津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

自転車

2012-06-30 19:00:30 | 徒然

 一月ほど前におんぼろ自転車を廃棄処分した。ないとないで大変不便である。ちょっと郵便局や本屋さんに出かけたりするのに、車は面倒だし歩くのはいやだし・・・ということがある。MBを購入しようと思っているが、我が家の財務省が「梅雨が明けてからにしたら」とのたまう。もっともな話だと納得・・・・

細川佳代子様のブログを拝見していたら、なんとオフィスには自転車で通い始められたらしい。証明写真まである。
                     http://blog.livedoor.jp/kayokohosokawa/
「安全走行をお願いいたします」

こちらも負けずに梅雨明けには地図を片手にあちこち走り回ってみようと思っている。 

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綱利の初入国

2012-06-30 14:04:47 | 歴史

 七歳で大国肥後国の太守となった綱利は、十九歳になり始めて肥後の地に入ることと成る。生母清高院の派手な生活や、綱利自身の乱れた生活に家老松井興長は強烈な諫言を行っている。しかし遠く離れた江戸と熊本では、側近らのあり様も含め興長の思いは空しいものの様であったらしい。

この時期定府の奉行に堀江勘兵衛なる人物がいる。光尚に仕え綱利の側近となり出頭した人物である。家禄200石がまたたくまに1,000石の大身となった。
寛文元年3月27日江戸を初駕した綱利は、4月28日初入国する。(江戸初駕、入国の日については異説あり)そして強く綱利や清高院を戒めていた松井興長が6月28日に死去する。そんな中綱利の側近中の側近である堀江勘兵衛が知行を召上られる。理由は藩主の初入国があまりにも華美に過ぎ、家老の怒りを買ったとされている。綱利に限らず、江戸藩邸に於いて家門につながる側近や出頭した人たちの驚きようが目に浮かぶ。一人勘兵衛が貧乏くじをひいたのかもしれない。綱利は熊本にとどまること五ヶ月に満たない9月18日、逃げるように熊本を発している。

江戸に帰った直後の、寛文2年正月には龍口邸が焼亡、12月には松平讃岐守養女との縁組が仰出される。(寛文3年6月12日婚姻)
これらのことにより、「家中の家屋敷の新規作事や修理を最小限に止め、衣類は紬・木綿の他は着用禁止、新たに作ることも見合わせ、振舞・贈答もやむを得ないもののほかを停止する」旨を家老名をもって通達した。細川家は財政破綻の危機の中にある。 

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一人の命

2012-06-30 09:23:02 | 歴史

 この一塊の木片のあまりの値の高さに、横田某はその購入に反対する。一方興津弥五右衛門は主命だからと横田に対する。
二人は心ならずも刃を合わせ横田は殺されてしまう。この香木は一人の命を奪った。

忠興はこの香木を手にしてご満悦の躰である。横田の遺族に対しては遺恨を持たぬようにと諭し、興津は罰せられることもなかった。
この著しい差は何なのだろうか。とどまるところ興津の仕合が「御意に叶うた」ということであろう。
何があったのか横田の遺族は細川家を離れている。細川家がこれを留めることもしていない。横田の無駄死にこの時代を生きる難しさを感じる。

綿考輯録を読むと興津弥五右衛門に関わる記述が詳細を極めていることに気づく。そして殉死にいたる華やかな状況が異常である。
これはいったい何故なのだろうと不思議でしようがない。森鴎外が小説にしたて拍車をかけ、興津を高名ならしめた。

この一塊の香木は「白菊」と名付けられている。この香を聞くとき三齋の脳裏に横田の顔が浮かぶことは無かったろうか・・・・

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銭亀橋と御成橋見付枡形

2012-06-29 16:37:29 | 地図散歩

 
寛永13年1月初旬、江戸城総郭の造営が始まり、細川家は銭亀橋の架橋と御成橋見付枡形を受け持つことになる。総奉行は松井興長が勤めた。
銭亀橋とは細川家上屋敷(龍之口邸)の前にあった道三堀の道三橋の上流程近い場所である。昭和35年に発刊された「江戸城とその付近」をみると、銭瓶橋としている。初めて橋が架けられたのは慶長期のようで「慶長見聞集」には、この場所から銭瓶が発掘されたと記されているという。小さな橋だが切絵図でも確認できる。
一方の御成橋見付の枡形は延べ164間に及ぶ大工事であった。幸門とも呼ばれ将軍家の増上寺参詣の道筋に当っている。溜池につづく外堀に虎の門・新橋・幸御門(御成橋門)・土橋・難波橋・芝口橋と続いていた。現在は新橋駅から有楽町よりの高架の下となっているらしい。櫓門は津軽家が担当した。 

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拝領物御礼

2012-06-28 11:23:10 | オークション

                   細川三斎 忠興 書状/古文書 古書 茶の湯 利休 大名_画像1
                              細川三斎 忠興 書状/古文書 古書 茶の湯 利休 大名



                          祐筆の筆になるものだろう。自筆ではないように思える。
                          署名のみ行い花押も面倒なのでローマ字印を押したという感じ。
                          寛永四年参府して中津に帰った三齋は、寛永五年初めから一年十ヶ月ばかりを中津で過ごしている。
                          長岡河内は三齋の側近・村上八郎左衛門景則(10,000石)のことである。 

                                        口上
                               為音信丁子拾斤到
                               来感悦候尚長岡河
                               内可申候也 
                                           寛永五六月二ゝ
                                                  宗立○

                                          貫長者丸殿 

     

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ヤツシロソウ

2012-06-28 08:48:13 | 新聞

 名前は知っているが実物を見たことがない。
              http://kumanichi.com/news/local/main/20120627005.shtml

未来の森ミュージアムでは平成24年6月5日(火)~7月22日(日)の間、 道中風景絵巻 ~殿が訪れた観光スポット~ 展が行われている。
タイミングよく拝見できそうだ。梅雨の合間に出かけることにしよう。 


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芦村十郎左衛門と成田十左衛門

2012-06-27 16:03:30 | 歴史

 天草島原の乱に於いて長崎奉行榊原職直とその子・職信は鍋島勢の目付けとして手勢を出した。旗本であるため手勢は精々1,800程であったと言うが、日ごろ誼のある忠利が加勢の為に家臣を付けた。芦村十郎左衛門もその一人である。
ご承知のように2月28日総攻撃と決められていたが、前日の27日鍋島勢が抜け駆けをし、これが切っ掛けとなって幕府軍が場内になだれ込み双方に多大な死傷者を出したこの戦が終結した。
榊原職信は18歳であり芦村十郎左衛門が付き従った。榊原親子が鍋島勢一番乗りとして場内に入るのだが、その手助けをしたのが牢人・成田十左衛門である。戦においては軍律が一番重要視される。鍋島家は当然のことながら、目付けの榊原氏もお咎めを受けることになる。しかしながら勝利の切っ掛けともなったこれらの行為は罪を得ることはなく無事に済んだ。

                   http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/sakakibaraMotonao.htm

芦村十郎左衛門はこれを切っ掛けとして加増され千石の大身となった。牢人成田十左衛門は後年、榊原職直の申し入れにより細川家家臣となる。(300石)

細川勢においてこの状況を的確に判断、押し出しを命じたのは若き光尚である。この指示こそが大勝利への第一歩であった。 

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上田久兵衛顕彰碑

2012-06-27 13:22:09 | 徒然

 禅定寺にある高祖父「上田久兵衛顕彰碑」である。先にも記したが、この顕彰碑は久兵衛が命に代えて、町を戦火から守り抜いた川尻の町民の皆さまの浄財で建設がなされた。その名簿が私の手元にあり、これを見ていると本当に皆様の気持ちが痛いように伺える。一人ひとりの皆様の手を握り、御礼を申し上げたい気持ちにさせられる。久兵衛が罪を得て斬首されてから135年、私はあと15年生きて150回忌をこの碑の前で行いたいとひそかに考えている。生きる励みにもなるというものだ。

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59年前の今日

2012-06-26 11:23:13 | 熊本

                    http://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?cat=60
梅雨の晴れ間といった今日を迎えた。今日は6月26日、昭和28年(1953)熊本は未曾有の大水害に見舞われ、我が家も鴨居まで水が上がり財産を失い、そしてなんとか命を拾った。雨が降る日には今でも悪夢で目をさますことがある。数ヶ月にわたり熊本は汚泥が積み上げられた町と化した。あの悲惨さを味わいたくないと思い、私は高い土地に家を建て、転居するに当ってもこの条件を優先した。

 現在「子飼橋」が架け替え工事中である。
  http://www.kumamoto-keizai.co.jp/content/asp/dejikame/dejikame_detail.asp?PageID=20&Knum=14134&PageType=top1

熊本市を貫流する白川は、この子飼橋の上流で大きく蛇行している。数日続いた大雨は、上流の阿蘇地方から勢いと水量をまし、左岸の大江地区を大きくえぐりとり、多くに人が濁流に飲み込まれて亡くなった。500名以上の方が犠牲となられた。
私の母校・大江小学校においても10数名(数がはっきりしない)の学友が命を失った。今日も現地の川原では慰霊祭が行われているであろう。橋が架け替えられ周辺の景色も様変わりしていく。紅顔の美少年(?)が70歳になるほど歴史は遠のいているが、この時期になると亡くなった友の顔が浮かんでくる。合掌

                     http://kumanichi.com/news/local/main/20120626004.shtml

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熊本の高麗門はなぜ高麗門とよぶのか?

2012-06-25 12:18:36 | 徒然

 新幹線の高架にそって在来線の高架工事を始めるに当り、新町・横手町界隈では高麗門遺構から妙解寺御成道路遺構の発掘作業が行われている。
文化財的価値も含め、なるだけ遺構にかからないように橋脚の位置を決めようという配慮が見受けられる。結構なことではある。

すでに高麗門(?)の基礎部分の一部が顔を出し、その規模の概要が明らかになりつつある。
そして「高麗門」とよばれているこの門は実は「櫓門」であることは、富重利平氏が明治期に写した写真でも知られている。
なぜこれが「高麗門」と呼ばれているのかが良くわからない。

例えば江戸城の桜田門に於いては、堀を渡るとすぐに外桜田門があるがこれが「高麗門」、枡形の奥に「櫓門(渡櫓門)」がある。
通常これがセットになっている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80

桜田門における櫓門が、ここ新町では「高麗門」と呼ばれているのである。専門家にぜひともお尋ねしたいと願っている。
             

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熊本藩年表稿

2012-06-24 08:56:40 | 史料

 先に「熊本藩年表稿」がWEBにロードアップされていることを書いた。
 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/15049/4/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E8%97%A9%E5%B9%B4%E8%A1%A8%E7%A8%BFr2.pdf
すでに写真のようにプリントアウトしておられる方がある。全部で418ページ、厚さにして5センチほどにもなる。

私も負けじとプリント開始、只今100ページを完了。そろそろ紙とトナーを補給する必要がありそうな気配・・・・ 

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袖判

2012-06-23 17:08:33 | 徒然

そではん【袖判】

 文書の右側の部分(袖または端という)に花押を記すこと,またその花押。中世武家文書に多くみられる。花押は通常奥の年月日を施した下に据えるが,差出者と受取者との間に身分上隔りのあるときに袖判を用いることがある。平安時代の中ごろよりみえ(寛治3年(1089)9月22日の大宰府下文(くだしぶみ)案が初見),ついで知行国主の庁宣に用いられた。中世において源頼朝の下文は,はじめ奥に花押を記したが,1184年(元暦1)以降袖判となった。

細川藩においては、藩の借銀などにおいて藩主が花押を著すことがあった。
熊本大学・吉村豊雄教授の「大名の借金証文」に詳しい。
                   http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/10335/3/Tokogen031_2.pdf

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肥後の三人娘

2012-06-23 10:53:59 | 徒然

 昨今大きな人、小さな人、身体に障害を持った人などをTVが見世物のように放映しているのが見受けられるが、こういう番組を作り芸能人らがわいわい言っているのを見ると虫唾が走ってしまう。この「肥後の三人娘」そろって大女であったがゆえに見世物にされてしまったらしい。なんとも気の毒な話だが、他愛無い話でもある。

十七歳・十三歳・九歳のお松・お竹・お梅の三姉妹は、加藤清正公に念じてこの様な大女に生まれたという。見目よく評判となり深川あたりで興行がはられたらしい。二度目というから余程の評判であったのだろう。
先の大空武右衛門といい、この三姉妹といいお江戸の人たちは肥後という国はでかい人間が多いところと思っていたかもしれない。 

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御恵贈御礼「隣人」

2012-06-22 13:28:18 | 徒然

東京在住の近世史研究家の佐藤誠氏からご恵贈給わった。深く御礼申し上げる。
これは「草志会」という同人の会誌として発刊されているが、25号として版を重ねている。 

畏友佐藤誠氏は近世史研究家で特に赤穂藩浅野家・森家の研究に活躍をしておられる。赤穂義士に関する研究にも幅広く関わられ、今般の論考「赤穂義士・間新六の姉婿 中堂又助」もその延長上にある。
赤穂義士はそのすべてが泉岳寺に葬られたわけではない。間新六は姉婿・中堂新六(老中・秋元喬朝の家臣、後退身)が遺骸を引き取り築地本願寺運んで埋葬した。遺品も同寺に残されている。
                        http://www.ako-minpo.jp/news/5889.html 
又助に関する書状から、義士の遺族の生活の困窮振りなどがうかがい知れる。大変興味ふかく拝読した。


又その他の論考もそれぞれすばらしい内容である。精読をしなければならない。
 

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岩間何五郎正豊

2012-06-21 21:21:14 | オークション

                  (画像を削除致しました 6/23)

【巻物めくり】細川越中守家来? 在銘 視聴言動 まくり*江戸*8 

          私は別段ヤフーオークションの回し者ではないことを宣言しておかなければなりません。
          よほどのことがない限り応札もしませんし・・・・・
          真贋の程もわかりませんが、一応情報をお伝えしようと思います。

          武田信玄の長男・ 武田太郎義信の子、岩間六兵衛は、小笠原秀政女(徳川秀忠養女)千代姫が細川忠利に輿入れする際、
          小笠原家から隋伴細川家家臣となりましたが、この何五郎正豊は岩間六兵衛の三男(初代)の家筋の三代目に当る人です。

        3、主鈴・正豊(養子 実・浅山平太夫宗円三男 初・浅山何五郎)
            元禄二年児小姓・別禄五百石 両度加増新知五百石・加増八百石 
            都合千八百石 用人
            正徳元年親跡式拝領、都合二千八百石 家老脇 正徳六年五月江戸歿

            宝永五年閏正月(着座)~正徳二年七月 用人
            正徳二年七月(用人)~正徳六年五月(病死) 旅家老(家老脇トモ)
 

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