津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■妄想の果て

2015-01-31 15:00:51 | 徒然

 頭痛がすっかり消え去り七時過ぎに起床、絶食状態が長く続いたので胃に負担にならないように昨晩に続いて今朝も一杯のお茶漬ですます。
ときおり身体が左右に揺れてまだ平衡感覚が完全に戻っていない。明日いっぱいには何とかなるかなー ・・・・・・? 

完全に寝込んだこの数日の中で思いがけない副産物があった。
多分26日のことだと思うが、頭痛に悩まされながらも細川齊樹に徳川家斉の妹・紀姫(蓮性院)が嫁いだあたりのことを考えてウトウトしていた。ところがとんでもない妄想に駆られ痛快時代小説(?)一巻のあらすじがあらかた出来上がってしまった。

このあらすじは、昨日(30日)の朝までいろいろ補強されてひとまずの決定稿になりつつある。今朝から私はとりあえずこの荒唐無稽とも思えるこの話を何とかタイピングしてみたいと考えて、登場人物にまずは名前を付けるためにメモを取り始めた。
なんとバカなことをとお思いであろうが、これは証拠をお示ししなければならない。

 

                       将軍家斉
                       老中

                       藩主太田信斉
                       夫人典姫(将軍家斉・実妹)

                       太田図書(信斉叔父)
                       夫人寿姫
                       嫡子・勝一郎

                       家老・巻田善左衛門
                       江戸家老・内田藤兵衛
                       右筆・磯田甚右衛門
                       嫡子・磯田武兵衛

                       二男・安藤陳四郎           等々である。 

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■何とか起き出しました・・・・・

2015-01-30 12:20:25 | 徒然

 本日数日ぶりにPCを立ち上げ、多くの皆様からご心配をいただきましたことに驚いております。
有り難く御礼申し上げます。
今朝何とか通常の生活に戻そうと考えて何とか起き出しました。ブログを休みました期間は終日床から離れるることなく、頭痛に悩まされ食事も受け付けず、わずかに私の好物のかんきつ類を5・6片口にするだけですごしました。昨晩に至りさすがに家内が心配しおかゆかお茶漬でも採れと云うのを一膳だけ戴き、又久しぶりにシャワーをあびて人心地がついたところでした。新聞・TVも遮断して過ごしましたので浦島太郎の気分です。

10日ばかりで体重が5キロダウンしました。もっともすぐ元通りになるのでしょうが、何とか半分ほどに抑えようと思っています。
全く食欲がありませんから案外達成できそうです。今日・土・日三日間安静にして体力を回復させ復帰しようと思います。

多くの皆様にブログにコメントを戴いたり、メールを戴いたりしておりますが、ご返事が遅くなっておりますことお許しください。

皆様にもくれぐれもご用心なさってお過ごしくださいます様お願い申し上げます。

 

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■いやー参りました!!

2015-01-26 10:52:17 | 徒然

 昨日は9時就寝今朝7時起き、寝汗をかいて目が覚めました。頭痛は治まりつつありますが体の節々が痛く、難儀しております。
熱発がないのでインフルエンザではないとおもいますが、こんな症状の風邪?ってあるのでしょうか。いやー参りました。

そろそろブログに本格復帰を果たしたいと思っているのですが・・・さて 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記
何もする気がしなくて全豪オープンをみたりするうちに、金原亭馬生(11代)の「井戸の茶碗」を放映する事を知ってチャンネルチェンジ。
落語は YouTube やTVで視聴するのみだが、この演目はなんともいえない人情味にあふれる内容が大好きで、細川フアンの私としては嬉しい30分となった。この人は地方出身の落語家が増える中、銀座生まれというチャキチャキで江戸の風情があふれている感じがする。

何となく元気をもらって、また全豪オープンに切り替えて応援である。         

落語「井戸の茶碗」の舞台を歩く                                         15:53記 

 

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■昨日に引き続き・・・

2015-01-25 09:43:29 | 徒然

 熱はないのだが頭痛がひどく、昨晩も19:30就寝。今朝は8:30起き、13時間もねてしまっつた。
すっかり寝汗をかき起き出してシャワーをして、シーツの洗濯を奥方に頼み毛布を干す。きょうはここまでやれる様になったから、快方気味なのであろう。
食欲がなくコーヒーも受け付けない。相変わらずひざ痛があり部屋内を伝い歩きするありさまで、自分ながら本格的老人域に入ったなーとため息である。

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■寝だめ

2015-01-24 15:38:26 | 徒然

 昨日は寒さと頭痛、節々に痛みが出て、これは寝るに限ると19:30に就寝、12時間30分の睡眠をとった。
そしてまったく寝付けず、何度も時計を確認したが、多分寝付いたのは朝の4時半くらいではなかったか。
発熱はないしいったいこれは何?・・・・という感じだが、暖房をつけていても胴震いがする。
まずは市販の頭痛薬を飲んだところ、強烈な眠気がおそいイスに座ったまま居眠りしてしまった。
昼食後奥方が出かけたので、又ベッドに入り2時間半程睡眠、都合16時間の睡眠と相成った。
今は頭痛は収まっているが、長時間の睡眠で腰のあたりが痛くてしようがない。

今日は何にもする元気がなく、ブログもこんな塩梅です。
インフルエンザが流行しています。皆様も十分お気をつけください。 

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■風邪の流行

2015-01-23 13:35:20 | 史料

 新暦・旧暦の違いはあるが、文政四年(1821)の正月廿二日頃は風邪が流行していたらしい。「度支彙函」に次のような面白い記事が載っている。

 【八九七】
    一、風邪流行ニ付、諸御役間詰之面々長髪被成御免相老段、御用番被申聞候條、
       左様可被相心得候、以上
            正月廿二日         御奉行中

 旧暦の文政四年正月廿二日といえば、グレゴリオ暦によると2月24日である。そんな時期に風邪が流行っていた。
そこで防寒対策として長髪が許されたというのである。つまり「月代」をそらずに出仕してもよいという訳である。
見苦しいよりもまずは風邪をひかず、火とにうつさず業務に支障がないようにとの配慮であろう。
ご苦労様・・・・・・・・・・・ 

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■松寿庵先生 第128講

2015-01-23 11:31:25 | 史料

                                        カラスミは天草の名産でもありますョ。

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■立政公御参勤 道中日記をたどる・番外編 (伏見→髭茶屋追分→大津)

2015-01-22 14:47:42 | 歴史

 伏見入りした立政公の一行はあわただしく伏見での用をすますと旅立っている。京へは入らず京街道(東海道57次)から大津へ向かったものと思われる。
上羽氏の記録では伺えないが、伏見からいきなり草津小休とあるのは、このルートを通ったと考えるのが妥当である。
いわゆる東海道57次のルートは山科の髭茶屋追分から京都を迂回する形で伏見へ抜け、大阪へ至っている。
これには西国大名が参勤交代の際に京都に立ち寄って皇室や公家と接近することを避ける目的があったと言われている。
立政公も同様の意をもって伏見から山科(髭茶屋追分)へと向かったと考えられる。

                         
                   黄色い印が髭茶屋追分             追分の石碑には「ひたりはふしみみち」「みきハ京みち」とある

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■便利もの

2015-01-22 08:16:35 | 徒然

 「立政公御参勤 道中日記をたどる」の瀬戸内海の旅を地図にプロットしようと思い立った。
手元に嘉永六年某氏が旅した折の同様の地図(コピー)があり、これをお手本にしようと考えた。
これは某氏の道中記をもとにご子孫が手書きの地図に船旅の宿泊地を書き込まれたものである。
幸い私は瀬戸内海を挟んだ中国・四国の地図を所持しているので、これをベースにトレシングペーパーに写そうと考えた。
小さな島々が無数にある瀬戸内のどこまで写すかというのは難問である。 

ふと白地図を提供しているサイトKenMap911を思い出してこちらにアクセス、これをいろいろ眺めているうちに国土地理院のサイトにたどりついた。(いろいろお世話になっているサイトだ)
最大限にクローズアップして所定の場所をプロットし、同様の作業を繰り返す。大変簡単な作業である。これを白地図化するもよし、ワンクリックで終了する。
あとはプロットした位置を線で結べば完了なので一応ファイルに登録して続きの作業とすることにした。

今朝ほどファイルを開いてみると、画面表示がPC画面上1/3くらいしか表示されない。ムムまたPCのトラブルかと思ったらそうでもない。
どうやら私が考える作業は「申請」が必要であるらしい。申請のないものについてはこのように表示が規制されてしまうようだ。
申請と云っても申し出みたいなもののようだから、それはそれでよいのだが・・・・・・・

何度も失敗をしているうちに、小倉→下関→田浦→室津→家室→御手洗→下津井→日比→出崎→坂越→室→(大坂)安治川 の場所をあらかた覚えてしまうという余恵に預かった。

この地図があれば、いろんな道中記の船のルートをプロットできる。
国土地理院の地図ではわが散歩コースの標高差や距離などを知るのに重宝しているが、このたびもこのような使い方を覚えて有り難いことではある。
さて申請をさせていただくことにしよう。 

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■お安く読む・文春文庫「萩を揺らす雨 紅雲町珈琲屋こよみ」

2015-01-21 16:07:03 | 書籍・読書

 

 萩を揺らす雨―紅雲町珈琲屋こよみ (文春文庫)
             吉永南央
             文藝春秋


なにか肩の凝らない本を読んでみたいと思っていたら、文春文庫の「萩を揺らす雨紅雲町珈琲屋こよみ」を見つけた。
「本のはなしWeb」でも取り上げられていた。 http://hon.bunshun.jp/articles/-/1278

私の好きな「萩」「珈琲」の文字が身に飛び込んできて・・・決まりである。
シリーズものの「名もなき花の」「その日まで」もみんな一遍に買ってしまおうと注文した。

何でも主人公「お草さん」を富司純子が演じてNHKでドラマ化されているらしい。http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/8000/194665.html

 

         

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■杖にすがって・・・

2015-01-21 08:22:53 | 徒然

 健康維持のために続けていた朝の散歩が裏目に出たのか、すっかり左ひざを痛めてしまいました。
17日の史談会で1時間ほど立っておしゃべりしたのが良くなかったのかもしれません。車を運転して帰り、車を降りる際には痛みが走るようになりました。
以前購入した膝専用のサポーターが行方知れずでしたが、昨晩資料の山の中から発見、今朝からこれをつけてみました。
ここ数日歩くたびに「痛てて/\」を発し奥方からひんしゅくをかっています。

以前息子が靱帯断裂をして手術入院した後購入した杖が残されていて、是が役にたってトイレに行くときなど杖にすがる有様です。
「見苦しい・・」と奥方が顔をしかめていますが、まさに「すがる思い」なのです。

19日に73歳になり、「歳をとる」ということを実感させられています。せいぜい脳を活性化させて目標の2020年にむけて頑張ろうと膝をなぜながら考えています。昨日は大寒、これからは春に向かい暖かくなることですし少しは調子も良くなることでしょう。 

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■大高源五右衛門の鎖帷子

2015-01-20 10:17:16 | 徒然

 史談会の終了後A様が近寄ってこられ、「歴史秘話ヒストリア」で赤穂義士のことをやっていたのを見られましたかと仰る。
心当たりがないがそう遠くない話らしい。大高源五右衛門のことも登場したらしく、話はそちらに移った。
A様のお宅に「大高源五右衛門の鎖帷子」が有ったというのである。話は古くなるが太平洋戦争で蔵が被災して燃え、大事なものを一切失ったといわれる。
御母堂の悲嘆ぶりが強く印象に残っているといわれるが、特にこの品物を失ったことを残念がられていたという。
御話からすると母屋は被災せず蔵だけが直撃弾を受けたらしい。

A家は細川家世襲三家老の一つA家の分家筋にあたられるが、こちらも家老を輩出された御家柄である。
当時の御当主が江戸詰めでもあったのだろうか。 貴重な史料がこのような形で失われた。

最近文書類がオークションなどに出品されて拡散している。研究者の膨大な資料が遺族の手により遺棄されたりしている。熊本近代文学館が歴史資料の保存や研究、公開展示をしようと組織を改編して、新しく発足する。
私は規模においていささかの不満があるが結構な話だと考えているが、文学関係者には不評らしい。 

某先生が残された膨大な資料や書籍の行方が気になって仕方ないし、知人友人が所蔵する貴重な書籍・史料などもなんとか散逸しないようにと願うばかりである。

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■真木村と合志氏

2015-01-20 09:10:13 | 歴史

 史談会の会員K氏が長瀬真幸の「山分け衣」の読み下しにチャレンジしておられる。
これは真幸自身が熊本から合志郡真木村祭に参拝のために出かけた記録であるが、私は祭りが行われたという場所真木について全く知識を持たない。肥後文献叢書・第一巻の「古城考」から「真木古城」にある内容をを全文ご紹介しようと思う。

竹迫(タカバ)代家傳に云、近江源氏佐々木四郎左衛門尉高綱、末孫四郎左衛門長綱、大友家の裁許に依りて、建長二年(1250年)に合志半郡の地頭職となり、同郡真木村 里俗今城と云 に居住し合志民(氏カ)と稱す爾来子孫相續して住吉館に居れり、合志氏両家あり、中原姓竹迫の合志氏を里俗地ノ合志と稱す、源姓佐々木氏を下り合志氏と稱す、川久保日記に云、川久保三郎と云ふ者合志侍にて梅杏を固めし者也、彼が書の日記なり、子孫枯木町にありと云 合志家基は、佐々木近江源氏也、叡山の貢物を取立つる役なるに、或時麁略有之故催促の使度重れども不出合、却つて怒り及合戦、敗弊して他国へ走り、人を顧みて向後麁略す可からすと肯ひ、復麁略ありし故山徒集り調伏す、依之様様祟り有る故、吉良、大林、石坂、渡邊等を従へ、忍んで出奔し、衆徒等の道を遮り塞く故、伊勢路に懸り、播磨より豊後竹田の津に航海して、後當郡真木村に潜居すれども、叡山の聞えを恐れ、名を隠して、二郎丸、三郎丸とて紛居たり、子孫二つに分れて、一つは中窪田(大津町)に住めり、一つは住吉(菊池市泗水町)に移り、是を山の合志、里の合志の分れと云ふ 長綱を祖とすれば年代甚だ麁略す、是非を知らず


「山分け衣」の書出しに「こうしのこほり(合志の郡)真木の村に坐す大神の御祭は神奈つきのもちの日なるをその祭りの日なむ」とあるが、その大神とは現在の真木大神宮のことであろう。
                  http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/siseki/_9589/_9631.html

近くに真木城という古城があったとされるが、これについても詳しい資料を知らない。 http://nihonnojoushi.digi2.jp/kumamoto/maki.htm    

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■鎌倉松葉ヶ谷・妙法寺

2015-01-19 14:18:35 | 歴史

 ヤフオクに 鎌倉 松葉ヶ谷 妙法寺 本堂(細川家建立) という絵葉書が出品されている。
細川家と言っても熊本とは限らない。疑問に思いながら妙法寺を調べてみると、確かに細川家が本堂を建立したと記されている。全く知らなかった。

                       

開山は延文2年(1357年)のこととされるからずいぶん古いお寺だが、「11代将軍家斉の代将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされ、明治中期までは境内に将軍御成の間が遺されていた。また、現在の本堂は文政年間に肥後細川家により建立された。」ものであり、細川家の本堂建立は「幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため建立」された。

文政時代の細川家の当主は、齊樹か齊護である。齊樹には女子が二人有るが最初の御子は文化七年に生まれた泰(トヨ)姫で十数日後に亡くなっている。二番目の御子篤姫は翌八年の生まれ、文政三年宇土支藩の立政(後の齊護)と婚約するも同七年四月十八日に江戸で卒し妙解院に葬られた。

一方齊護の姫で文政年間に亡くなった御子が一人おられる。寅姫がその人で、文政十一年十月正室が出産翌十二年六月に亡くなっている。

さて何方なのだろうか。本堂まで建立して弔ったというのだから、将軍家齊と同じ一ツ橋家出身の齊樹夫人が、側室の腹にできた姫ながらわが養女となして立政と婚約させた篤姫が有力か・・・・・・・・・・・・・・・・何方かご存知であればご教示給わりたい。

そして「鎌倉様」と呼ばれた細川家当主があったとされるが、これが何方なのかも判然としない。なんだかこのあたりにヒントがありそうな気がしている。

 

 

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■立政公御参勤 道中日記をたどる 「おさらい編--小倉」

2015-01-19 09:50:06 | 地図散歩

小倉城下の全体図である。御城の上部が二の丸、紫川を挟んで向かい合う町を唯一結ぶのが常盤橋である。橋の左手に勢屯がみえるがその左手一角に御茶屋があった。立政一行もここに止宿したのであろうか。                    

   
お城から紫川の河口を望んでいる。常盤橋の下流左手に船溜まりが見え、立政一行約200人は鶴崎から回航された船に乗って下関へ向けて出港している。

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