津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■蚊がでました・・

2014-01-31 16:39:44 | 徒然

 まさか暖かくなったせいでもなかろうが、急に蚊が現れた。飛蚊症である。左目のまえを大きな蚊が一匹右へ左へ動き回りうっとうしいこと甚だしい。
それが久しぶりなのだ。災難は忘れたころにやってくる・・・まさにそのとおりである。思わずメガネの上に左こぶしが行ってしまう。
眼鏡をはずしてこすったりしてしまうのだが、しばらくは付き合う事に成るのだろう。

先程は変なところに飛んでるなと思ったら、なんと本物の蠅とりくもがうろうろしていた。蠅とりくもが蚊を退治してくれると有り難いのだが・・・・ 

                                         
                                       本日は17℃、明日は19℃の予想です。

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■「手討そこない」という事件

2014-01-31 07:37:54 | 歴史

 祖母の実家狩野家の五代目・兵大夫に伴儀兵衛という実の兄がいる。安永四年十二月四日この兄・伴儀兵衛が手打損ないという事件を起こした。
斬られた人物は儀兵衛の雇人・久左(右トモ)衛門だが疵を負い流長院に逃げ込み、流長院から助命の申し出がなされた。

伴家の先祖附を詳しく読んでいないが、我が「新・細川家侍帳」に於いては、儀兵衛について「御知行被召上候 安永四年十二月六日 高二百石 貶」と書き込んでいる。事件の真相は、如何なるものであったのだろうか。
兵大夫も五十石を召し上げられ差扣を言い渡された。しかしながら翌日には差扣には及ばぬ旨達せられている。

何故このような事件が起きたのか、不思議に思っていたら新しい資料に遭遇した。「手打達之扣」である。これによると、この事件に於いては兵大夫だけではなく、十二月に至り従兄弟の西村角右衛門が逼塞の処分を受け、又儀兵衛を小舅とする木村武右衛門も同様の処分を受けたことが判る。儀兵衛自身は「御暇」の処分が出ている。
随分以前から手元に在る史料なのだが、全く気付かないでいた。七頁に及ぶ報告書のうちから主たるものを記してみたい。

        西山大衛組伴儀兵衛當分雇置長屋ニ召置候久右衛門と申者、去ル四日之夕不届之儀有之手討仕候處、
        間合遠ク手疵を負せ申候、儀兵衛儀数年足を痛、近キ比ニ至候而は別而不時由之程ニ有之難住存念討
        損門外え迯出申候、依之方々相尋候得共行方知レ不申處、翌五日流長院住僧狩野兵太夫宅ニ罷越、久
        左
衛門儀寺を頼ミ参候儀ニ付、何卒彼ノ者慮外之筋差免候様、兵太夫まて頼申候、右之趣義兵衛江申聞
        候得とも、如何躰ニ有之候共難差免様子ニ付、久左衛門儀是非相渡候様再應流長院え取遣候得共、決而
        相渡不申候旨申越候間、猶又申向置候儀ニ御座候共、右之様子延々相成候次第難住(渋)心■奉恐入候、
        依之儀兵衛如何程ニ相心得可申哉と相達候ニ付、先相慎居候様申聞置、右書付御役所え持参相達置候
        處、儀兵衛儀慎不及旨御用番ゟ即答被申聞候叓
                七月十日
        西山大衛組伴儀兵衛儀、雇置候久左衛門と申者手討致損候ニ付、再應書付今日御役所え相達申候處、
        儀兵衛儀雇置申候久左衛門と申者を手討致損候、以来延々ニ押移同十三日差出候書付之趣■■■不埒
        之様子ニ付、依之儀兵衛儀差扣候様可申達旨申来候事 

 

                十二月六日 儀兵衛従弟等ニは御咎無之、儀兵衛え被仰渡ニ依而身分伺
        西山大衛組伴儀兵衛儀雇置候坪井町久左衛門と申者、當七月四日不届之儀有之候由ニ付手討いたし候
        処討損、流長院え迯入住僧助命之儀相断候ニ付数日延々ニ押移候次第、其内差出候書付を以達 尊聴
        候處、寺院入込寺僧ゟ相断候ハゝ猥ニ押懸ケ討放候儀は可致遠慮事ニ候得共、差遣(本ノ満々)上ニ而其上
        再應も尋常に申断、夫共ニ不致承引候て不得止事是非請取候而遂吟味不缺、武士道様可致覚悟事ニ候
        処、畢竟差詰候取計之後難を考、不埒ニ押移候旨被為 思召之上、未練之至ニ付御暇被下置旨被 仰出
        之候由、御用番助右衛門殿ゟ出付相渡を儀兵衛え私可申渡旨ニ付■儀兵衛宅え罷越申渡候事
                十二月六日                 西山大衛

                    覚
        伴儀兵衛儀致手討候久右(ママ)衛門儀、遂穿鑿候處元来可致手討罪状は無之候ニ付、無何事可被遊御免
        者ニ候得とも、儀兵衛不始末之一件も右久右衛門ゟ事發り無節被仰付候通ニ付、聊之事とハ乍申御士ニ
        對し候儀久右衛門存命ニ居候へは 御城下拂被 仰付筈ニ候處先達而牢死いたし候、此段承置候様儀兵
        衛一類中え貴殿より可被申聞候以上
                十二月

        儀兵衛御暇被下候節、御用番ゟ西山大衛え被相渡候書付


儀兵衛が雇人・久左衛門の不届きに対し手討にしようとしたが、数年来足を痛めていたため間合いが悪く「手打ちそこない」となり、久左衛門は手疵を負って逃走をし内坪井の流長院に逃げ込んだ。流長院の住僧から助命を乞う申入れがあったが、儀兵衛側は受け入れない。提出された書付の内容が不埒であるので差扣るよう沙汰された。
その後穿鑿が行われ儀兵衛は御暇の処分を受ける。久左衛門については特に罪は見受けられないが、原因を作ったとして「御城下拂い」とすべきところ牢死した。

これが事件の顛末であるが、結局事件の原因となった雇人久左衛門の「不届き」についてはよく判らない。
不埒とされた儀兵衛側の書付の内容も判らない。「達尊聴」とあるがこの時期藩主重賢は江戸に在り、世子・治年が入国している。この治年の判断でもあろうか。
「切捨て御免」は武士の特権だというが、もし命を絶っていたらどうなっていたのか。不思議な事件ではある。 

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■御礼申し上げます

2014-01-30 18:18:38 | 徒然

  本日当ブログの閲覧が300万アクセスを越え、又訪問者数も55万を超える数字と成りました。

2004.7.24に現在のブログを立ち上げて以来、9年半皆様に暖かいお力添えをいただきながらここまで参りました。
誠に有り難く御礼を申し上げます。2020年を一つの目標として、サイトの充実を図りながら邁進していこうと思います。
今後ともよろしくお願いを申し上げます。

                                               津々堂 敬白 

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■松寿庵先生 第85講

2014-01-30 12:53:13 | 歴史
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■寺本(興津)四郎右衛門

2014-01-30 07:26:46 | 歴史

1月28日、興津九郎兵衛一友がおこした事件として「法華坂のこと・・・」を書いた。
九郎兵衛が島原の乱で戦死した後、興津家を継いだのが後に忠興公に殉死した次弟興津弥五右衛門である。
三弟作太夫景行は別禄にて召し出されて活躍したが、弥五太夫の代に絶家した。
四男が四郎右衛門だがこの人は、弥五右衛門景一の後妻の連れ子である。大坂夏の陣に於いて忠興に従ったが、行賞に不満があったのか辞退したので追放となった。母方の姓・寺本氏を名乗り、伊勢亀山の本多下総守俊次につかえた。

                              
                                                               興津家の系図
 寛永十四年秋天草島原の乱が勃発、目付の優柔不断が状況を悪化させる。幕府に於いては九州の大名の行動に対して懐疑的になっていく。家光に召し出された忠利は弁明を行うとともに、遠く離れた島原の地の戦いがどうなっているかに胸を騒がせながら、幕閣の要人にその胸中を語っている。一月一日、上使・板倉内膳は強引な戦を仕掛け戦死する。その事はすぐさま江戸へ伝えられ家光の怒りを買うことに成る。十二日に成り忠利に対しても帰国の命が下されその日のうちに留守居を残し、江戸詰めの士はそれぞれに帰国の途につく。

九州の大名衆にも同様の命が下され前日江戸を離れた。忠利はわずかの供をつれて、日に日をついで肥後を目指した。

寺本(興津)四郎右衛門は忠利の為に、多くの馬を準備していた。黒田家などに一歩遅れて江戸を立った一行は、この四郎右衛門の働きでその遅れを取り戻し島原の地に入る事に成る。

新たに派遣された松平伊豆守信綱は、肥大化し堅く守られた城を見て、驚きを隠せないでいる。城攻めを強行すれば多くの犠牲者が出ることを察した伊豆守は「干殺し」にするに戦術の転換を行う。

1月27日、細川家の仕寄りは諸手より四五日早く進み、他の衆との歩調を合わせるべく数日休むことに成る。 そんな中細川勢の中から、敵の昇りを奪ってくるものや、首一を挙げてくる者もいた。2月27日一気に大勢を決する攻撃が始まる。原城の地は数万の人々の犠牲をへて静まっていくことに成る。

寺本四郎右衛門の子四郎兵衛が改めて細川家に召し出されて姓も興津に改めることに成る。

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■細川九曜紋小透し鍔

2014-01-29 17:38:37 | オークション

                                         鍔 tsuba 細川九曜紋小透し 丸形 無銘 木箱入り 日本刀 刀剣

                             鍔 tsuba 細川九曜紋小透し 丸形 無銘 木箱入り 日本刀 刀剣

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■足利将軍の御血筋が・・・

2014-01-29 07:36:03 | 歴史

「風説秘話」に次のような話がある。

           西山大衛弟同傳喜不行跡ニ而一旦出奔せしか、後虚無僧と
           成立帰り秘ニ大衛か許ニ居りしか、或時兄弟口論様せしか又深
           巧有たるや、家の系圖を盗取出奔す、大衛方々手を延し
           吟味せしに廻り役之者捕来、内々ニて大衛に渡したる故早速
           手打したり、西山ハ家柄宜敷故系圖を盗他国ニ可有付巧な
           り津らんとの風説也

 足利道鑑の娘が小笠原備前家の初代・長之の後室となっている。その故を以て長之の二男が養嗣子として西山家の二代目となった。
大衛はその孫にあたる。名門であるが故にこのような事件は頭の痛いことであったろう。 

 

 ■ 西山大衛  (南東8-1) 
    
足利十三代将軍義輝 
    
尾池玄蕃(足利道鑑)又(小池茂左衛門・入道道閑)
            女:桜井兼友・正室 水無瀬兼豊養女(足利義辰・女)
            女:小笠原長之・後室
    西山左京・至之(尾池伝左衛門)
            
後・息勘十郎とともに「御家御断申、京ニ被相越候由」(綿考輯録・巻五十二)
                   
細川忠利公御書出(寛永十五年)千石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)千石
    
西山勘十郎       細川忠利公御書出(寛永十五年)五百石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)五百石
    
1、八郎兵衛(勘十郎弟・山三郎氏房)  
              (1)人持衆併組外衆 二百七十九石六斗余 (真源院様御代御侍名附)
              (2)二百七十九石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              (3)清田石見組・御番頭 千弐百七十九石六斗 (寛文四年六月・御侍帳)
              (4)御番頭・清左衛門組     同上        (御侍帳・元禄五年比カ)
                
寛文四年一月(着座)~元禄六年六月(病死)番頭
                   
細川忠利公御書出(寛永十八年)
                         細川光貞公御書出(寛永十八年)三百石

                   細川綱利公御書出(寛文元年)三百石
                   
西山八郎兵衛加増知行所付目録(寛文元年)千石
   
 2、九郎兵衛・道可(養子 実・小笠原備前長之二男 初・八郎兵衛・氏清)
                   千弐百七十九石六斗三合二勺八才 着座 屋敷・手取
                
元禄九年二月(着座)元禄十四年十一月 番頭(同役不和ニテ被差除)
                   
細川宗孝公御書出(享保十九年)千三百石
    
3、多膳・氏政    享保十二年一月(着座)~享保十六年 番頭
    
4、大衛・氏章  比着座 千弐百七十九石六斗三合二勺八才 延享元子十月廿日
                                  東山鹿苑院義政将軍ヨリ出
                
明和五年三月(着座)~安永五年一月 番頭
        弟・傳喜 

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■法華坂でのこと

2014-01-28 09:49:17 | イベント

                                                         (左下が志水伯耆邸、中央が後に東榭西榭が設けられる藩校・時習館の位置右手が長岡監物邸である。)

 

 熊本城の正面は西に向いている。新町の新一丁目御門からのびる坂が法華坂であり、空堀に添って左手に折れると右手に現在の西大手門が見える。二ノ丸は重臣の屋敷が立ち並び二ノ丸御門を経て豊前・豊後街道へと繋がっている。
今月の史談会では、会員藤本修氏の渾身の研究「熊本城下の坂」をお聞きするが、今日はこの法華坂で起きた事件を取り上げてみたい。 

法華坂は神風連の乱にあたっては、首領・大田黒伴雄が自刃したところとして知られるが、忠利公の時代にはここで何ともいただけない事件が起きた。
忠興公に殉死した興津弥五右衛門の兄・九郎兵衛一友がおこした事件である。時代の確定は出来ないが、九郎兵衛は島原の乱で陣死しているから、寛永九年の細川家の肥後入国から五~六年の間に起きたものである。

                         忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん、四尺斗の長刀を差たる
                         か法花(華)坂ニ而小便を志たるま、監物殿の馬乗通り懸り小尻を
                         蹴、沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
                         沖津抜打ニ二ツに斬殺たり、夫より今のの後四角迄来 
                         りしに、早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて、大勢
                         門前ニ集り既二可押懸躰なれ者、沖津引返シて大頭志水
                         伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
                         殿より討手を被向様子ニ見へ候故、差図を受可申ため参
                         上仕候と云しか伯耆殿聞て、早々御通りし得とて沖津
                         を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
                         砲を持て長屋の屋根に上らせられし中、早監物殿の者共ハ
                         沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
                         物申候、沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
                         御渡可被成と云、しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
                         候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
                         申候と云れしかとも、監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
                         云募しか者、伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
                         受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
                         致覚悟と云れしか者、監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
                         抔せし者も無く、勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
                         たる中使を馳て主人の方得云遣ハせしかハ監物殿怒られ
                         自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ、此事早
                         尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ、監物者家来の
                         敵ニ討手を向候由尤左も可有事也、然るに若伯耆様討れ
                         候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
                         上意也、沼田殿■なから御請申上退出し斯成行てハ以の
                         外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ、監
                         物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
                         共を被引取たるとなり

 藩内でこのようなことで一触即発の状況になっている。いまだ戦国の侍の血が騒ぐのであろう。
監物とは家老・長岡(米田)監物興季である。慶長十二年細川家を退去し牢人し、大坂の陣に於いては西軍に付いた。元和八年に帰参し寛永二年家老職、同十一年一万石を領す。
志水伯耆とは新之允(雅楽之助 後・伯耆清久 入道〆宗加)であろうと思われる。当時備頭大頭六千石である。(日下部与助の父)  志水元五(日下部与助)の事である。
尊聴に達したと有るから藩主忠利は在国している。肥後入国から島原の乱の為に帰国するまでの間、忠利が在国するのは次の如くのわずかな時期である。

さてどの時期なのか、うかがい知る資料が見当たらない。もし志水が討たれたら沼田氏をして監物を討たせるという忠利の思いが、監物を翻意させた。 

一、同年(寛永九年)依召九月十三日小倉御発駕 十月三日江戸御着 東海道御旅行 同四日肥後国拝領 同八日右
  為御礼登城 同十二日御暇被仰出 同十五日江戸御発駕 東海道御旅行 十一月十日小倉御着 十二月五
  日小倉御発駕 同九日肥後御入国 熊本城ニ御入
一、寛永十年九月十二日熊本御発駕 十月十日江府御着 同十三日御拝礼

一、同十一年家光公御入洛御参内付而 忠利公御供奉被蒙仰 五月御暇被仰出江府御発駕 同廿一日
  上鳥羽御着七月十八日御参内之節 忠利公御衣冠ニ而四足御門ニ御候 同年閏七月廿九日御暇被
  仰出 八月朔日上鳥羽御発駕 同十三日熊本御着
一、同十二年正月十六日熊本御発駕 二月十四日江戸御着 同十八日御拝礼

一、同十三年五月御暇被仰出江府御発駕 六月九日熊本御着
一、同十四年三月廿日熊本御発駕 閏三月九日江戸御着

一、同十五年嶋原一揆ニ付 依御願正月十二日被為召 即日江戸御発駕 同廿五日熊本ニ御越 御城ニは
  不被為入 立田村より白川御渡河尻江御越御乗船 翌廿六日己刻直ニ嶋原御着 賊徒御討捕之 二月
  廿七日原城落去 三月二日有馬御発即日熊本之御城江御凱旋



                              http://www.youtube.com/watch?v=knnJ3Cf1Xeo

 「志水伯耆」につきましては人物の特定を間違えておりました。
 ご子孫からのご指摘を受け訂正をさせていただきました。御礼を申し上げます。 2016:9:2

                             

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■5月7日大坂落城の様子について(未定稿)

2014-01-27 08:30:27 | 史料

いつも貴重な史料をご提供いただいている埼玉のTK様(現在お仕事の関係で和歌山在住)から、大坂城落城の様子について時系列にまとめられた資料をお送りいただいた。
御許しを得てここにご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

■5月7日大坂落城の様子について(未定稿)

概ね信頼できる史料を時系列でならべ、5月7日大坂落城の様子を報告申し上げます。  
位置関係等まだまだ認識不足の点がある未定稿なので、今後の修正をお許しください。


≪凡例≫:『 』…史料引用 [ ]…原注 ( )…史料名 〔 〕…私注

【合戰の開始】
『茶臼山邊巳刻合戰始ル』(駿府記)
『朝之四ツ過ニ天王寺口ニ事々敷煙見申候』(毛利家臣厚母元知大坂陣働之次第)
『九つ時分に越前衆より槍合申候』(藤堂家臣山本甚吉覺書)
『今日七日午の下刻大坂へ少々御よせ被成候』(慶長二十年五月七日付細川忠興書状)


【城方の敗北】
『七日〔中略〕午刻大坂燒煙見付、未刻計落城之由風聞』(義演准后日記)
『七日八ツ時分より及薄暮候迄ニ事澄申候』(慶長二十年五月八日付毛利秀元書状)
『大坂昨七つ時分ニ落城仕候』(慶長廿年五月八日付井伊家臣岡本半介書状)
『郡主馬合戰之刻、秀頼樣御馬印をもち候て御城より十丁斗も出申候、もはや惣敗軍ニ成候付而御城江持て歸候由申候』(慶長二十年五月十五日附細川忠興書状別紙覺)


【算用曲輪・二の丸玉造口の攻防】
(1)『速水甲斐守を御本丸に被指置候間、甲斐守鑓をも帶刀父子引廻候樣被仰付、御先手へ罷越候、〔中略〕祖父帶刀〔原田〕、父太郎助〔原田〕兩人は人數を召連、東の假門に罷在、帶刀、敵間爲見分に算用場之丸迄乘出候處、大野修理南之方より乘立參り、敵競來り候由を申、帶刀も左樣に見及申義、辭を合、一先請取所東之假門へ罷歸、御門を堅め罷在候へば、無程加州肥前〔前田利常〕殿之御先手人數大勢堀際へ着來候、此處之塀は前方堀を埋め俄に懸置申候假塀に候へば、殊外手薄にて、敵容易に乘入可申樣に相見申候故、味方敗北仕、僅十二三人計り殘り候處、櫻之御門之方より敵亂入、味方之後へ廻り申候に付、右十二三人計りと見え申、味方猶又散失』(原田理左衞門書上)
(2)『夏御陣五月七日落城之刻ハ、田原兵衞、私〔吉田次左衞門〕相詰居申候處、甲斐守〔速水〕被申候は、何と哉覽亂候間、東之御門防申候へと被申候ニ付、東之御門江參、敵押入候を討拂、一人も入不申候』(吉田次左衞門覺)
(3)『敵稻荷の前ニ而取て返し揉合、二三度火花を散し支しが、爰をも終に切崩し、玉造口東の門へ逃込、既ニ付入にせんとせしける所に、城中より北村五助と云者、鐡炮の藥箱に火矢を射かけ一度にはね上り候付、此口之寄手夫より引返し退候、櫻門ニ而本多豐後も手ニ逢、左手へ付、二本松、算用場より亂入』(大坂御陣覺書)
(4)『加賀勢、玉造口ノ門ニテ暫ク相戰フ、城兵北村五助鐵炮ノ藥箱ニ火ヲ付テ投出ス、是ニヨツテシハラク猛火ノタメニサヽヘラルトイヘトモ、ツイニ算用場、二本松ヨリ亂入』(武家事紀)

※(1)では、大坂七組の番頭速水甲斐守守之が、配下の原田帯刀・太郎助父子に、二の丸と三の丸の境にある東の仮門の防御を命じています。原田父子は一旦仮門の外、算用曲輪まで乗り出しますが、大野修理大夫治長が敵襲を告げ来ったので、東の仮門の防御に戻りました。(2)でも、速水守之が、配下の田原清兵衛や吉田次左衛門に東の御門の防御を命じています。
(1)東の仮門、(2)の東の御門とは、(1)の仮門が算用曲輪に通じていることから、共に玉造口の門を指すと推測されます。藤堂家編纂の「元和先鋒録」に、和睦に伴い城の土居や門・矢倉も引き崩して堀が埋め立てられ、所々畦道のような状態になっていたが、再度の開戦にあたり、大坂方で人夫を出して畦道を寸断し、柵を結い、生玉口等の諸口に木戸を構えたとの記録があります。玉造口の矢倉門も堀の埋め立てのため引き崩されたものの、夏の陣の時は仮門(木戸)が設置されていたものと思われます。
また、(1)で、玉造口の仮門を防御していた原田父子に対して、背後の桜之御門の方角から敵が迫ったことが記されています。これは西側の三の丸生玉曲輪から生玉口(元和先鋒録からこれも仮門だった可能性があると思います。)を突破して二の丸に乱入した敵が、桜之御門を左手に見ながら桜馬場を直進して玉造口の裏側から襲来したことを示していると思われます。
なお、(3)(4)では、玉造口に迫る加賀前田勢に対して、速水守之の与力北村五助が爆薬をもって防戦した様が記録されています。また、このため寄手は、算用曲輪、二本松から乱入したとありますが、算用場は玉造口の外に張り出した曲輪であり、二本松はおそらく二の丸櫻馬場の東方かと思われることから、少し位置関係が分かりかねています。「武功雜記」に『大坂城堀を埋め申たる時算用郭の地をひくな、其儘おけと御意なされ候由、算用郭は土地たかくして城中を見下すに利ありし故ならんか』とあることから、城中は南から北に向けて緩やかな下り坂となっており、算用曲輪は侵入の足場として恰好だったのかもしれません。


【本丸桜門の閉鎖】
(4)『櫻門迄參候へ共、最早本丸へはいり申候儀不相成、櫻門之西方ニ而槇島庄太、仙石左衞門、松井藤助、大野彌十郎、不破平左衞門、坂井助右衞門、此ものとも一所に罷在候』(林甚右衞門差出書付)
『大手口ニテハ拙者眞先ニ門キハヘ乘付候ヘトモ門ヲサシ申付テ馬ヲヒカヘ候』(松平忠直家中本多丹下郎從小笠原忠兵衞覺書)
(5)『落城ニ及旁々火掛リ御門打、海老ヲヲロシ申ニ付御門より入事相不叶』(早川太兵衞大坂合戰覺書)

※ (4)大坂七組の番頭真野豊後守頼包の与力林甚右衛門の証言から、既に本丸大手口桜門は、防御のため、鍵がおろされ閉鎖されていたようです。(5)豊臣方御宿越前の組頭早川太兵衛も城中の門扉が閉まり鍵(海老鎖)がおろされていたと証言しています。


【秀頼の動向(桜門→表御殿→奥御殿)】
(6)『秀頼公ハ修理參りて眞田謀を申上候ヘハ、則打立給んとし給ふ處へ、先手崩懸りしかは、最早乘出し討死せんと被仰候を、速水甲斐守來りて、先手惣敗軍と成候上ハ御出馬候とも不可叶、御本丸を御堅め時至候ハヽ御自害尤と申上候ヘハ、櫻門より千疊敷へ御入候、誰有て狹間配せよと下知する者もなく諸人色を失ひ、只落支度の外他事なし』(大坂御陣覺書)
(7)『一、敵も未かゝらぬ内に跡崩致候、我等〔今木源右衞門一政〕ハ御使に參、又ハ手にあい申候、秀頼生害之事無心元存候て御城へ參候ヘハ、城中人すくなく成りて、秀頼ハ於くと於もての間に御入候、御そはに修理一人、小姓共少々相見申候、天王寺表之樣子見及候段、又味方敗軍之樣子申上候て、さて御生害ハ何方にて可被遊候哉と申候ヘハ、殿守を用意仕候へと被仰候、則修理も御供いたし於くへ參候、我等も致御供候、扨奧へ參、鐵炮の藥ハ何方ニ御座候と申候ヘハ、たけへ助十郎にとへと被仰候、助十郎ニ向候て、鐵炮藥二人に爲持、殿守へあかり御生害の所にたゝミをかさねて敷申候而、藥を其處ニおき申候、其所へ頓阿彌樽をもちて參、御意之由申候』(淺井一政自記)
(8)『五月七日ニハ御城ニ居申候、其節秀頼公御雪隱ニ御入被成、御傍ニハ御打物赤座三右衞門、御手水ハ坂井平八、御手中郡平次〔郡主馬首宗保次子〕持居候處、大野修理被參、御城ハ落申候通言上、いつもの御氣色ニ而御出、御手水被遊、夫より奥へ御入、御座敷ノ間ノふすまを〔脱あるか〕加樣之時ハ子共ハ不參物とて、修理引立被申候、夫より何レも近習、小々性銘々御殿ヲ罷出候、平次事御玄關ノ前ニ而速見甲斐守ニ行逢申候ヘハ、手ヲ取候て、主馬ニハ逢不申哉と被尋候へ共、見不申由平次申候』(自笑居士覺書)
(9)『秀頼公、奧ノ御所ニ入給ヘハ、母北方ハ立向ヒテ、是ハ何ト成行事侍ルヤトアキレ立セ給ヒケリ』(豐内記)
(10)『一、下へさかり秀頼之御前ニ參、殿守を用意仕候と申上、火繩に火を付持參仕、殿守へ致御供參候、一、修理あとより參、僞を申候てとめ申候、我等申候ハ、加樣の時のび候ヘハ恥を御かき候ものに候、合戰のもり返し候事ハ僞にて御座候、はや千帖敷にも火かゝり申候と申候へ共、甲州、修理達而申候て下の矢倉へ御供いたし候』(淺井一政自記)

※(6)で、本丸大手口桜門まで出陣していた秀頼でしたが、城方敗北により速水守之から本丸の防御した上での自害を促され、一旦表御殿である千畳敷御殿〔御対面所〕に移動します。
(7)で、茶臼山口に出ていた秀頼の近臣今木(こんぼく)源右衛門一政が本丸に戻り、絶望的な戦況を報告すると、秀頼は天守に火薬を搬入するよう命じて、表御殿から奥に移動しています。(8)でも、秀頼は雪隠に行った後、大野治長から落城に極まった旨報告を受けつつも、普段と変わらぬ様子で奥に移動したことを豊臣家臣郡平次郎が証言しています。 (7)・(8)でいう「奥」とは奥御殿のことで、つまり秀頼は表御殿を出て、奧御殿がある曲輪の大手門に相当する鉄(くろがね)御門をくぐり、天守の南側真下に配置された奥御殿に移動し、(9)のように淀殿と言葉を交わしたたものかと思われます。
なお、(8)にあるように秀頼はいつもの御気色でおり、(6)で諸人が色を失っていたのとは対照的です。
 (9)では、天守に火薬を装填した今木一政が、天守から降りて奥御殿の秀頼のもとに伺候し、天守への移動と自害を進言しています。この頃には表御殿(千畳敷御殿)にも火がかかっていました。しかし、大野治長や速水守之は、秀頼の助命に一縷の望みを託し、奥御殿がある曲輪の石垣を二段下った東下ノ段帯曲輪にある土蔵矢倉に移動を進言しました。(11)には『殿守より下りさせ給ひ』とありますが、(10)の秀頼近臣今木一政の証言のとおり、秀頼は奧御殿から直接土蔵矢倉に移動したのではないかと思います。


【二の丸から本丸の炎上と千姫退去】
『石田杢居申屋形〔二之丸大野修理大夫治長屋形〕ノ屏ヲ打破、拙者内ヘ入、火ヲカケヤキ立申候、拙者〔小笠原忠兵衞〕ヨリ先ニ火ヲカケ申候者御座有間敷候、ヤキ立申候後本丸モヤケ出申候』(松平忠直家中本多丹下郎從小笠原忠兵衞覺書)
『落人共爰元參候ハ、二曲輪より火かゝり本城も何も不殘燒申由申候』(慶長二十年五月八日付板倉勝重書状)
『未刻大坂之城火之手上り候由書留置申候』(高祖父輝宗曾祖父政宗祖父忠宗記録拔書)
『火手アカリ申候ヲ凉殿屋根ヨリ見物申候、晝之八時ヨリ夜半時分マテ火焰見申候』(土御門泰重卿記)
『大坂備前嶋片原町え晝之八ツ時分ニ乘込候〔中略〕、其節天守ニ火懸り燒上り申候』(石川忠總大坂陣覺書)
『八ツ時ニ大坂城火焰炎上ト云々』(伊達治家記録)
『大坂七つ時分落城仕候』(慶長二十年五月八日付井伊家臣岡本半介書状)
『七日之申之刻ニ本丸殿守燒申候』(慶長二十年五月九日付山口直友書状)
『大坂之御城天守も申之下刻ニ火かゝり申候』(慶長二十年五月七日付細川忠興書状)
『七日七ツ過ニ大坂ノ城ニ火かゝり同八日之朝迄燒申候』(井伊家臣富半右衞門覺書)
『七日城炎上之時、秀頼御袋より女房二人[刑部卿局、饗庭局]、侍二人[堀内主水、南部左門]等を御附、御所樣之御陣ヘ御送り被成候』(元和年録)
『大坂御本丸火ノカヽル時、内ヨリ姫君出シ申事ハ、此上御一所ニ果シ申テモ無詮事、出シ奉ル、俄事ニテ其期ナレハ、イカニモシタルヤラン麁相ナル乘物ニ乘セ參ラセ、上下六拾人計ニテ鎗ノ柄切折、棒程ニシテ天王寺表イ御出被成、皆名乘テ御輿近邊人ヲ拂テ出ル』(山本日記)

【東下ノ段帯曲輪土蔵矢倉への避難】
『七日〔中略〕同申刻從城中、大野修理郎從米村權右衞門爲使參于茶臼山、以本多上野介、後藤少三郎、訴申云、諸牢人不殘討死、今日姫君城中令出給、於岡山御座、秀頼幷御母儀、其外女中數輩、大野修理母子、速水甲斐守、其外山里帶くるわ二間、五間之庫に取籠り給由、秀頼幷御母儀命於御助、有御赦免、幕下可令問之旨雖被仰、及黄昏、右之使者、被召預于後藤少三郎云々』(駿府記)
(11)『秀頼公、淀殿と御一所に殿守へ御上り御自害可有所に、速見甲斐申候ハ、合戰の習、先陣破ても後陣り有事あり、御自害ハ不遲とて殿守より下りさせ給ひ、月見の矢倉の下より芦田曲輪の東上矢倉へ御薈』(大坂御陣覺書)
(12)『一、御袋〔淀殿〕ハはやさきへ御下候、秀頼ハ月見の矢倉の下よりさま〔狹間〕を御のそき被成候ヘハ、市正殿へ參候坂のとちうへ敵つき候躰に相見申候、其處にて内藏助〔渡邊〕切腹いたし候、渡邊長左衞門介錯仕候かと存候、一、煙にむせ候て我等ハ内へはいり候ヘハ、正永〔渡邊内藏助母〕介錯してくれ候へと申候間、介錯致候、御ちやあ、又あい、又比丘尼三人かいしやくいたし候、是ハ手からに成候ニてハ無之候へ共、此時ニハ皆々うろたへ、ものを申者も無之候』(淺井一政自記)
『秀頼幷御母堂ハ帶曲輪ノ土藏ニ入給フ』(元寛日記)
(13)『一、秀頼矢倉へ御出候、皆きやう〔興〕のさめたる躰ニ候、夜ニ入、ひき事なと永々と申候ては慮外、御手本を可仕と申候て、脇指をぬき候處ニ、津川左近、毛利長門とりもき候てそとへ引立、つれて出申候』(淺井一政自記)

※(11)にある『月見の矢倉の下より』がよくわかりません。大坂城図では月見矢倉は本丸の北西隅、天守の西側に位置しています。奧御殿から月見矢倉を経由して東下ノ段帯曲輪に行くためには、奧御殿を出て西に進み、月見矢倉の付近から西中ノ段帯曲輪に一段降りて山里曲輪を東へ堀際まで進むルートになりましょうか。
しかし、(12)に『秀頼ハ月見の矢倉の下よりさまを御のそき被成、市正殿へ參候坂のとちうへ敵つき候躰に相見申候』とあり、月見矢倉の下の狭間から窺うと、二の丸東方にある片桐東市正且元邸へと続く下り坂の途中まで敵が攻寄せている様子が見えたとなると、ここでいう月見矢倉は本丸の北西隅の矢倉ではないこととなります。また、大坂七組の番頭野々村伊予守吉安手の宮井三郎左衛門が『大手之門ヲうち候ヘハ入申事不罷成、月見之矢藏わきのへいヲのりこへ城中へはいり申候』と証言しており、ここでいう大手之門とは黒鉄御門のことで、その近くに月見矢倉があり、その脇の塀から本丸に入ったということかと思われます。
表御殿にも火がかかった状況下で、奥御殿とを繋ぐ黒鉄御門を閉鎖するのはごく自然のことと思います。月見矢倉が鉄御門付近にあったとすれば、秀頼の避難コースも、奥御殿から出て、一旦東南の月見矢倉付近の塀から外部を窺い、閉鎖する前の黒鉄御門から空堀沿いに東に進み堀詰を北に進んで東下ノ段帯曲輪の土蔵矢倉へと移動するルートも考えられます。
(12)・(13)では、皆もはや物言う気力も失っていた様がうかがえます。(13)で、今木一政が「未練たらしい繰り言はいけない。いざ手本を示さん。」と言い放って脇差を抜いたところ、津川左近将監近治等に押し止められ、土蔵矢倉の外に追い出されたと証言しています。


【城内の鎭火】
『程なく天守より火の手上り申候、九つ過より七つ半過迄に透とやけ鎭り申候』(藤堂家臣山本甚吉覺書)
『酉刻頃城中火鎭り候』(元和先鋒録)
『七日之晩片桐市正ハ病中ニ而候得共、城之案内者に候ヘハ乘物にて城江入、燒殘候所々に火をかけさせ燒拂ひ罷在候』(慶長見聞書)
『大坂ノ城ニ火かゝり同八日之朝迄燒申候』(井伊家臣富半右衞門覺書)

※こうして長い5月7日が終わり、日の出とともに豊臣家最後の日となる5月8日が始まります。前日皆が既に物言う気力を無くしている中でも、大野治長と速水守之は未明から粘り強い助命交渉を繰り返しました。しかしながら豊臣家の命運は尽きており、『五月八日未刻御切腹』(慶長二十年五月十五日付細川忠興書状別紙巨細條書)『八日ノひるすきニ御腹被成候』(慶長二十年五月十四日付毛利秀元書状)という結末を迎えることとなります。

 

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■冬菫

2014-01-26 23:20:48 | 俳句

                                                               腰痛の歩を進むれば冬菫  津々

 腰の痛みをこらえながら、外へ出て見ます。暖かな日曜日で春を思わせるようです。ふと街路樹の根元を見ると冬菫が一輪咲いていました。
しばし歩みを止めて見入ったことですが、通りがかりの人は腰痛の爺様の小休止とでも思われたことでしょう。

                                     つまりただの菫ではないか冬の
 こんな句があるのをご存知ですか・・・・。俳句は第二芸術と云いますが、よくわからない句ですね。菫が大好きな小生としてはただの菫が良いのです。
我が家のプランターには、野菫がわんさかと芽を出し始めました。春が近いことを感じます。 

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■田中左兵衛のこと

2014-01-26 11:33:03 | 歴史

 田中左兵衛という人物が在る。柳川城主・田中吉政の弟・兵庫助氏次の養嗣子である。兵庫助は兄吉政とは馬が合わなかったらしく、方々を流浪して豊前にて忠興に1,000石鉄炮頭として召し出された。後に1,000石を加増されて番頭となった。
左兵衛は島原の乱にての幻の一番乗りとして有名な人物である。細川家は左兵衛の一番乗りを確認したが、幕府のほうではこれが確認されておらず益田弥一右衛門をして一番乗りとした。細川家は左兵衛の無念を思い、忠利・光尚・綱利三代に渡り加増等で手厚く応えた。初代の熊本城城代としても遇している。さてこの左兵衛旧名を佐久間忠助という。長い間この佐久間氏について調べてきたが判明しないまま今日に至った。

    与左衛門・氏次(柳川藩主田中吉政弟 兵庫助)
       (1)留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭) (於豊前小倉御侍帳)・・兵庫
        消息:寛文三年正月(元旦)忠利惣奉行ニ改名ヲ命ズ 「日帳」
            (浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎
            を被仰出、則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也
                      (福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)
       (2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)・・兵庫
       (3)千五百石       (真源院様御代御侍免撫帳)・・兵庫
        豊前にて忠興に召出され千石、鉄炮頭 加増千石、番頭 慶安二年没
    左兵衛・氏久(養子 初・佐久間忠助 隠居後宗白) 
        元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石
        同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石
        肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕

      幻の一番乗り(実質一番乗であったが公儀では益田弥一右衛門をして一番乗りとした。
               光尚の遺言に依り綱利代二千石加増)  
       *原城にて武功の面々御褒美被下候 寛永十五年五月七日於御花畑--御陣刀
       *原城にて武功の面々御褒美被下候(肥後様衆)寛永十五年九月朔日
               黄金壱枚小袖二、羽織一        (綿考輯録・巻四十九)
       *原城にて武功被賞  二千石
           内本知百五十石なり、前ニ御褒美之所にも出、有馬之働為御褒美、二千石二成
           後又二千石御加増、二十七日之所二委出  (綿考輯録・巻五十)

        (1)歩小姓 百石 (於豊前小倉御侍帳) 
        (2)御六様衆 百五十石
        (3)二千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)  
        (4)御留守居衆・与頭 四千百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
               慶安元年十二月~延宝四年一月(隠居)城代

       *封事・・・諫言之覚  上妻文庫84所


インターネットとは誠に有り難いものである。広島県在住の佐久間様からご連絡をいただき、御家の系図に細川家家臣となった左兵衛についての記述がある事のご連絡を頂戴した。毛利輝元の臣に三郎左衛門成る人物がおり、男子三人の内、嫡男・玄蕃が長州へお供した。この玄蕃に三人の男子が居り嫡男は伯父・又兵衛(三郎左衛門・次弟 佐伯郡惣庄屋)の養子と成った。あとの男子(左兵衛・松斎)二人は別腹の子とあり生母は継室でもあったろうか。
左兵衛の生母は肥後の出身だとされる。この人が田中与左衛門(兵庫助氏次)の継室に成った。与左衛門には男子が無かったため、左兵衛を養嗣子となした。左兵衛・松斎ともに細川家に仕官することになるが、松齋については詳細が判明しない。
左兵衛は毛利家のお墓がある東光寺に墓地があるという。(熊本では養子は実家の方の墓地に埋葬する) 

広島の佐久間家の祖は佐久間玄蕃允とある。二代ほど名前が欠落しており、三郎左衛門は玄蕃允の三代孫になるという。(時代的に疑問も有る)
佐久間玄蕃允とは佐久間盛政であろうと思われるが、確定的資料が無い。
盛政の一族が毛利に至ったことが資料として存在すればよいのだが、佐久間家御自身が随分調べられたが未だ判明しないらしい。

貴重な情報を得て、左兵衛(佐久間忠助)の長年の謎が判明した。それと共に玄蕃允殿の事が改めての疑問として浮上してきた。
 

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熊本の・・・・豊国廟跡

2014-01-25 14:50:46 | 熊本

                                                               豊国廟跡

                                           

 細川家の菩提寺の一つ泰勝寺は標高151.7メートルの立田山の南の麓にある。左手の道を車で直進すると万石へ至る旧道へ抜ける。
途中から右手に曲がる山頂へ向かう道があるが、山頂の手前に広がる広場に豊国神社があったとされる。
どの程度の建物があったのか資料も判らないが、加藤清正によって建てられたこの建物は、金箔を施した瓦が葺かれていたと伝えられる。城下からは光り輝く様が見受けられたであろう。加藤家没落後取り壊されたという。
熊本城からは表鬼門(北東方向)に当たっている。(泰勝寺も同様である) 

今ではこの地の由来を示すように、わずかにこのような祠が残されるのみである。詳細を知りたいものだと思っている。

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無慈悲な豊国廟の破却

2014-01-24 08:42:42 | 歴史

                                     

                                                   豊国神社唐門

 「おきく物語」をよみ、大坂の陣と細川家を考えるなかで、豊臣家の没落の様に触れているとあまりに無慈悲な徳川の仕打ちに驚かされる。
大坂城落城後二か月を経ずして沙汰された豊国廟の破却の命である。
元和元年七月十日家康の発したその内容は厳しいものであった。

      ・豊国神社は本殿はじめ社頭一円を全て破却する。
      ・豊国大明神の神号をはく奪する。国泰院俊山雲龍大居士と称しめる。
      ・阿弥陀ヶ峰の秀吉の廟墓を掘り起し、方広寺裏手に移して仏法により供養する。 

その他豊国神社の社領及び神官の知行を召し上げ、方広寺大仏殿住職の職を解くなど徹底した措置が取られた。

しかしながら秀吉の正室・北政所の哀訴によって廟墓の移転や本殿の破却は免れている。北政所は豊国神社は「崩れるままでよい」とまでも云っている。そんななか方広寺大仏殿の住職に成った門跡寺妙法院の手により、神宮寺や豊国神社の社殿などが取り壊された。豊国廟の参道は新たな建物の建設(新日吉神社)により塞がれてしまった。誠に陰湿なしようである。徳川家による直接的な破却ではないが、金地院崇伝や京都所司代・板倉勝重の意を含んだものであったのだろう。

そんな中家康は亡くなるのである。

明治に至り天皇の豊国神社再興の沙汰があり、京都・大坂で激しい誘致合戦がおこる。京都に於いては元和元年十二月以来、妙法院によって参道をふさぐ新日吉神社の移転を巡り、妙法院が法外な移転費用を要求するなど予算的に難儀をきたした。明治三十一年三月三十日新たな廟墓や社殿などの竣工式が執り行われた。その喜びは阿弥陀ヶ峰の地に満々、多くの人々が参詣したという。多くの神社仏閣もこれを共に祝ったが、妙法院もさすがにこれらにならっている。現在これらの地を地図でながめると、長い時間をへた確執を複雑な気持ちで思い起こさせる。ひとり妙法院の仕業ではなかろうことは目に見えている。 

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ヘンな日本美術史

2014-01-23 18:07:20 | 書籍・読書
     ヘンな日本美術史
 
       祥伝社

内容紹介

山口晃、初の書き下ろし「画論」! 

自分が描いたということにこだわらなかった「鳥獣戯画」の作者たち。絹本に白色を差すまでの絵師の心細さ。「伝源頼朝像」を見たときのがっかり感の理由。終生「こけつまろびつ」の破綻ぶりで疾走した雪舟のすごさ。グーグルマップに負けない「洛中洛外図」の空間性。「彦根屏風」など、デッサンなんかクソくらえと云わんばかりのヘンな絵の数々。そして月岡芳年や川村清雄ら、西洋的写実を知ってしまった時代の日本人絵師たちの苦悩と試行錯誤……。

絵描きの視点だからこそ見えてきた、まったく新しい日本美術史! 
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ぎっくり腰で散歩

2014-01-23 14:32:06 | 徒然

 今朝の熊本は-2℃と冷え込んだが、お昼には雲一つないよい天気になった。昨日或る方から某家に関する飛び切りのニュースがもたらされた。
養子である初代の出自についてである。御礼の手紙や資料を午前中をかけて準備し、運動がてらと思い郵便局へ往復20分ばかり出かける。
気温は高くないがお天道様の光がぽかぽかで、気持ちの良いこと、時折ぎっくり腰がギクッと来るが、立ち止まり/\しながらの散歩と相成った。

明後日は運転免許更新前の「高齢者講習」とやらに出かけねばならない。今日の散歩の具合だとなんとか車の運転も出来そうな感じでほっとしている。

 

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