津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明日からゴールデンウイークだというのに

2023-04-27 13:36:43 | 徒然

 人様はコロナ禍の中で我慢を重ねられてきて、今度のゴールデンウイークは、ご家族連れや友達・恋人たちがあちこちに行楽を楽しまれることだろう。 
私はと言えば5月の中旬頃引っ越しせねばならなくなった。熊本大地震から現在の住まいに逃げ込んだのが5月中旬だったから奇しくも満7年目である。
通常のものは引っ越しの専門家に頼めばよいのだが、私には捨てることのできない財産がある。
本と資料だが、これだけは引っ越し先で又元通りに本棚に戻さなければならなから、その為に判るようにダンボールに詰めなければならない。
15日~20日くらいの余裕はあるのだが、少しずつ資料の箱や袋を取り出しては、中身を確認、いらないものは処分している。
中身を確認するうちに懐かしい史料に遭遇してしばし目を通していると、熊本史談会でのいろんな情景が浮かんだりする。
隠れていた古文書史料なども顔を出し、しばし手が休まって遅々として進まない。
又久しく開けていない開かずの押し入れを開けると、何が入っているのか覚えがないダンボールから、レコードやCD等、また旅行その他で求め地震に耐えた人形その他が姿を現し、しばし奥方と眺めて感慨にふけった。
ダンボールいっぱいのコピー類が顔を出すと、これは有禄士族帳その他のコピー等1,500枚以上はある(500枚で25㎜程)が、これは内容を確認して一気に処分した。
こんな作業を散歩もせずに一日中やっていると、腰が痛く成る事夥しい。
引っ越してまた本棚に戻す作業を考えると、あとひと月は世話がない。傘寿一歳爺様の最期の御奉公である。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (1)

2023-04-27 05:56:39 | 史料

元和の改元は、「後水尾天皇 の即位と、大阪の陣などの戦乱の災異の終息」にあたり行われたとされる。
慶長20年5月8日、大坂夏の陣において大坂城は落城、豊臣秀頼・淀殿ら自害し豊臣家は滅んだ。
その3ヶ月後(慶長20年は閏6月がある)の7月13日(新暦1615年9月5日)に「元和」と改元された。
ここではその改元前の時期については「元和元年(慶長廿年)」と表記することにした。
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忠興文書-元和元年(慶長廿年)・・大坂夏の陣勃発、豊臣家滅亡

80、(慶長廿年)正月三日書状
 ・大坂落着ノ觸状到来
 ・御奉行衆への返書遣候事
 ・嶋津・加肥後・田中筑前への書状
 ・忠利豊前ニ下國タルベシ

81、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月朔日書状
 ・忠興上關ニ著ス、一両日中ニ小倉ニ著スベシ

82、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月六日書状
 ・光(=光尚)ノ祝儀の礼
 ・関東木綿到来ノ礼

83、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月十五日書状
 ・羽班五十進之候

84、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月七日書状
 ・光ノ発熱ニツキ注意ヲ與フ
 ・干拓ノ為曽根ニ堤ヲ築ク

85、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月八日書状
 ・光ノ病状良シ
 ・尾そりヨク鳥ヲ捕フ、「日本」ゟヨク鶉ヲ捕フ

86、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十一日書状
 ・光ノ病状良シ
 ・曽根ノ堤出来ニツキ中津ニ赴カン

87、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十二日書状
 ・鹿皮・土筆給り喜悦候
 ・曽根ノ堤普請大方出来ス

88、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十五日書状
 ・曽根堤完成ニツキ十九日廿日ノ間ニ中津ニ至ルベシ

(徳川家康4月6・7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結を命じた)

89、(慶長廿年)四月十一日書状
 ・出陣ノ用意・・・(夏の陣)
 ・中津馬乗ハ昨年ノ如クタルベシ
 ・忠利ノ乗舟ヲ中津ニ下ス
 ・中津ノ普請ヲ中止セシムベシ

90、(慶長廿年)四月十三日書状
 ・出陣ノ用意ー陣用に米を貸す、忠興の触れを待つに不及、駿府から御触れなくとも用意すべし
 ・羽織、小姓共ニハ揃ノ指物ヲ申付ベシ
 ・奉行又ハ頭ノ他ニハ指物ヲ許サズ

 

 

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