津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■千葉城を勉強しよう

2022-04-30 13:05:58 | 講演会

          千葉城については今まではあまり語られてきませんでしたから、この機会に大いに勉強しましょう。

          

             「熊本市政だより」から

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■昨日の新聞から「不自然カーブ史跡を守る」

2022-04-30 06:01:29 | 熊本
                                           印が宝光院、左手が智照院、右下に臨流庵が見える。
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■肥後文献叢書第二巻のはしょりすぎな編集(一)

2022-04-29 13:58:40 | 書籍・読書

 先に続撰清正公記について触れた。これは「肥後文献叢書・第二巻」に掲載されているのだが、内容がすごく欠落していて物の用をなしていない。
武藤巌男・宇野東風・古城貞吉といった錚々たる人たちが編集人となっているが、大いにがっかりである。
随分この叢書の価値を下げているように思う。

自分自身ご苦労なことと思うが、けちをつける以上はその状況を開示する責任があると思い、少々長くなるがご紹介したい。
二回に亘りご紹介する。□□□□表示した項目は記事がない)

 続撰清正記・巻第一目録
   第一・清正公秀吉公へ奉公に出らるゝ事
   第二・秀吉公因幡國鳥取の城責加藤虎之助働の事
   第三・秀吉公備中國冠城責清正働の事
   第四・秀吉公山崎表において日向守と合戰清正物見の事
   第五・秀吉公瀧川左近将監誅伐近江新七うちじにの事
   第六・柴田一類誅伐之事戸浪隼人討死の事
    續・志津嶽合戰物語の事
   第七・織田信雄卿秀吉公合戰の事
   第八・秀吉公九州表へ御出馬島津義久和睦の事
   第九・秀吉公より佐々陸奥守家來どもに下さるゝ御書の事
    續・清正肥後國拝領いたし度旨望まれ候事
   第十・肥後國天草志岐林専一揆の事付主計頭小西行長へ加勢の事
   第十一・志岐落城主計頭はたらきの事
    續・天草合戰の事
    續・木山彈正を討給ふ事
    續・加藤善右衛門働の事加藤清兵衛横鑓の事
    續・一番備二番備の頭相違の事
    續・天草にて諸卒せんさくの事
    續・南部無右衛門事
    續・木村又蔵事

 続撰清正記・巻第二目録
   第一・本渡落城の事
    續・本渡の城より夜中鳥獣出たる事
    續・本渡落城の時女人はたらきたる事
    續・金延(のし)付之刀わきさしの鞘斬とらるゝ事
   第二・志岐本渡落城の様子秀吉公へ清正御ものかたりの事
   第三・秀吉公小田原責たまふ事
   第四・秀吉公主計頭に朝鮮御諚仰付らるゝ事
   第五・主計頭釜山につき給ふ事付秀吉公より御書つかはさるゝ事
    續・釜山浦にて牛に乘る事
    續・釜山浦にて着船のとき毒酒呑事
   第六・主計頭筑州に着陣の事主計と小西口論の事
   第七・清正朝鮮の都に着給ふ事王子兄弟いけどりの事
    續・王子御兄弟を追咸鏡道押行時の事
    續・王子御兄弟生捕事
   第八・清正おらんかい表の働の事ゑんたん落城の事
   第九・清正陣所へおらんかい人夜討則唐人敗北の事
      付清正内裏へ押詰火をかく帝王都を落給ふ事
   第十・清正鏡の城へ歸陣おらんかい人狼藉糺明の事
   第十一・清正王子官人等召具し吉州へ歸陣梅天といふいくさの事

 続撰清正記・巻第三目録
   第一・大明勅使に清正對面大王よりの勅書披見の事返書美女殺害の事
    續・朝鮮美女殺害相違の事
   第二・清正おらんかい朝鮮人等軍の事唐人敗軍都静謐の事
   第三・清正と諸大將問答の事かせんぼ川の陣所へ夜うちの事
   第四・朝鮮王子歸京の事王子より主計へ禮書の事
   第五・晋州落城森本飯田後藤堀先陣後陣論の事
    續・晋州の城の物見の事
    續・晋州の城責の時龜甲作る事
    續・秀吉公御感狀義太夫角兵衛名の字不審の事
   第六・小西行長秀吉公へ清正を讒言する事
   第七・清正歸朝御勘気蒙らるゝ事
   第八・大地震の事清正登城の事
    續・右の大地震のときの様子の事
    續・梅木田民部と云者本渡の城をとりしを策を以てとりかへす事

 続撰清正記・巻第四目録
   第一・清正勘氣御赦免の事行長讒言露顯事
   第二・梁山南原落城の事
   第三・大明人朝鮮へ百萬の人數催す事
   第四・清正居城蔚山へ揚鎬呉惟忠百萬騎にて押よする事
    續・蔚山へ大明人寄せんとする時西生浦より清正蔚山へ籠らるゝ事
    續・蔚山城へ入時の軍令の事
    續・蔚山籠城の事
    續・加藤清兵衛蔚山の城へ入んとする時の事
    續・大明人謀に退散せし事
   (續・漢南人共の城を責たる様子の事)・・・・・抜けか?本文有
    續・漢南人楯の板をとる事戰中働之事
    續・蔚山の城にてふしぎともある事
    續・高麗陣中働に甲乙次第ある事
    續・朝鮮古都にて草刈を追來たるに出合漢南人とはたらきの事
    續・枯木を敵の旗と見て日本勢敗軍の事

 

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■熊本城着工「慶長六年説」の拠り所

2022-04-29 08:37:54 | 先祖附

現在では熊本城の着工は慶長三年がほぼ定説となっているが、これは「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」からくるものだろう。
それまでは「続撰清正記」にある具体的な着工の日付に従っていた。処が慶長四年の銘がある瓦などが発見されルに及び、此の節の信憑性も不確かなものとなった。
肥後文献叢書(ニ)にこの「続撰清正記」が紹介されているのだが、肝腎の「熊本の城新にとりたて給ふ事」という記事は欠落している。(この本は編集段階で多くの記事が欠落しており、大いに問題がある)

原文をお読みになりたい方は、国立国会図書館のデジタルコレクションの「国史叢書. 將軍記二・ 續撰清正記からコマ「番号210」を参照されたし。
ここでは「宇土軍記」の記述を引用してご紹介する。


一、続撰清正記に云、熊本の古城より東に当りて茶磨山と云ふ高き
   山有之、慶長六辛亥丑年八月中旬に右の山に鋤初有之城を築給ふ、
   今熊本の御城これ也、同八癸(みずのと)卯年迄に至三ヶ年出来のよし、此
   節宇土の天守為被引たるとの事也、肥後にての申伝に云、熊本
   古城は今の古城也、元亨の比菊池の家老赤星掃部(城脱カ)・越前の守と
   て両人有之、其内熊本の城に代々の城越前守筋居城の由、此所
   に茶磨山、又祇園山わきに在之、鉄炮の恐有之ニ付清正心に不
   応、何方成共可然地を見立度とのぎニて方々被見合侯処に、東
   に当り右茶磨山か、北に当りて龍田山、此両所心に応、此内
   にてハ何方可然かとの義にて度々両所え諸将召連被罷越の由、龍
   田山ヘハ一里の内可在ノ由、其比の沙汰に、古より申伝には
   茶磨山は味方の城、龍田山は敵の城と申侯、子細は茶磨山ハ少
   高ク、是を城に取立る時は大津宿迄五里の内の高ミなく、是に
   敵陳取は敵の城なり、其時押寄討取可然との事故かくと云也、
   清正此詞を聞信して心付茶磨山を取立給ふと也、城に調、敵は
   即時故不調、然ハ味方に勝歴然也、又云、宇土落城関ヶ原合
   戦是同年也、今年ゟ清正大身に成給ふて翌年ゟ城を築給ふと、
   右城築の節清正の茶道(頭)担歌をつくね(利カ)申侯、
     熊本の石引廻す茶磨山敵寄たりとかとふ城かな
   此段清正給い嘉悦にて米三石賜ふとなり、此先キ又云、終ニ点之、左ニ記ス、此処ニ
    書入の細注あり、終ニ点々下ニ記ス、 
一、慶長五庚子年宇土落城より清正の領内と成り断前に具也、其嫡
   子肥後守忠広遺跡無相違拝領、両代ともに肥後の国主たるニ付
   宇土ハ領地也、然処ニ
   公方家光公御代忠広三十一才然処に不行跡ニ付、寛永九壬申年六月
   三日領地被召放羽州庄内へ遠流被為仰付、加藤家断絶、古加藤
   家両代肥後のくに守の年数二十三年也、



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■古城(隈本城)のこと

2022-04-28 11:20:01 | 新聞

 昨日付けの熊本日々新聞に、二面に渡り「熊本城復興支援キャンペーン第四弾」として「古城地区に残る最古の石垣の魅力」という特集記事が掲載された。
その中で興味深いのは熊本城研究センターが2021年度の成果として発表した、この古城地区の地図だ。
古城は現在の熊本第一高校の校地と考えてよいが、左の図によると、校地のグランド部分は往時は白川の大蛇行に飲み込まれていたことが判る。
これは校地の川よりの端の地盤調査から、厚さ数メートルに及ぶ版築の跡が確認されたことから推測されていた。
しかし、鹿子木氏から城氏、佐々氏、そして加藤清正の半国時代のお城・隈本城の範囲や、各郭の名称が表示されており大変興味深い。
「のこる丸」は他の郭には「〇〇丸」と名がついているが、ここは名前が付けられずにあったからその名の由来であるという。(熊本城天守閣常設展示図録p19)
これらの名称の出典を知りたいと思う。

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■熊本城への想いそれぞれ

2022-04-28 08:44:11 | 熊本

 ある方からメールをいただき、数十年前社員旅行で熊本を訪れバスの中で聞いた歌だといって、次の歌詞をお送りいただいた。
いい歌なのでメモしたが、完全には覚えきれず、バスを降りる時にガイドさんに聞いて書き残されたという。
肝心の曲の名前を忘れてしまったが、なんという曲だろうかとのお尋ねである?

         心一筋銀杏の城は石垣武者返し
            森の都に立ちつくす雄々しき姿よ 
               侍の/\故郷よ

 どうやら熊本城の歌らしいが、私にはとんと見当がつかない。ググってみてもよく判らない。
何方か御存知であればご教示いただきたい。
               有難いことにお一人はコメント、お一人はメールでご教示いただいた。感謝。
    なんと「火の国旅情」の28番ある歌詞の24番目にあった。熊本国府高校のサイトに全部の歌詞が紹介されていた。
    作詞・中沢昭二+岩城宏一、作曲・岩城宏一の歌で歌手は葵ひろ子、森繁久彌も歌っていたような気がする。
    地元のバッテン荒川も歌っていたが、団体のバス旅行であれば、バスガイドさんの定番の曲だったろう。
    なんだか私も、かっての勤め先の忘年会などで歌ったような記憶もあるが、この歌詞はしらない。
    ひそかにメモって、機会があれば歌ってみよう。

 ふと熊本の歌人・安永蕗子氏の次の歌を思い出した。

         楠若葉はやくれなゐに炎ゆるなり 
                城下しばらく男の町なれば

 こちらは熊本地震後の私の駄作

         そそりたつ高石垣のくづれ落つ
            楠の若葉のまぶしき中に

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■弟・隼人宛細川重賢書状

2022-04-27 11:12:51 | オークション

            【真作】【蘇山】[細川重賢] 6021 掛軸 横書 手紙 箱付 紙本 熊本 肥後 藩主 在銘

           

 佐竹右京大夫の替りに東叡山(寛永寺)の火の御番を仰せつかった旨を、実弟・長岡隼人に伝えた書状である。
老中連名の奉書を賜り、「有難き幸せ」とある。
熊本藩年表稿には残念ながら、記載がない。
弟・隼人は宝暦六年八月に刑部家・長岡圖書興行の養子となった。10,000石、興彭(オキアキ・オキハル)である。
この事から佐竹右京大夫は、出羽国久保田藩7代藩主で秋田騒動の原因を作った義明であることが判る。宝暦八年没。
「右京大夫の替り」というのも、時代的にはこの秋田騒動の直前と思われるから、案外関係しているかもしれない。
重賢は血のつながっていないこの弟とは大変仲が良かったことが伝えられている。
冒頭の尚々書では圖書(養父)にも伝えるように言っているから、既に養嗣子の話が煮詰まっていたのだろう。
一通の何気ない文書も、いろいろ語り掛けるものがあって興味深い。

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■祇王と仏御前/照葉と万龍

2022-04-27 08:54:29 | 書籍・読書

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の評判はどうなのだろう。どうも三谷幸喜の脚本が気に食わないであまり見る気がしない。
小学校六年の時、担任のO先生が詠んでくれた「義経記」が、70年以上たった今でも思い出される。
そんな中、昨日は押し入れの本棚を、懐中電灯を照らしながら探し物をしていたら「平家物語」が目に付いた。
目的の本は見つからないから、仕方なくこの本を取り出してパラパラ頁をめくった。祇王の文字が目に飛び込んできた。
清盛に捨てられて母・妹と共に奥嵯峨の祇王寺に逃れ尼になったという話だ。
そしてその座を奪った仏御前も又清盛の許を去り、なんと祇王寺を尋ね、四人で暮らすという驚くべき顛末となる。

           『平家物語』巻第一より六・「祇王(ぎおう)」    

 京都学の達人・国際日本研究センター所長の井上章一教授は、その著「京都ぎらい 官能篇」でこの祇王寺で起きた一つの事件を取り上げている。
氏はこの祇王寺近くで少年期を過ごしたらしい。当時の庵主は美貌で知られた元新橋の芸妓の照葉(智照尼)である。
そして、この話を知らなかったと残念がっておられる。
1910年代赤坂の芸妓・万龍と並び称せられ、ブロマイドの売り上げを競ったという。

      高岡 智照さん 写真修復(カラー化) | 画像修正と加工のブログの画像 現代の尼僧物語り - JFK-World 世界の撮影・取材地トピックの画像          萬龍の画像
                照葉(智照尼)                       万龍

 平家物語の祇王の悲劇の舞台となったこの寺は、後年には無住となったが、篤志家が別宅の茶屋を移設して智照尼の居住する処としたらしい。
美貌の尼にはパトロンが大勢いたのであろう。
事件というのは、その祇王寺をある人が訪ねてきたのだという。
その人こそ智照尼が花柳界に在ったころ覇を競ったかっての万龍その人であったという。
井上教授はこの二人の出会いを、平家物語に重ね合わせている。

 私も建築家のはしくれとして、この万龍という人物については、著名な建築家・岡田信一郎の夫人として承知していた。
花柳界を引退してからは、岡田の為に力を盡しているが、岡田に先立たれると茶道を心の糧とした。
そのために京都にも良く出かけたらしい。そして或時智照尼を尋ねたというのだ。
智照尼が「祇王」であり、万龍が「仏御前」である。

 井上教授は京都大学の建築科を出られた建築家である。
万龍が岡田信一郎の夫人であるということもご存じだと思うのだが、「官能篇」では触れて居られない。

井上先生の著書は完読しようと思っているが、著書数が膨大で根負けしてこっちがくたばってしまうかもしれない。

 

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■散歩と家紋

2022-04-26 12:30:11 | 家紋

 昼から大ぶりの雨になりそうだからと、早めに傘持参で散歩に出た。相当強い風が吹いていてそれが気持ちよい。
路地を抜けると「肥後椿」の生垣の間に「鉄仙」が見えた。
お向かいの家は「薔薇」が咲き始めたが、「さあ見てくれ」と言わんばかりに数種類の花が毎年展覧会のようである。
ご主人がいかにも自慢そうにいつも手入れに余念がない。

何時ものように県道沿いの植込みの植物などに目をやりながら、写真に収めたりする。
桜が終わって今は「平戸つつじ」が咲き誇っているがもう満開はすぎて朽ちかかっている。
下草は西洋タンポポが満開、たくさんの丸い玉ぽぽが風に逆らっている。
昼顔」が花を見せ、「」や「酢漿草(片喰)」も子孫を残そうと、コンクリートのちょっとした隙間から元気に顔を出している。
」や「もみじ」の新芽も美しい。

自衛隊の敷地の中には20mは優に超える「松」の木が多くある。側道に時々松笠を見かけるが、今日の強風で青い松笠が落ちるかもしれない。
骨だけになっていた「銀杏」も緑の若葉で覆われ始めて、青空に映える。
」の木は実をつけ始め、アジサイも若葉が美しく梅雨の季節を待ちわびている。

山吹」が黄色い七重八重のはなを付けた。
直ぐ近くの御宅の畑には「夏みかん」の花が、連なっている。
柑橘類の花はどれも「」によく似た感じで、直ぐ近くの「金柑」の花は小さいけれどよく似ている。

我が家の水盤にはそろそろ独特のデザインの「沢瀉」が顔を出す。

よくよく考えるとほとんど「家紋」になっているなと思って、家紋帳を取り出し頁をめくったりしている。

 

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■こういうことなのか?白川の大蛇行

2022-04-26 07:15:06 | 熊本

   

 またまた、「茶臼山ト隈本之絵図」の話である。ぼんくら頭の私は四木社(代継神社)が坪井川の川向うに位置していることが、どうしても理解できずに来た。
動かし難い事実は、その四木社の四本の木の一本が現在の花畑公園(旧・花畑邸)に残る大クスだということだ。
熊本城築城の際、御城から見下ろすことになるから、白川の南(後の代継橋脇)に御移り頂いた。
この茶臼山の図は出田氏が千葉城を築城する前の時代の有様を描いているとされる。(隈本古城史-付論・「茶臼山ト隈本之絵図」について)
白川は子飼あたりから現況に近い形で流れている。
しかし大蛇行があったことが慶長国絵図(右図)に残されていて、川中に定められていた郡境が、流路が直線化された後も飛び地の形(正保国絵図)で残されていたことから、いつの頃からか白川が大蛇行していたことが証明された。(富田紘一氏論考-白川・坪井川流路考)
つまり千葉城築城(文明年間)以降140~150年の間に白川は大きく流れを変容させたということになる。

 絵図に描かれている四木社(左図部分)や神田原の北側へ大きく蛇行していったと考えるとつじつまが合う。
元々この絵図のように直線的に流れていた流路が、突然流れを変えたのはどういうことなのか。
後に追い回し田畑と呼ばれたその大蛇行の跡地は、もともとが低湿地ではなかったのか?ここに白川の水が流れ込み水堀状になっていたのではないか。
そしてこの大蛇行の内側は、四木社とともに「辛島町遺蹟」や「山崎古墳」が見つかるなどしている一帯だから、自然に土地がえぐられるということはあり得ないのではないか。
頂点に上り詰めた流れは反転して、慶徳堀を呑み込み白川の許の流れに合流した。
慶徳掘はもともと存在した深渕であったのか、大蛇行の埋め立ての際残されたものなのかよく判らないが、その流路を示す大きな手掛かりではある。
この反転した流れも人工的なものではなかったのか?

妄想の果てにたどり着いた私の考えである。すぐさま「それは違うだろう」と反論が来るような気がしている。

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■御恵贈御礼「永青文庫研究・第5号」

2022-04-25 17:22:40 | 書籍・読書

                

 熊本大学永青文庫研究センターでは毎年新年度に入った時期、「永青文庫研究」の一般配布の受付を開始される。
毎年、研究センターのサイトに掲載されるのを今か今かと待ち構えて、見つけ出したら則申し込んでいる。
本年も無事に入手することが出来本日手にすることが出来た。
今年は特に、今村准教授の論考を興味深く拝見した。丁度熊本県下の加藤清正の治水事業に関するいろいろな書籍を見つけては読んでいたところで、まことに佳いタイミングであった。
今からの申し込みで間に合うかどうか、申込巡である。今年で5号、毎年拝受しているが感謝申し上げる。

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■御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-10・了

2022-04-25 07:18:56 | 史料

       のところからこまかはしごでした       の所から小さい梯子で下
       におりつて女のかみのけでねりあ       に降りて女の髪の毛で練り合
       はせたつなにすがつて下におりそれか     せた綱にすがって下に降りそれか
       らつまる所はふじょう御門からあ       らつまる所(結局の所)不浄御門(不開門)から小
       ずきさかにでるやうになつておつた      豆坂に出る様になって居った
       一のお天しの下と奥御殿のゆか下に      一の御天守の下と奥御殿の床下に
       しおをおいてあつたし大かまなども      塩を置いてあつたし大釜なども
       まさかの時のよういとしてそなへてあつた   まさかの時の用意に備えてあった
       つぎにうぐいの御ろうかのしかけといひ    次にうぐいす張りお廊下の仕掛けと云い
       どうもこうもぎょうさんなふしんだ      どうここうも仰山(大変)な普請だ
       つたぞ                   だったよ
       摂津が上がたでしんでから宇土までいつて   摂津(小西行長)が死んで宇土迄行って
       天しをときあるいは御門もときにおるは    天守を解き或いは御門も解きに俺は
       でしこと職人をつれていつたときくず     弟子と職人を連れて行った時崩
       した材木は車と牛馬なんきや引つぱつて    した材木は車と牛馬などを引っ張って
       いつてこつちにはこんできたがわるぢへ    行って此方に運んで来たが 悪知恵
       の多かつた摂津はすつかりほろんでしまう   の多かった摂津は滅んでしまつ
       たね人をのろへばあなふたつとやらじ     たね 人を呪えば穴二つとやら自
       めつとしたこつあこきびのよかつた      滅した事は気味のよかった
       かうらいも門や三丁目の御門なんきや     高麗門も三丁目御門なんかは

       みなおるがてしほによつてでけたが今     皆俺が手塩によって出来たが今の     
       ごてかうかわらうなんきやあのころはゆ    様にこう変わろうなんてあの頃は夢    
       めにもおもうちやおらんだつたほんとう    にも思うては居らなかった 本当
       よの中といふもんなかわるもん        世の中というものは変わるものだ
       ね                     ね
       お城のやうかいのはなしなんきや人にや    お城の妖怪の話(法華坂の妖怪)などは人には
       けつしてはなしちゃならんけんゆう      決して話してはならないから言う
       なよゑゝかい                なよ いいかい

                         (了)

       

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■「二様の石垣」余話

2022-04-24 10:10:11 | 歴史

 今日ご紹介した「御大工棟善蔵聞覺控‐9」では、棟梁善蔵が本丸御殿の建築に係わっていることが判る。
昨日熊本史談会で「加藤清正の妻子」をお聞きしたが、講師の福田正秀氏は熊本城の着工は慶長三年説をお取りになっておられる。
その他の研究者も最近では三年説が多くみられるようになってきたように思えるが、これは善蔵さんの話が大きく影響していると思う。
そして慶長五年には清正は黒田如水を熊本城に迎えているから、天守はすでに出来上がっていたのだろう。
茶臼山の造成着工は清正が熊本半国の領主になった天正16年以降の早い時期からであろう。

 一昨日「二様の石垣」について触れたが、サイト「徒然なか話」主宰のF様からコメントをいただいた。
絵図と現状を比べると違和感を感じるといわれる。
私は縁先に広がる路次(庭)をあまり注意して見ておらず、写真集に残る建物跡と思われる礎石様のようなもので建物の存在をしった。
さてその二様の石垣はいつできたかである。絵図から類推すると石垣は巾4間ほど付たされていることが判る。
西南角には3間角の三階櫓がある。
本丸御殿からのびる4間幅の建物が急こう配の高石垣に乗っていて、本丸御殿の一部も乗っかっている。
この急こう配の石垣が何時の時点で継ぎ足されたかということになる。
そして竹之丸側から90度折れていた既設の扇勾配の石垣はどこまで続いているのだろう?

すくなくとも本丸御殿が着工された時期とされる慶長16年頃には、継ぎ足されたことになるのだが?
細川忠利入国後という記事が散見されるが、本丸御殿の一部が継ぎ足された石垣の上にある事からすると首をかしげざるを得ない。
残念ながら本丸御殿の建築に係わった善蔵さんはその時期を書き残していない。

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■御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-9

2022-04-24 07:32:44 | 史料

       それにもかゝはらずすこし少し鳥目      それにも関わらず少し鳥目(銭)
       がたまつといばりちらすつらにくさ      が貯まるといばり散らす面憎さ    
       ねお城の内のなはばりは御          お城の内の縄張りは 御
       先々代様といひ田もり本みやけさ       先々代様と飯田森本三宅
       んたちでいろ/\ないみめのだし       ん達でいろいろな入目の出し
       入の役目は下津さんだつた          入れの役目は下津さんだつた
       いかな大名でんよそん人はお城のう      如何な大名でも他所の人はお城の内
       ちには入るこつはかなはず御家中       に入る事は叶わず御家中
       の士にても御そば用人と小          の士(侍)にても御側用人と小
       姓のほかは男女のしべつなし十五       姓の他は男女の区別なく十五
       より上のもんな宿さがりときまつとつた    より上の者は宿下がりと決まっていた
       お城のじならしゑいとう/\のうたの     お城の地均しえいとう(永棟)/\の歌の
       ふしおもしろくつねにききよつたが      節面白く常に聞いていたが
       じちんまつりのきしきにおしろの人      地鎮祭の規式にお城の人
       でしんごんしゅうの出家がつと        で真言宗の出家が勤
       めになつたばい               になつたよ

       この日は女ごはだるも入つけずそののち    この日は女御は誰も入り付けずその後
       に井川をぐつさりになつたが         に井川(井側-井戸掘りか)を沢山に為さつた(つくった)が
       これもなみたいていのこつじやなかつたげ   これも並大抵の事ではなかったそうだ
       な
       石がきのつみあげのふしんななほさ      石垣の積み上げの普請は猶更
       らのこつでずいぶん多くのけが        の事で随分多くの怪我
       にんがあつた                人があった
       このごふしんの時あまく引きまはし      この御普請の時は幕引き廻し
       てほかのもんにや一さいみせなはら      て他の者には一切見せなさらな
       んだつたぞ                 らなかったよ
       御殿のしゅうじにてつのほねを入て      御殿の障子に鉄の骨を入れて
       きりつとめぐるめぐるやうなしかけであつ   きりっと巡る(回る)様な仕掛けがあっ
       たがよその国のお城にかうしたもんが     たが他所の国のお城にこうした物が
       あったかろうかなそれからしょう       有ったろうか それから昭君
       くんのまのうしろにきみつの間があ      の間の後ろに機密の間が在
       つたこつもおぼへとるかべがめぐる      ったことも覚えている 壁が巡る
       しかけでかべが一ちょうきりつと       仕掛けで壁が一ちょうきりっと
       めぐつとゆかのたかさ六尺ばかり       巡ると床の高さ六尺ばかり

       

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■「第四回 アジア・太平洋水サミット‐熊本」開催さる

2022-04-23 15:02:05 | 熊本史談会

 今日は熊本史談会の例会なのだが、直ぐ近くの熊本城ホールでは今日と明日、第四回-アジア・太平洋水サミットが開催されている。
昨日は各国首脳が専用機で熊本飛行場に飛来するということがあった。飛行場始まって以来のことであろう。
今日は各国首脳や岸田総理等が出席と言うことで、私が利用するバス・ターミナルに至る経路は警備がすごい。
なんでも49か国のうち、29カ国が首脳級または閣僚級の参加が予定されているというから、市民としては少々不便でも協力しなければならない。
熊本城や水のきれいな水前寺など見学していただきたいところだが、小雨模様である。
熊本はコンベンション開催都市を目指しているらしいが、このような経験を踏まえて実績を積み上げていただきたいものだ。

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