新・肥後細川藩侍帳【よ】の部
■余田繁助は、【丹後以来】(南東21-21)余田策郎家の8代・内蔵八(半助)御小姓組之組脇・小坂半之允組 三百石である。
家紋は「隅切り立角に■■」・・どなたかご存知の方ご教示ください
■米村喜右衛門は、(南東61-18 一代御中小姓)米村重之允家の4代目か? 家紋については記載なし。
新・肥後細川藩侍帳【た】の部
■建部九郎助は、(南東22-27)建部青一郎家の3代目である。家紋は「頭合せ三つ結び雁金紋」
■田尻宗宅は、御医師(南東57-又18 医)田尻宗蹟家の3代目、家紋の記載なし。
■楯岡七左衛門は、「元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事」とある。罪を得て小倉に配流された
楯岡光直の一族である。(南東22-2)楯岡小文吾家の8代目・甲斐之助(七左衛門) 上着座持座七人着座・大頭組 千石
文化十三年一月(上着座)~文政五年三月 番頭、文政二年九月~文政三年十月 鶴崎番頭、文政六年十二月~天保五年三月 奉行、
天保五年三月~天保八年九月 大奉行を務めた。家紋は「蛇の目紋」及び「剣片喰紋」
■楯岡七兵衛は、同上分家、(南東23-4)楯岡三郎兵衛家の8代目である。5代定春に罪ありて断絶、その子小七郎が父に罪を変らんとし
て宥恕される。300石を減じられて100石となし、相続せしめられた。「肥後孝子伝」に精しい。家紋は本家に同じ。
■竹原八左衛門は、【青龍寺以来】(南東22-12)竹原東彌家の8代目八百八(養子 八左衛門・九左衛門)
天保六年閏七月(三十挺頭)~天保十一年十二月 鉄炮五十挺頭、天保十一年十二月~嘉永二年閏四月 中小姓頭、
嘉永二年閏四月~嘉永五年十月 小姓頭、嘉永五年十月~安政五年十一月(病死)番頭
出自が阿蘇家旧家臣であるため、家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「三つ葛の葉紋?」
■竹原清大夫は、同上分家、【丹後以来】(南東22-5)竹原清馬家の4代目もしくは5代目(同名)である。
家紋は「隅入り立角に違い鷹の羽紋」
■田中嘉次馬は、元柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を家祖とする(南東22-1)田中典儀家の8代目・加治馬(養子 実・大木氏)二千石
寛政三年六月名跡相続、大組付、中小姓頭、小姓頭 文化十一年十月致仕。家紋は「丸に梅鉢紋」「丸に一文字紋」である。
■田中為助は、(南東22-22)田中八十郎家の 7代目・八百石(七百石)文化二年三月(三拾挺副頭)~文化六年三月 高瀬町奉行
家紋は「丸に抱き沢潟紋」「撫子紋?」
■田中亀之助は、家祖は長束(水口)大蔵大輔正家そのため(南東29-28 な)の項に収められている。
田中(長束)孫四郎家の7代目である。家紋は「細輪紋」か?
■田中甚左衛門は、(南東38-20 ま)田中(松長)和卜家の5代目甚左衛門(平右衛門) 五百石
柳生流剣術師範 延享元年父長左衛門病死にて跡目相続被仰付幼年に付御留守居御番方被召加師役被仰付迄中山左助
引廻被仰付宝暦二年師役被仰付候事
田中平右衛門 名は保行、柳生流剣法師役にして傍ら射を善くし、和歌を好む。文化十三年十一月没す。年六十。
家紋は「隅切り平角に隅立角紋」
■田中丹次は、(南東23-10)田中弥兵衛i家の6代目。御目付・御中老支配 三百石内二百石御足高
田中麟之 名は丹次、字は麟士と称し、麟之と号す。梅畫の名人たり。「家紋は丸に隅立角紋」
■田中清右衛門は、(南東22-14)田中次郎太家の6代目。家紋は「三つ陰菱紋」
■田中正吉は、「細川藩家臣略歴」に名前が見当たらない。家紋についても不詳。
■田中養達は、御医師(南東56-11 医)田中半随家の3代目養達(半随)。家紋は「丸に本文字紋」
■田中宗恕は、御医師(南東56-13 医)田中臘五家の4代目。
田中淡水 名は道明、宗恕と称し、淡水と号す。藩公の侍医執匙となり禄三百石。文政二年十月十六日没す。六十二。
家紋は「四つ目結紋」
■田中喜五郎は、初代・以得(意徳)が忠利公に殉死した。(南東22-19)田中一夢家の8代目。
家紋は「丸に十字紋」「頭合せ三つ結び雁金紋」
■田中九郎兵衛は、九郎兵衛家の本人である。二代目・重直、真澄(実 的場又左衛門二男)。家紋は「丸に一文字紋」