津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

分かったこと -3-

2004-09-28 00:47:13 | 歴史
 八代の松井家に、現存する利休最後の手紙が残されている。淀川を下る利休は
羽与様(忠興)と古織(古田織部)が見送ってくれたことに気付き「驚存候」と
記している。天正十九年二月十八日の日付である。
私が所蔵する影印本「利休会席之留」は天正十八年八月十七日より十九年閏正月
廿四日までの、利休が行なった茶事が記録されている。その客は秀吉であったり、
家康や元就であったりする。そんな中に次の記録を見つけた。

 天正十八年霜月十一日晩 羽与様一人
   同    十四日昼 幽斎  (外二人)
 天正十九年正月三日   松井佐渡

松井佐渡に手紙を託した十日後の二月二十八日、利休は切腹する。
まさに一期一会の茶席で、どんな会話が行われたのだろうか。
招待された人達が歴史を彩った人達ばかりで、利休の偉大さを改めて感じる。

(訂正追記:利休の手紙の日付は十四日、利休最後の手紙は別に有り 10/2)
コメント (4)
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「知ったかぶりが金魚見て・・赤いわし」

2004-09-26 10:40:03 | 徒然
 これ、熊本だけに通用してるのかナー。・・どうでもいいけど。
いろいろ間口が広がってきてミスばっかりしている。
メモっていた資料が間違っていたり、間違っている資料を鵜呑み
にしていたり。「赤いわし」情報にならないよう頑張らなくっちゃ。
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ただいま読書中

2004-09-25 23:43:19 | 書籍・読書
 今谷明氏の本を二冊
  1、戦国時代の貴族「言継卿記」が描く京都(講談社学術文庫)
  1、戦国大名と天皇(講談社学術文庫)
      二冊ともなかなか良い。
 長谷川櫂氏(熊本出身だそうな)
  1、俳句的生活(中公新書)
      櫂氏は建築にも造詣が深いようだ。
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白石一郎氏逝く

2004-09-25 10:59:21 | 徒然
 9月20日海をテーマに新境地を開かれ活躍された白石一郎氏が
亡くなられた。氏の著作は随分読ませていただいた。
家の近くの空き地に彼岸花が咲いている。昨日まで雨に打たれた真
っ赤な彼岸花は久しぶりの陽の光をうけて涙を流しているようにさ
え見える。ご冥福を祈ろう。
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朽木家を調べる必要がある。

2004-09-23 17:31:54 | 歴史
 細川幽斎の実家(?)三渕家は、藤英・秋豪・藤利と続く三渕本流と、藤英の
二男昭貞から始まる朽木家(肥後)、好重から肥後三渕家、山名家、前川家と枝
葉を広げている。掲示板に質問があった三渕昭知はぴえーるさんのご教示で藤英
の子(三男)であることが分かった。ぴえーるさんは「孫にも同名の人がいる、
調べて欲しい」と宿題を戴いた。

「肥後藩主要系図」を引っ張り出してにらめっこをしていて気が付いた。
朽木家に昭知の名前がある。朽木家の初代は昭貞、二代目が昭知、藤英の孫と言
うことになる。(間違いない・・・・)
昭貞の嫡子が早世し昭知が家督しているのだが、これはもしかすると昭貞の弟昭
知を養嗣子としたのではないのか。????同系図は明らかにしていない。
明らかなのは昭貞のもう一人の弟昭長については朽木を称すと記している。
昭長の名は朽木家系図には二代昭知の二男(?)の如く記されているが、これが
四代目を継いでいる。昭貞の弟とするには辻褄が合わない。何だか訳が分からな
くなってしまったが、これは朽木家の「先祖附」を読まなければなるまい。

仕事やら、法事やらでここ一週間ばかりは図書館通いもできないが・・・
楽しみが一つ増えたようなもんだ。
(未だ未解決 2008/5/12)
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分かったこと -2-

2004-09-20 23:35:00 | 歴史
 永禄十一年十月十六日足利義昭は、わずか七人の御供衆をつれて細川藤孝の
屋敷に入った。その前十四日、十五日は六条本国寺で過ごしている。
そして十八日義昭は将軍宣下を受けるのである。
その細川屋敷は「細川氏綱の屋敷跡」だそうな。(これが分かったこと)
翌年織田信長は義昭の為に御所の建設を始める。
そしてその庭にあった名石「藤戸石」を綾・錦で飾り立て、三・四千人の手によ
り新御所の庭に引き入れたという。
後に聚楽第に動かされ、後又秀吉の命により醍醐寺三宝院に運ばれた。
写真撮影が認められていないため姿かたちは窺い知れない。
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本音とか面子とか

2004-09-17 23:20:50 | 徒然
 とうとう野球界に「スト」と言う似合わない事態が起こることになった。
「ナベツネ」や西武の「堤会長」も意外な展開に苦虫を噛み潰したようなお顔だろう。
選手会の本音と経営者側の面子のぶつかり合いなんだろうけれど、古田はよくやった
なと拍手を送ろう。
オリックスを楽天に、近鉄をライブドアに譲ったり・・・どうなの?
金が足りないときは一寸高利だけどオリックスから貸しますよ?????

「たかが選手」と本音を漏らした人がいるが、たかが選手が頑張った。
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観てみたい

2004-09-15 08:43:15 | 歴史
 典厩家の遺構が発見されたと京都ニュースが伝えている。
洛中洛外図に書かれているとしているが、こっちにもお目にかかりたいものだ。
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知りたいこと-2

2004-09-14 18:59:39 | 歴史
徳川頼宣(紀州徳川家祖)の室あま姫は加藤清正の正室正應院の子と伝えられて
いる。一方水野和泉守女清浄院とする説もある。
正應院は加藤家お家騒動「牛方、馬方の内紛」で罪を得た玉目丹波の女である。
紀伊徳川家にとっては正室が罪人の孫娘ではまずかったのだろうか?
阿蘇の蘇陽の人達は徳川将軍家に玉目氏の血が流れていることを誇りにしている。

(水野勝之・福田正秀共著「加藤清正妻子の研究」が、2007/10/1発刊され疑問は氷解した。清浄院は水野忠重女であり、徳川家康生母お大の方の姪である。加藤清正の正室であり、あま姫(遥林院)は清浄院の間違いのない子供である。その故の徳川頼宣への輿入れと成った。正應院は加藤忠廣の生母であり、忠廣の配流先で共に過ごした。 2008/5/12)
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知りたいこと

2004-09-14 17:54:31 | 歴史
木下勝俊(長嘯子)は本当に武田元明と京極竜子(後の松の丸殿)の子か?
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願望

2004-09-03 09:59:36 | 歴史
 例えば
 忠興の従兄弟に当たる日出の木下延俊は北政所高台院の兄家定の子だが、
長兄勝俊は長嘯子と号する文人大名で後年領地を失った。
この勝俊は若狭の武田元明の子とされており生母は京極高次の姉竜子である。
後年竜子は秀吉の側室となった。松の丸殿である。
忠興の姉宮川は武田信高の室でありこちらからも繋がっている。
あの忠臣蔵の浅野家は遡ると幸長に至り、これも高台院の甥にあたる。

こんな相関図をノートに書き記しているとスペースが足らなくなって脇に紙
を足す事になる。畳一枚ほどの紙に小さな文字で細川に関係する諸々の人達
の相関図を作ってみたいのだけれど、多分ぐちゃぐちゃになって訳が分から
なくなるのだろうな。細川護貞氏の「吾が家の人口」を読みながら考えた。
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