津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有吉家文書「年中行事抜粋」(廿九)口之間申渡之式

2011-04-30 12:12:38 | 有吉家文書

○ 口之間申渡之式

一御殿者中之間 東西之口御襖立ル 政府ハ口之間ニ而
  御奉行出方之口と坊主とも出ル口は建ニ不及 何茂御間取平常之通ニ
  候之事
一申渡ニ付諸書付者例之通御奉行より
  差出之事
一重キ筋ハ御目附繰出軽筋ハ坊主繰出し
  右之境は機密ニて取調候事
    但御目附之節ハ繰出名付相渡坊主
    繰出之節ハ佐弐役より名付相渡候事
一座着宜段申達候上御用番より竪畳
  壱枚半南より横畳二枚目之処ニ致座着
  左候而相済御用番座江参右書附者
  佐弐役江返し候書附次第ニハ坊主を以
  返し候右書付返し候ニも不及候得共事柄
  次第ニハ於機密間入用之事も有之候間
  本行之通返し候事
一御奉行・御目附列座之儀者依御用筋
  稀ニ者致列座候 目録渡之節ハ御目付列座勿論之事
    但御奉行列座有之節ハ申渡之書付
    於其座相渡列座無之節ハ相済候上
    直々御用番坐ニおゐて相渡候事
一御請書差上候事
  右申渡ハ御賞賜御用懸御手当類
  其外段々有之候事
一諸被仰出之書付渡候節も繰出等前条
  之通其節ハ文箱之蓋ニ書付数通次第
  之通入組口達も相済御奉行より御用番江
  差出候間 此書付不間違様御用番能見しらへ
        可申候且佐弐役より直ニ差出儀も有之候
其儘致持参当人江致口達畢而書付
相渡候事
  但口達之儀者元来手控なしニ申達候間
  口達書傍ニ差置候尤事之長キ儀ハ
  申渡之通ニもいたし候事

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頑張れ東北・・・頑張ろう九州

2011-04-30 11:28:30 | 徒然

 3月12日の九州新幹線の全線開通は、前日に起きた東北大震災の陰に隠れてしまった。乗車率も低迷していたが、ゴールデンウイークに入って上向き加減になってきた。沿線周辺の人たちの気持ちのこもった参加で出来上がった、感動のコマーシャルビデオが大人気のようだ。

          http://www.youtube.com/watch?v=g5kU6mImUh0

                頑張れ東北・・・頑張ろう九州

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿八)堅メ之式書抜

2011-04-30 08:34:35 | 有吉家文書

○堅メ之式書抜

一御條目相渡堅見届候間麻上下着罷出候様
  前日及達候事
     但兼而御条目相渡居候御役々ハ堅メ迄
     見届候
一此堅メ之儀御殿又ハ政府之差別外ハ同席之
  同席ニ応候事
一当日当人出答有之候ヘハ御奉行より文箱之
  蓋ニ諸書付入御用番江差出候左之通
    一繰出名附
    一誓詞   此三通所ニ鎰々有之
    一前書写
    一御條目
一夫より御目附を呼御用番より右繰出名
  附等三通相渡候ヘハ口之御間江参当人を口之間
  衝立外ニ繰付置誓詞板ニ乗硯江添
  此硯等者坊主より持出 御用番座着之向を通り
  衝立之迦ニ出置御目附猶詰間ニ罷出
  宜旨御用番江申達候事
一夫より御用番口之間江罷越西より一間を
  左江当南より一間を後ニシテ北向ニ座着
  此座着之間合御尊政府共同様 御條目相渡候節ハ文箱蓋
  に入なから持参右横ニ差置候事 
一御用番坐着之上御目附より当人を
  繰出候得ハ誓詞之前ニ罷出時宜有之候
  間一寸会尺いたし候夫より左之通及達候
     御條目を相渡候間、夫ニ而拝見之上堅メ
     之判元見届可申候
        但御条目不相渡節ハ勿論右之口上
        無之候
一右之通申渡御條目相渡候間請取元之坐ニ
  帰拝見之上血判有之候得者御目附誓
  詞を板ニ載なから持参候間見届之段当人江
  申達左候得者御目附元之坐ニ直リ
  前書写を当人江相渡当人退去之上
  詰間江入候事
     但幾人ニても居続ニて手数同断
一御用人并御近習一手は直ニ被
  召出有之由ニ付即日堅メ有之候其外ハ追而
  堅有之候尤御用之覚旧ニも可応事
     但御留守年ニても御用人ハ多即日ニ堅
     有之候尤翌日ニ成候儀も有之事
        天保三年二月五日御備頭澤村宮右衛門
        堅見届之節機密間より差出之口達書
        左之通
        御條目相渡之夫ニ而一ト通御拝見可有之直ニ堅之
        判見届可申候外ニ請場之書付等二通
        相渡候追而可有拝見候以上二月五日
一御日柄ニても堅不苦例
  文化五年四月十六日杉浦仁一郎・綾部四郎助
  御郡代当分被仰付候ニ付於御奉行所
  堅被仰付候節跡ニ而御奉行奥田権之允
  より今日ハ御日柄之事ニ御座候得共先例不苦
  趣ニ付今日堅被仰付ニ申談候段前以御用番江
  口達有之筈之処無其儀失念之段申述
  有之候事

 

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前田青邨遺作展・図録

2011-04-29 21:35:50 | 徒然

 ガラシャ夫人像はなんといっても前田青邨画伯だろうと私は思っている。この絵は昭和49年、バチカンの近代美術館の依頼によって画かれ、同美術館に宗教画として収蔵されているという。昭和54年里帰りして東京・京都・大阪・名古屋・横浜で行われた、前田青邨遺作展に出品された。なんとか図録でも手に入れたいと思っていたら、この度オークションで運良く落札することができた。

素晴らしい内容で、すっかり津々堂はご満悦である。昭和17年(私が生まれた年)青邨は「清正」を書いている。これは全く知らなかったが、良い絵だ。東京国立美術館の収蔵するところらしいが、一度拝見したいものだ。84点に及ぶ作品をゆったりとした気持ちで拝見、久しぶりに穏やかな気持ちになった感がある。感謝。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿七)鷹之御間申渡之式(二)

2011-04-29 08:49:18 | 有吉家文書

一御在国者追而其身々々之御禮被為請候
  御在府は御礼状請便之節差上
  候之事
   但右者
   太守様 御隠居様
   若殿様共ニ士席以上無差別差上之事
一御禮状仕出後レ付而身分伺有之節ハ
  差控二不及旨及達御禮状ハ此節差上
  候様及差図其趣達
  尊聴御小姓頭江茂知せ候事
一御留守居・御中小姓之席以上之人ハ総而
  鷹之御間ニおゐて御用番より申渡候得共
  士席之内ニ茂阿蘇組已下ハ於御奉行所
  御奉行申渡尤阿蘇組以下之内ニも御留守居
  御知行取者鷹之御間ニ而御用番より申渡之
  右御間所取分之訳相分兼以前より之仕来ニ
  候事 
   但御小姓組仰付候節ハ紙面沙汰之事
一神護寺・往生院も右之御間ニおゐて分職
  御奉行同道申渡候事
  寛政六年十月
   御用有之御花畑へ被為召候人病中ニ而難罷出
   節ハ以来名代之人頭と可致同道候尤名代之人
   名前は前以御奉行迄可被相達候事
一病死跡并御奉公御断奉願置候者之嫡子
  養子又ハ名跡相続之二男末子嫡孫等
  御花畑江被為召候節ハ名代ニてハ難相済候
  尤病気之様子ニ応候而ハ吟味之上臨時ニ
  及差図儀も可有之候
   但御奉公御断奉願候者其身病中
   之節ハ今まて之通可被相心得候
一前条之外諸子弟并浪人或ハ軽輩之内
  御花畑江被為召候節病中ニ而難罷出節ハ
  先其段可被相達候名代江申渡支有無之儀ハ
  其節々差図候
  右之通ケ条兼而其旨を相心得居可被申候
  以上

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ご恵贈御礼「湘南文學」第45号

2011-04-28 21:38:12 | 歴史

 これは東海大学日本文学会が平成23年3月号として発行したものである。文学部の志水義夫教授からご恵贈給わった。この中に「翻刻と解説」として、「志水宗加の細川幽齋追悼文」が掲載されている。教授は志水宗加のご子孫である。志水家は「青龍寺以来の家」として、細川家の根本家臣として知られるが、宗加(新之允清久)は幽齋公の近くにあって文武に秀でた人物であった。幽齋の歌の弟子としての宗加の万感の想いが記されている。晩年は細川三齋に近侍し、寛永六年豊前中津で91歳で亡くなった。

ご子孫である志水先生により、このような形で宗加の足跡が発表されたことは意義深いことである。ご恵贈に感謝申上げる。
尚、志水宗加については「肥後文献解題」の「志水宗加歌集」の解説に詳しく紹介されている。

【志水宗加歌集】
 巻頭に志水伯耆守歌集を禁裡御歌所へ被差出候処禁庭より評書入りに被成候分伝来に相成候由とあつて、四季恋雑五十二首を載せてある。諸所に評語の書入れがあって、元和五年八月晦日御朱印と附記してある。雑部には史実的に見て面白い歌がある。志水宗加は宗賀ともとも書き、諱は清久、通称新之允又雅楽之助と称したが、后に伯耆と云い、入道して宗加と号し隠居後幸斎とも号した。先祖は菅原姓で志水対馬守清美と云い山城国綴喜郡山下南志水に居住したので志水を氏とした。対馬守の嫡子志水新之丞清久は江州佐々木承禎に属していたが、後に佐々木家を立退き、山城国に引籠り中、幽齋公に召出され天正八年幽齋公に従って丹後に移り御知行千石拝領伯耆と改名した。然るに細川玄蕃(興元)殿と仲悪しくなり、御暇を給わって京都に引籠り二人の子供を加藤清正公に預け自分は剃髪して宗加と改名した。三齋公豊前国拝領以後慶長七年宗加に帰参仰付けられ御知行二千石下され仲津の御城を御預け被成た。其後豊前で隠居して幸斎と号した。此志水家は後に五家に分れて栄え相当の人物を輩出した。

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「老人雑話」にチャレンジ

2011-04-28 11:48:58 | 書籍・読書

 先にご恵贈いただいた某書を読んでいたら、「老人雑話」からの引用文があった。これは京都の医師・江村専斎の話を孫の伊藤宗恕が記したものである。専斎は細川幽齋と親しかったとされるが、その子孫二家が細川家家臣(医家)として仕えている。専斎が赤松氏の子孫だというのも興味深いし、加藤清正に仕えていたなどとは驚きであった。

この「老人雑話」は色々な所で引用されている、貴重な資料である。WEB上でも「早稲田大学」「京都大学」のサイトで公開されており有り難いことではある。

     www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_02052/index.html

なかなか達筆できれいな紙面で大変読みやすい。古文書の読み下しの勉強にはもってこいの資料である。皆様もチャレンジされては如何。「史蹟集覧」に読み下し文が掲載されていると思われるが・・・熊本県立図書館には収蔵されていない(・・・)

専斎については、「Taiji’s Notebook」というサイトに、藤田篤訳「譯注先哲業談(後編)巻一」で紹介されているので、抜粋して引用ご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

江村專齋、名は宗具、字は專齋、又以て通稱となす、倚松菴と號す、平安の人

專齋は村上源氏、赤松の庶族〔支族〕なり、曩祖(のうそ)〔先祖〕赤松次郎則村入道して圓心と號す、元弘中北條高時獨り威權を擅(ほしいまゝ)にし、萬乘〔天子〕を廢立(はいりつ)するに當り、始めて播州摩耶城に據りて、勤王(きんわう)し〔忠を皇室に盡す〕賊を討(たう)ず、後足利將軍に從ひ、武功を以て封を此に受け、子孫一州に繁延す、永禄中同族なる州の三木城主別所小三郎晴定織田右府の爲に攻められて、其所領を喪〔失〕ふ(、)專齋の曾祖を江村民部大輔孝興と曰ふ、又州の三石城に在り、既に三木城の守(まもり)を失ふと聞き、其禦ぐ〔防守〕べからざるを知り、窺(ひそか)に京に奔(わし)り、新在家に隱居し、跡を市井に混じ〔民間に下りて平民の仲間入す〕、慶長癸卯の歳を以て歿す、孝興榮基を生み、榮基既在を生む、乃ち專齋の父なり、既在は聞香〔香を■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・たく:大漢和18965)して嗅ぐこと〕の技を以て世に著稱せらる、豐太閤屡召して其法を問ふ、是時に當り海内搶攘(さうじやう)〔騷亂〕し、日に干戈を尋ぬ、既在身閑散〔ヒマ〕に在りて當世に意なし、某氏を娶り、永禄乙丑を以て、專齋を新在家に生むと云ふ(、)專齋幼にして新在家に在り、十五歳の時平安に遊び、醫術を法印徳岩に學び、又自ら濂洛の學〔朱子學〕を攻(おさ)む、遂に儒(じ-ママ)を以て肥後侯加藤清正に遊事す、食禄五百石、清正卒して後、其禄を辭す、寛永中美作侯森忠政其名を聞きて之を聘〔招致〕し、遇するに賓師の禮を以てし、月俸七十人口を饋(おく)る、遂に又之に遊事して以て終る
專齋の弟を久七郎と曰ふ、始め江州の佐々木義秀に仕ふ、佐々木氏亡ぶるの後、薙髪〔剃髪〕して久茂と號し、聞香を既在に受け、又其技(ぎ)〔ワザ〕を以て世に鳴る、豐太閤屡其家に臨む、是を以て專齋亦謁見することを得、金帛(きんはく)の賜(たまもの)を受くること、前後數次時人之を榮とす
專齋少壯より務めて修養をなし、齒(よはい)九十を過ぎて、視聽衰へず〔眼も耳も達者〕、少壯の時と異なるなし、後水尾上皇之を聞きて召見し、修養の術を問はせらる、專齋奏して〔天皇に申し上げる〕曰く、臣固より他術なし、平生唯一の些字を持するのみ、上皇問はせらる、曰く食を喫する〔喰ふ〕些〔少し〕、思慮も些、養生も些のみ、上皇大に之を感賞し給ふ
專齋好んで和歌を詠ず〔作る〕、兼ねて其説に精(くは)し、細川幽齋、木下長嘯子〔幽齋長嘯子は當時和歌を以て名ある人〕等皆之と交る、寛文四年甲辰齢(れい)甫(はじ)めて一百歳自ら和歌三詩を詠ず(、)曰く

もゝとせになるまで飢えず寒からず
道ある御世のみちにひかれて
なにもせで身のいたづらに過ぎしゆえ(*ママ)
今日もゝとせの春にあふかな
もゝとせもなほあきたらず行末を
思ふこゝろぞもの笑ひなる

其詞藻〔詩歌の采華に富むこと〕傳播して〔評判高くなる〕叡覽に入る、七月に至り、勅して院參〔上皇の宮に參内すること〕を許され、鳩杖(きうじよう)一、黄金一を賜ふ、後又扇紙等の賜あり、草莽(さうきく-ママ)の士〔民間無位無官の人〕(*頭注に士を「土」とするのは誤植。)にして、至尊の顧問たること此の如きは、儒林〔學者社會〕の榮と謂ふべし
專齋鳩杖の賜あつてより、家に額して賜杖堂と曰ふ、子孫世々此に居る、三子あり、長は宗覺字は斯民、好菴と號す、次は宗眠字は友石、剛齋と號す、次は宗祐字は惠夫、愚菴と號す、三子の後皆文學を以て世に名あり、文學を以て侯家(かうか)に仕ふ、其榮耀(えいえう)〔顯達〕繁衍〔盛昌〕(*原文ルビ「けんえん」は「はんえん」の誤り。)、世に希なる所たり、是れ專齋が徳澤の致す所にあらずや
專齋伊藤坦菴と友愛殊に渥(あつ)〔厚〕し、坦菴專齋より少きこと五十八年、後進を以て之を視ず、常に吾家の畏友〔及ばざる恐るべき朋〕と稱す、坦菴深く專齋の人となりに服し、心を傾けて〔及ぶ限り意を用ふること〕推奉(*原文ルビ「さいはう」は「すいはう」の誤り。)す、甞て專齋平日の談話數百條を記し、題して老人雜話と曰ふ、好古者之を寶とす、坦菴又甞て專齋の肖像に賛して曰く

人生百ニ滿ツ古來難シ、青無ク休有ル還(また)更ニ難シ、孫子蝉聯最モ得難シ、一家獨リ自ラ三難ヲ併ス(*人生滿百古來難、無青有休還更難、孫子蝉聯最難得、一家獨自併三難)

畢(おはり)に書して曰く、余弱冠(じやくくわん)〔二十〕にして專齋老人と相交はる、此に數十年、年分不偶なり〔齢の違ふ〕と雖も、氣類頗る相同じ、聚會(しうくわい)往來殆ど虚日(きよじつ)なし、老人往事を談ず、疊々として聴くべし、一も浮誕〔ウキタ嘘〕なし、余毎に倦(けん)を忘る〔イヤにならぬ〕、其人となり、恂々和易(わゐ)、室に在りて忿疾〔立腹して罵言す〕の聲を聞かず、其面常に和煦(わく)〔和易和煦は打解けて仲好き形容〕の色あり、眞に所謂寛厚の長者なり
專齋鳩杖を賜ふの年九月二十六日を以て、綾小路の家に歿す、歳を享くる一百、洛東の善正寺に葬る、法謚(ほふし)を仙壽院日榮居士と曰ふ、今に至るまで、遠方の人京に遊ぶ者は必ず其墓に謁すと云ふ
或は云ふ、江北海が衆に傳(つと)ふる所、專齋が眞蹟楷書二行、實に希世の珍なりと、今其語を此に附載す曰く

名利兩ラ好ムベカラズ、名ヲ好ム者、之ヲ利ヲ好ム者ニ比スレバ差(ヤゝ-ママ)勝ル、名ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所有リ、利ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所無シ(*名利兩不可好、好名者、比之好利者差勝、好名則有所不爲、好利則無所不爲也)

 

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿六)鷹之御間申渡之式(一)

2011-04-27 17:19:10 | 有吉家文書

○鷹之御間申渡之式

    江戸御留守居以下士席
定日
  御在国       御在府
     九日         四日
     廿一日       十四日
     廿八日       廿三日
  右之外臨時申渡之儀有之御留守年ハ
  節句ハ詰間休日ニ付見合
  節句又ハ不時寄合之節茂申渡候事
一御用有之面々前々日頃組脇等江及達若
  急成節ハ前日及達候事も有之候尤
  召状名元者奉行所又ハ御用番名前ニ而
  夫々極有之委ハ略之
    但御家老組ハ其組之御番頭江及達
    若差支候節ハ無役着座江及達候尤
    同道無之分ハ御用番より頭江直達
    之事
一同席ハ例刻出仕之事
一申渡ニ付而之諸書付者御用之面々
  出答相揃候上佐弐役より文箱之蓋ニ入
  御奉行江差出御奉行より御用番江差出し
  書付数左之通
一繰出名附御奉行より差出次第即刻御小姓頭ヲ
    詰間へ呼御用番より相渡
一申渡之書付
    懐中いたし申渡皆相済其座ニ而
    御奉行江相渡候尤巻返返ニ不及此書付
    以前ハ当日致順覧候得共御辞令ハ
    家々ニ残重キ事ニ付丹生入念可遂巡覧
    旨先年従
    少将様被仰付候以前前日巡覧ニ
    相成候事
一拝領物之御目六(録) 半切、三折
    申渡前ニ御目附を詰間ニ呼御用番
    より相渡置候左候而申渡之席ニ而
    当人々々江御目附より引渡減知之書
    附は右同道人江相渡候事
一御請書
    申渡相済毎々文箱ニ入坊主江持せ
    御用人江差出候事
       但御在府者御便之節在江戸
       同席江申向候事
一御用番者鷹之御間内南より横畳四枚
  目東より九尺を後にして落間之方向
  座着直ニ懐中より書付二通取出申渡
  之趣之書附ハ右脇江置申渡之書附を
  披持居候尤下ニ置候而も不苦候事
    但已前ハ常々口上ニて申渡来候得共
    近年ハ読渡之方ニ相成候且御用番
    召出其外臨時差支候節ハ加番之面々
    之内より申渡儀茂有之候
一御家老組之面々同道ハ其組之御番頭
  若差支之節者無役着座ニて候御中老
  支配は御小姓頭等同道之事
一御用番書付を披候得ハ御小姓頭并
  御使番より繰出し候左候得ハ頭等当人を
  召連鷹之御間御敷居内ニ入帯剣東頭ニ
  御用番江向平伏申渡候上頭ハ当人
  之方を向当人ハ頭之方江向御辞儀仕
  夫より頭ハ御用番江向御請申上退去
  何人ニても如此尤御目録等ハ御目附より当人江
  相渡之間御用番江向頂戴之仕候事
一申渡相済其座ニて前条之通書付を七人ニ
  相渡元之如退去之事
一同席申渡様有之身分伺有之節ハ
  例を茂相添奉伺不被遊御構旨被
  仰出候得者其段及通達候事
一御小姓頭より繰出召連身分伺有之節ハ
  即答之例ニ候事
    但寛永十二年七月田中加治儀同道人
    楯岡亥一郎を繰出洩候付伺出有之
    亥一郎茂同前之儀之処不罷出候付
    伺有之両人共一夜被受置候事      (p46完)     

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ご恵贈御礼「戦国佐久間一族」

2011-04-27 09:06:47 | 歴史

 佐久間一族吉原氏のご子孫・吉原実氏からご恵贈給わった。佐久間一族に関する論考をお寄せいただき、お許しをいただき当ブログでご紹介した。ご縁が広がり、全国佐久間会の佐久間凡雄会長からも先に御著をお贈りいただき、ただいま精読中のところである。
あとがきを読むと、吉原様・佐久間会長の資料がこの著に多くもたらされていることが記されていた。

 綿考輯録では忠利と佐久間家の関係をうかがわせる記述が見えるが、これが良くわからないでいる。加藤家に在した佐久間角介の子孫が細川家家臣となっているし。佐久間不干斎の旧臣・久野氏も不干斎の肝煎りで忠利に召しだされている。
なにかとつながりが伺える佐久間家だが、その詳細は窺い知れない部分がある。
ご恵贈いただいたこれらの本を通じて、新たな発見を期待している。

メモ:「戦国佐久間一族」 新人物往来社発行 楠戸義昭著

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿五)佐野御間申渡之式

2011-04-26 08:46:29 | 有吉家文書

  ○佐野御間申渡之式

       組外以下比着座
一申渡之書付等如例佐弐役より御用番江
  差出候事
    但鷹之御間申渡一同ニ有之節者
    鷹之御間申渡之書付例之通御奉行より
    順覧ニ差出其後佐野御間申渡之
    書付を鷹之御間申渡之書付之口ニ
    佐弐役手許ニて継候而佐弐役より
    直ニ御用番江差出候事
一同席通筋者鷹之御間申渡之通ニ而同
  御間外之御入側より繰付之前を踏通り
  佐野御間御入側之方 佐野之御間西御襖際より御床
  之前ニ参南向東頭ニ座着之事
一御用番者同御間南より横畳四枚目
  西より弐間を右ニ当繰付之方を向座
  着之事
一御用番座着之上ニて御小姓頭より繰出
  候得者同道人当人を召連同御間御敷
  居内東頭ニ平伏鷹之御間之通候事
    但同席之子跡目被仰付候節ハ同道
    人無之候事
一申渡相済其座ニ而御奉行・御小姓頭江
  書付相渡儀鷹之御間之通尤引
  続鷹之御間之申渡有之節ハ此所ニ而
  書付不相渡鷹之御間申渡相済例
  之通相渡候事
一右之通引続鷹之御間申渡有之候節ハ
  此所申渡相仕廻御用番先ニ立列座
  之面々之跡ニ付御奉行・御目附茂引
  添中之御入側より鷹之御間江参例之
  通座着之事
    但両御間之境御襖ハ建有之候事
一着坐之人隠居家督之節父子出方
  有之候得者子ハ大組ニて候得共父一同ニ佐
  野御間ニて申渡親出方無之子計之
  節ハ鷹之御間ニて申渡候事
一着坐之人隠居家督之節父子出方
  有之候得者子ハ大組ニて申渡候事
    但御用人平井太郎八隠居申渡後
    詰間江罷出候へも文化十一年七月廿一日
    御奉行町孫平太右同断之節ハ
    口之御間ニて致対面候事
一阿蘇大宮司も右御間ニをゐて分職
  御奉行同道申渡候事

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松野明美さんダントツ当選

2011-04-25 15:31:27 | 熊本

                     一期目当選の時(西日本新聞から)

 昨日の熊本市議会議員選挙において、かってのマラソンランナー・松野明美さんが11,196票でトップ当選しました(二期目)。2位は6,913票、最下位当選票は3,163票ですからダントツの当選です。

 覚えていらっしゃいますか。小さな体で42.195キロを走りゴールすると、ばったり倒れこんでいたあの松野明美さんです。熊本なまりが抜けないユニークなおしゃべりで、芸能界でも人気者でしたが、さすがの知名度での当選です。お子さんが障害を持っておられ、ご苦労がおありのようですが、持ち前の朗らかさと元気さで政治の世界でも活躍されることでしょう。議会を傍聴してみたくなりますね。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿四)諸御禮

2011-04-25 13:51:42 | 有吉家文書

   ○諸御禮 
   
    御目見等被為受候式
一平服ニ而 式目等ハ気懸之服ニテ候 御刻限半時懸
  出仕之事
    但多ハ五時出仕ニ付御用番之鍵者
    於御殿直譲之事
一ケ様之御式之節ハ伺御機嫌者無之候
  事
一御小姓頭より案内有之其節御礼人之
  名付を御用番江被差出候間丁口之人懐
  中御弓之間ノ御椽側通佐野中柱御間
  御入側境之御杉戸より入九曜御間
  御椽側列坐之傍ニ右名付被置候事
一御始前ニ九曜御間御入側ニ列
  坐いたし居御出座之節一同御辞宜
  直ニ頭を上居御肴箱御披露人持出
  候得者手を上候事
    但肴箱者御禮口より持出披露人ハ
    中柱御入頬之御衝立次より出ル
    御目見等多キ節ハ代合貫貫
    持参披露有之候事
一御次御禮ニ移候時風鳥御杉戸を御次番
  よりせキ候へも平伏ニ不及候事
一御禮相済
  御入之節茂例之通ニ而候事
一大御目附以下御近習之子弟茂表
  御禮ニて候事
一最前御小姓頭より受取之名付ハ相済
  候之上佐弐役江相渡候得者此書付を以
  名籍を直し候由之事

    於中柱御間申渡之式
       御備頭より御留守居大頭
       同列まて
一其方儀御用有之候間明後何日四時分
  御花畑江可被罷出旨奉行所名元ニ而
  及達候事
    但着座ニて候得者其方組何某儀と
    達候事
一召状申渡之書付取扱例之通候事
一明日中柱御間申渡人有候間
  例之通り可被相心得旨前日御小姓頭御
  奉行御目附江通達加御用人詰間江呼御用番より
  覚書一通宛相渡候事
    但御留守年者政府詰ニ付御小姓頭
    御用人江者以書面達之事
一当日御用番出方即刻右三役を詰間江
  呼今日於中柱御間何某申渡有之段
  口達例之通候事
    但繰出名付者相渡不申候事
一当日伺御機嫌有之候事
一当人平服 御礼日たり共平服也 出仕之事
一御小姓頭より案内有之例之通御間
  所江罷出御用番者中柱御間内
  東より横畳三枚目南より竪畳
  一間を左後ニ当九尺之所ニ御礼口向キ
  座着当人ハ御禮口外南向キ北之方江
  繰付ニ相成居宜時分是へと申候而三枚目
  に進ミ平服相渡元之様ニ退
  去之事
    但同道人無之候且又申渡之書付ハ
    退去之上於詰間御奉行江相渡候
    御小姓頭江茂右同断
一右相済詰間江為御禮出方有之
  候事
一大御目附者御在府ニても即日ニ堅メ
  有之候事
一御請書差上候其外諸達例之通
  候事
一御留守居大頭同列以上者御役被
  仰付候節之外御賞美等は捴而
  御留守年御役被仰付候節は此式
  之通ニ候事
  名代之節茂相替儀無之候事
    但名代者兼而詰間へ不罷出御役之
    人相勤候節ハ口之間ニ而御用番江
    御礼申上候

付札
  家伝之書
    御前御用申渡之時分御出坐不被為
    在之節之見合是迄見兼候付文政八年
    四月廿一日尾藤多賀允御留守居大頭
    被 仰付候節元来御前御用
    召候呼出を付尚々出方有之候上被差懸
    御疝積気ニて不被為在 御出座候付
    矢張御留守年之通中柱之御間
    直ニ申渡相済候事
    但右被差懸御出座不被為段御小
    姓頭・御用人・御奉行・御目附江ハ当
    日御用番より口達有之候事

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本日はいささか疲れ気味にて・・・

2011-04-24 22:20:42 | 徒然

 本日は少々早起きした。AM7:00前に家を出て選挙に臨もうと思ったのだが、新聞を読んでいるうちに時間が経過、「後にしよう」といつものぐうたら爺に戻ってしまった。
今日は「史談会」の例会の日、10時に始まる会場に入ったのは10分前、なんだかすっきりしない。二時間の例会の後は会場の近くで仲間と昼食、毎度のことでいろいろ話がはずみ、これが一番楽しい。帰ったら選挙に行こうと思いながら帰宅したが、すっかり心変わり・・・ぐだぐだしているうちに息子が選挙のために外出。こちらも行かずば成るまいと入れ替わりに腰を上げたのだが、歩いていくのも億劫な感じがしてチャリンコで出かける。記名台の前で投票すべき人の名前が出てこない。しばしたたずんで、候補者一覧をみるがこれがぼやけて見えない。漸く思い出して投票、下の名前があやしく帰宅して確認するとどうやら正解・・・ なんだ、この疲れ具合は・・・
メールのご返事を三本書いて、あとはぐだぐだ・・・・・で、今の時間と相成った。

なんとも体がだるくて仕方がない。こんな馬鹿話でお茶を濁すことをご容赦いただきたい。
明日もちょっと忙しいし、図書館にも出かけたいのだが?  さて・・ 

 

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ご恵贈御礼「孤愁の武人・佐久間正勝」

2011-04-23 16:35:27 | 歴史

 佐久間氏のご子孫・佐久間凡雄さまから、御著「孤愁の武人・佐久間正勝 寛永諸家系圖傳に則して」をご恵贈いただいた。先に佐久間氏のに関する論考をお送りいただいた、金沢の吉原様の御仲介によるものである。お二方に感謝申上げる。

 佐久間正勝は信盛の嫡子であるが、父信盛とともに突然追放されている。讒言によるものとされているが、信盛は翌年死亡、翌々年正勝は汚名も晴れて旧領を保障されて帰参、織田信忠の麾下となった。御著にもある如く、悲運の人である。不干斎と称し茶人として有名である。細川家に於いては三齋忠興との交流が色々な資料から伺われる。

 再々ブログでも取り上げたが、旧臣久野氏の細川家仕官に尽力しその礼文に対する温かい返書二通が久野氏のご子孫のお手元にある。御著の中でも紹介されているが、不干斎の人間性を感じさせる書状である。佐久間さまの多岐にわたるご研究は、ご子孫ならではと感じ入っている。又熊本には佐久間角介を祖とする佐久間氏が在る。なかなか資料が乏しく詳細を知りえないでいるが、なんとか成果を得てご連絡することが出来ればと念じている。

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白河以北一山百文

2011-04-23 09:40:21 | 徒然

 今日の熊本日々新聞の「新生面」に、仙台の河北新聞の社名の由来が書かれている。これは誰もが知っている「白河以北一山百文」から来ているわけだが、薩長土肥の新政府の誰かは知らぬが、大ばか者が発した言葉である。社名はその侮蔑の言葉をあえて冠して、反骨の精神を表している。

 まさか長州(山口県宇部市)生まれの菅首相が、白河以北の皆さんから大ブーイングを受けるとは思いもしなかっただろう。腰に手をやりあの不可思議なニコニコ顔が被災地訪問にはなんともそぐわない。天皇皇后両陛下の被災地訪問に、被災地の皆さんが復興への希望を見出されておられるが、菅首相の訪問はなんとも頼りない。

 私達は明治の戊辰期の奥越羽列藩への官軍の容赦ない仕打ちを学んできた。
福島における原発立地は、ひとえに大都市・大企業への電力供給の犠牲となっている。まさに「白河以北」の地に押し付けられた感がある。

 司馬遼太郎の小説「斬殺」は、官軍の参謀・世良修蔵に対する憎悪の結末を描いた悲しい筋立てだが、いささかの共感を感じるのは私だけだろうか。
会津に対する不条理な攻撃や、庄内藩にたいする西郷の不可思議な温情など、いまだ許しがたい感情が存在しているように思える。

 日本は何時になれば一つになれるのか、強力なリーダーの下で希望ある青図を示してもらいたいものだ。

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