石弐人扶持
      宮永少左衛門尉
         右之女房
         少左衛門子歳一ツ・男子壱人
         女子三人 歳拾ヲ・同七ツ・同四ツ
  「少左衛門切米扶持方、家屋敷共ニ無相違当歳子ニ可遣也 印」

●御切米六石弐人扶持
      津崎五介
         右之母
         右之女房
         男子壱人出家ニ成居申学文ニ罷上候
         五介兄壱人、町ニ居申候
  「五介女房為養之五人扶持、家屋敷共ニ可遣也 印」

●御切米拾五石拾人扶持
      下田与左衛門
         右之女房
         むすめ壱人
         与左衛門弟壱人、南郷下田ニ居申候
  「与左衛門女房・むすめニ拾人扶持方可遣也 印」

    以上
 (寛永十八年)巳ノ六月十七日
                 奉行四人名(花押)


    
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地図で散歩

2008-02-26 09:17:41 | 歴史
 江戸期の地図を睨みつけているが、現在地を確認しようとすると中々分かり辛い。コピーをして赤鉛筆で現況道路を落としてみると、いろいろ面白い発見が出来る。
あちこちに点在するお寺は、まったく位置を変えていないから、これを元にゼンリン地図とにらめっこしながら確認していく。川の流れは後の改修により随分位置を変えている。あちこちにめぐらされていた堀は埋め立てられた。現在のNHK放送会館下の坪井川の流れは大きく東に蛇行していたのだが、直進化して跡の土地はすっぽり熊本大学附属幼稚園の敷地になっている。近くに行き詰まりの道があるが、かっては其の先は改修前の川につながっていたことによる。宮本武蔵旧邸の川を挟んで東側や、信愛女学院西側に不思議な狭い三角地が残っているが、道路が拡幅されたさいに残された江戸期の道路とに挟まれた残地である事がわかる。

 無茶飲みをしていた頃通っていた飲み屋街は、かっては藩主のお屋敷・御花畠裏手の、追廻の馬場やそれにつながる田圃が埋め立てられた場所で、追廻田端(畑)町という名前が一時期あった。ギターが得意なマスターが「ああー霧に咽ぶ・・下追廻田端町」と、下らない歌詞で即興の歌を歌っていたのを思い出す。町の名前の講義を受けてそれが今役立っている。

 地図での散歩は数時間に及んだ。暖かくなったらこの地図を手に実際歩いてみようと想っている。そして各家の場所を侍帳に書き写す作業に入った。
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細川家臣・佐久間角助

2008-02-26 08:11:05 | 歴史
 佐久間盛政・勝之兄弟の弟だとされる佐久間角助は、加藤家侍帳に並川志摩守与力・佐久間角介(五百石)と記載あり、「熊本県史」に佐久間角助(正頼)宛 清正判物二点が紹介されている。細川家資料としては、寛文四年六月・御侍帳に「長岡帯刀組 七人扶持二十石」という記載で初見される。

さて今般、細川家文書・御印之物より、次のような物を見つけ出した。

  有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方之事
     一、七人扶持方 佐久間角助跡
          角助せがれ  佐久間藤七
          同人女房
          同人姉
     (大西弥左衛門尉・柴田吉左衛門に関する記述略)
      右之前永被為拝領 御印被仰上可給候、已上
         寛永拾五年四月廿一日 tadatoxi(忠利印)  
                       有吉頼母佐(花押)

 この文書からすると、角助は牢人として嶋原の乱に参加して戦死し、倅藤七に御扶持が与えられた事が分かる。藤七がのち名前を改め角助と名乗ったのだろう。

熊本県史料・解題に於いては「佐久間氏は平姓、太々良四郎義晴の嫡子家村のとき、安房国朝比奈郡佐久間村に住し、佐久間太郎と称した。その子孫勝之は、佐々成政の壻養子となり、関ヶ原役後信江常三箇国のうち一万八千石を賜り旗本列に列した。所傳の二・三号文書は、勝之の弟正頼(角助)に與えられたもので、正頼は慶長五年清正が大友追討の軍を起こしたとき、その先鋒に加わり、宇土城攻めの功によつて五百石を與えられた。子孫は細川家に仕えた。細川氏肥後入国後百二十人扶持で召し出され、のち三千石を領した佐久間半之丞は正頼の子であろうか(以下略)」と紹介されている。

 「細川氏肥後入国後百二十人扶持で召し出され」 と 「せがれに七人扶持」では、随分話が違う。
さて又、先祖附をコピーしに出かけねばならない(今日は休館日だー)

 

 
 
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手元不如意と烏丸家

2008-02-25 10:08:37 | 歴史
 寛永十二年、江戸城普請役を仰せつかっている細川家は、金銀不足に喘いでいる。とうとう忠利は、妹の烏丸光賢簾中・万に泣き付いている。九月九日書状案によると
「万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事」とある。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。そんな中光尚の舅殿(光賢)の父・光廣は、光尚の侍従叙任に向けて奔走している。

(番外・・九月末、忠興は京にあったが、万の生母明智氏が危篤になり下国する事にした。同じ日の書状には「万銀子は最早無御座候由、云々」とある。
 十月二十五日書状には、万の母・明智氏が「すきと本復」した事が、彌々にも伝えられ
「事之外満足」したことが記されている。)

 天草島原の乱、重なる普請、葡国カリアン船長崎入津防禦として出兵等、細川家の経済状態は火達磨状態へ突入していく。
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春到来

2008-02-25 08:46:22 | 徒然
 昨日山都町に住む妻の友人が、わざわざ沢山の「蕗の薹」を持ってきてくれた。大好きな「白菜の漬物」も頂戴した。「春進上」の心遣いが嬉しい。合併して山都町に成った旧・中央町には、3,333段の日本一の階段を持つ釈迦院という古刹がある。
 www12.big.or.jp/~tsurukei/camp-re/020807ishidan3333/3333.html
    (人様のサイトですが・・こんな所です)
その麓に彼女の自宅は或る。寛永期細川家ではここ釈迦院から、竹の子を収穫して江戸へ贈った事が記されている。(寛永十六年二月・細川家文書御印之物)そんな山菜の宝庫からの「春到来」である。天麩羅にして、蕗味噌にして、お吸い物にしてと妻と語らっている。
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松山家三代

2008-02-24 17:26:52 | memo
 1、加納曲斉 
相国寺首座なりしか、還俗して丹後の町人になり居候、総て律義もの成故、今度(田邊城籠城)も致籠城首尾よかりしとて、豊前にて千五百石被下、町奉行被仰付、飯岡豊前(後・誅伐)と相役也 (綿孝輯録・巻五) 
 2、松山兵左衛門・元直 
忠興君の御供仕、高麗陳岐阜にても武功あり、豊前にて病死、其節貯置候銀五十貫目、刀一腰嫡子権兵衛より差上げ候よし、兵左衛門は元若狭侍也、丹後にて三百石、豊前にて六百石    (綿考輯録・巻五--加納曲斎項)  
(忠利)愛宕山下坊にて御学文の折り「御附被仰付候」(綿孝輯録・巻二十八)
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
御暇被遺候 承応二年十月 
 3、松山権兵衛・重之(元重)
兵左衛門子也、忠興君福智山ニ御取懸被成候節、生野にて御目見仕候へは、いまた御目見も不仕候付、御扶持も不被下候処、此節奇特ニ籠城(田邊城籠城)仕、手柄之御奉公仕候、殊ニ敵つきの櫓を持候而、日夜骨折候段、具ニ被聞召候、日比御扶持被遺、御留守被仰付候もの共さまをくゝり候事、不及是非旨、御意被成候、豊前ニ而御知行三百石被下候、小倉ニ而遠坂越後家来女を連走り候を、黒崎口の人留の者、謀候て外町迄連参候処、篠崎の御侍不残外町江出候へは、右越後家来女をきり殺し候而、切てかゝり候を、権兵衛仕留申候、又小倉にて加々山次左衛門御成敗之節、田中兵庫座敷内にて、密に可仕旨被仰付、則座敷内ニ呼入、手籠ニ仕、兵庫も次左衛門手を取すくめ候而、佐田五郎左衛門二突せ申候、有馬御陳の節、歩御使番相勤罷越、其後宗像清兵衛切腹仕せ、魚住杢之允刀脇差を出せ、貸家ニ入可申旨、山本三左衛門と権兵衛ニ被仰付、首尾能仕舞申候、明暦二年病死 (綿考輯録・巻五)

 武勇伝の多い権兵衛の二男が、松山ニ郎太夫(室・狩野家女)。
権兵衛より早く死に、その嫡男は狩野家を継いだ。

 相国寺 京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号を万年山と称し、詳しくは「万年山相国承天禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石である。足利将軍家や伏見宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である。
      (ウィキペディアより引用) ja.wikipedia.org/wiki/相国寺
 
   
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細川家家臣・谷氏

2008-02-24 10:06:31 | 歴史
 細川幽齋の田邊城籠城は、15,000の敵勢を約55日間釘付けにし東軍の勝利に多大な貢献をなした。攻め手の中に細川家に親しい人の顔が見える。木下右衛門大夫延俊は忠興の義弟である。自らは出陣せず陣代を派遣した。もう一人は谷出羽守衛友である。幽齋の歌道の弟子でも或る衛友は戦う意思は無く空砲を放ち、「谷の空鉄炮」などと呼ばれた。後東軍に転じ幽齋の斡旋もあって所領を安堵された。細川家家臣・谷氏は、衛友の五男衛長を祖としている。御番頭1,500石。寛永七年三齋(忠興)の指示により、幽齋の甥三渕重政の妹・幾久を室とした。二代目は細田氏(荒木村重・子孫)、三代目有吉氏(家老家系)から養子が入った。
 
 一方衛友女は公家園基音室と成ったが、その女の藤原国子は後水尾帝の典侍となった。霊元天皇の生母・新公義門院その人である。霊元天皇の生年は承應三年、寛永四年に歿した衛友は自分の曾孫が天皇になったことは知らない。
 
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新しいペット

2008-02-23 13:16:23 | 徒然
 今日の熊本大変よい天気です。外に出ると流石に風は冷たいのですが・・。今日は庭先にニ羽のメジロがやってきているのを確認しました。妻が果物をいろいろ置き始めて、定期便になったようです。「鳩も来たのよ」と報告がありました。このあたりでは鳩を見ることはあまりないのですが、どうしてやって来たのでしょうか。「水飲み場も必要ね」とボールに水を汲んで置きました。どうやら彼女には、「ごえもん」に替わるペットが見つかったようです。わたしの「メダカ」は、もう少し暖かくなるまでお預けです。
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再び・・神風連

2008-02-23 09:50:02 | 歴史
 当サイトに、松井家に関する二つのレポートを提供していただいているO氏が、ブログ「細川藩MUDA智蔵」で、昨年11月頃より神風連についてのコメントを続けられている。数日前から、引用された書物などを座右に置いて、再チャレンジして読んでいる。神風連をして「熊本の文化」だとする捕らえ方があるが、私は意見を異にしない。荒木精之氏らによる活動で「神」になった「諸士」だが、「それは果たして如何」という想いがある。
しかし又、桜山神社のあの凛とした空気感には身が引き締まるのも確かである。ぼんくら爺の理解の外の世界である。
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狩野家消息

2008-02-22 13:18:21 | 歴史
 夫々細川家文書「忠利公御印之物」より

狩野是斎相果し候段立御耳候所ニ娘之儀縁ニ付候迄ハ是斎二被遣御扶持方も其儘娘ニ被遣候通被仰出候条可被得其意候、已上
    寛永拾六年正月十八日   浅山修理(花押)

狩野是斎女松山次郎太夫女房二遣候間今迄娘ニ遣置候扶持方当十月中は可遣候事
知行百石右女房為養次郎太夫ニ遣候間、当秋ヨリ所務仕候様割可相渡候、物成四ッニ不足之所ニ候ハヽ何時も替可遣旨次郎太夫二申聞候間可得其意候事
是斎家屋敷次郎太夫ニ可相渡候、是斎残候小娘弐人并娘之母下女壱人留守中ニ城へ可差上候事
    寛永拾六年二月十九日 (忠利ローマ字印)tadatoxi

 先祖附にも見えない記述があり、大変興味深い(祖母の実家である)

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肥後の鍬形・・?

2008-02-21 11:25:50 | 些事奏論
 昨日から今日にかけてのTVや新聞は、細川家料理方・村中乙右衛門の「料理方秘」からその料理の再現をした事を大々的に報じている。又その料理本「熊本藩士のレシピ本」も発行された。(藩士が食するようなものじゃありませんよ)これは「熊本城築城400年記念事業実行委員会」の主宰によるものだ。また「肥後の鍬形・・?」とふと思ってしまった。
肥後人気質としてよく言われる言葉に、「肥後の議論倒れ」とともに「肥後の鍬形」という言葉がある。「各々が兜をかぶり大将気取りで、一致団結することがなく事が成就しない」という意味だが、この料理もそんな気がしてならない。半年ほど前、「熊本大学五高記念館」が文化後援会を催し、同様「料理方秘」を元にその再現を試み発表した。これも当時メディアに登場し、インターネット上でも紹介されている。
  www.goko.kumamoto-u.ac.jp/koukai-kouza.html
そしてこれは某ホテルで「細川御膳」と銘うって出されている。(高くて未だ食せず)そして今回の「公式」再現料理のお披露目である。某ホテルに先んじられて、他のホテルは困ったのかもしれないが・・・・。「又かい」とうんざりしてしまう。

 
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名鑓・人間無骨

2008-02-21 09:30:07 | 歴史
 赤穂義士研究家の佐藤氏のサイト「赤穂義士資料館」は一時閉鎖されていて、いささか寂しい思いをしている。その佐藤氏は赤穂藩森家の研究家としても知られている。色々な史料を自費出版され、当方も恵贈の栄に浴した。氏のブログ「おきらくごくらく」を数日振りにたずねたら、驚き入った書き込みが有った。森長可が使用した名鑓「人間無骨」を手に入れられたという。前所有者が森子爵家から譲り受けられたものだというから「お墨付き」である。レプリカが有った事は古い文書で知られており、これは赤穂大石神社に展示されているという。
 森長可は、ご存知森蘭丸の兄に当たる人で、小牧長久手の戦いで戦死した。
サイト「森家史料調査会」 www.spy.ne.jp/~satomako に詳しい。
その森長可が使用したとされる逸物で、行方がわからなかった。研究家の佐藤氏の許に収まったというのも、めぐり合わせであろう。またブログなどを通して詳細な報告がされるものと期待している。
 佐藤氏には赤穂義士を通じて熊本を深く理解して頂いている。森家も細川家と大変親しい関係が文書等でみてとれる。何時の日か「人間無骨」の鑓を、熊本で拝見できる機会がないものかと思い巡らしている。
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