津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「我が家検索リスト」再々開にあたって

2022-05-31 08:06:08 | 徒然

「我が家検索リスト」を再々開しようと思っているが、いろいろ問題が生じて爺様の頭を悩ませている。
私が使用しているプリンターでは、A4サイズまでしかスキャンできないので、一部が切れてしまった。
原稿を動かしながらこれでお許し願おうとスキャンしてみるが、こんどは解像度が悪くて文字がつぶれて表示が出来ない。
それと地図上をブロックで区切ってやらないと、お宅の特定が難しいので原稿の加工が必要である。
以前の様に道路に囲まれたブロックごとにするか、地図表示のように、縦横にラインを施してX方向にアルファベット・Y方向に英数字を打ってブロック表示をするか、大いに悩んでいる。

スキャンしたものにいろいろ加工するには、脳細胞が壊れていく爺様の能力では、面倒臭くて対応できそうにない。
そこでスキャン前に原稿にいろいろ手を加えようかと思案中である。
UPまでは、まだまだ掛かりますという予防線ではないことを、言い訳がましく申しあげておく。

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■TVは選んで・・

2022-05-31 06:46:34 | 建築

 最近のTVは、若い人たちの音楽や、芸人に乗っ取られてしまったような番組に爺様はついていけず、又若い人たちはTVそのものに離れているのだそうな。
ニュースを見るばかりの用になりつつある。好んでみるのは「新日本紀行」「ブラタモリ」「目がテン」などを見たりしているが、最近はTV番組をチェックして「音楽番組」や「建築に関するもの」等、面白そうなもを観ることにしている。
昨日は22:50~23:20迄、NHK・EテレのSWITCHインタビュー 達人達「藤森照信×森星 EP1」を拝見した。
「世界からも注目される「奇想天外」な建築で知られる建築家・建築史家の藤森照信。彼に会いたいと願ったのはファッションモデルの森星。自然の中で衣・食・住を語り合う。」とあった。
奇想天外な建築の中には、「二本の栗の木で支えられたお茶室」があったが、同様の作品が湯河原にある細川護熙邸の茶室「一夜亭」がある。又陶芸をされる工房「不東庵」も藤森氏の作品である。
元々は建築史家だから、そう作品は多くないが、出来上がった作品は誠に個性的である。
構造は現代的だが、外皮が独特である。
自宅の屋根には雑草がうえられ「たんぽぽハウス」の名がある。友人・赤瀬川原平の家は、屋根に「ニラ」が植えられている。有名な「ニラの家」である。
有名建築家が住宅などを設計すると、「住みにくい」家が多いと聞く。処が藤森先生の作品は、大方クライアントは大喜びで過ごして居られるような気がする。
次回のSWITCHインタビュー 達人達「藤森照信×森星 EP2」は6月6日の同時刻である。
カレンダーに記録した。

    参考  ぽつんと街に現れた どこか懐かしい藤森照信の建築物をめぐる

        藤森照信の小さな建築は、 なぜこれほど愛されるのか?




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■おめでとう・走潟マルメロの会「かせいた」

2022-05-30 17:57:21 | 熊本

 昨日29日のブログ「徒然なかはなし」では時を超える菓子「かせいた」を取り上げられていた。
メディアでも報じられていて、私も大いに気に成っている。
「加勢以多」という細川家由来の御菓子は、宇土市(旧・銭塘手永)の走潟地区で育てられていたマルメロの果実から作られていた。
しかしそのマルメロ自体が失くなり、走潟地区の有志の方々がその復活にかけてこられた。
新聞でも報道がなされ当ブログでも■加勢以多をご紹介したが2018年の2月の頃であった。
これを御覧になった会の方が「■マルメロの花見会」が開催されるというご連絡をいただいたのは2か月後の事であったが、失礼を申し上げた。
その後、研鑽を重ねられ今般このような成果を得られたことは、ご同慶の至りである。
御菓子としての「加世以多」は熊本の菓子舗Kが独占で作ってこられたが、強力なライバルが誕生したことになる。
どのようなお味なのか多いに興味がある。いつか食する機会を得たいと思う。

 細川護貞さまはその御著「茶・花・史」のなかで、「加世以多・失われゆく肥後の銘菓」として、江戸期の史料を引用して取り上げて居られる。
最後に「一事は肥後の銘菓の名をほしいままにしながら、忘却のカスミの中に消えうせていったのである。」と書かれている。
由緒ある地の心ある人々の手に依って復活に至ったことを、謹んでご報告申し上げなければならない。

 
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■御侍帳・家紋から考える(25)

2022-05-30 08:32:56 | 家紋

                         

                                                    新・肥後細川藩侍帳【た】の部

■田中貞吉は、(南東22-29)田中 清家の4代目、家紋は「五つ木瓜に木の字紋」

■田屋久右衛門は、(南東23-7)田屋誠之助いえの8代目、家紋は「隅切り平角に三つ地紙紋」「片喰紋」  

■田辺平兵衛は、田部左藤太家の2代目平兵衛頼時か・御物頭列・平野組 百五十石。家紋は「丸に剣唐花紋」「蛇の目紋」
■田辺卯八は、(南東22-25)田邊又三郎家の8代目、新御屋形御小姓役 三百石。家紋は同上  

■田上直八は、(南東22-16)田上茂四郎家の5代目・御番方嶋田正進組 居合師役。家紋は「丸に片喰紋」  

■田上寿八郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。家紋は「丸に釘抜き紋」

■田添源太郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。「地引合(検地)」を行った田添源次郎の一族か?
 家紋は「(黒地)丸に三つ目(結)」?

■多田陽八は、(南東23-9)多田武源太家の7代目。家紋は「丸に三つ星紋」

■多羅尾市之允は、(南東23-1)多羅尾源八 家の7代目市之允(初・左太郎)。家紋は「  」

■竹村平右衛門は、(南東23-14)竹村平助家の6代目、家紋は「亀甲に巴文字紋」  

■竹田勝次は、(南東22-23)竹田範十郎家の7代目である。楠流軍学師範--文久二年師役被仰付 (諸師役流儀系図)
 家紋は「折入り菱に稲妻紋」である。   

■高田角左衛門は、代々が角左衛門を名乗り人物の特定が出来ない。(南東22-13)高田五郎三郎家。家紋は「丸に隅立角紋」 

■高田彦十郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

■高瀬三郎助は、(南東22-6)高瀬十郎家の6代目。明和五年(番方)~安永六年四月 高瀬町奉行・後十挺頭ニ転
 寛政十年八月(三拾挺頭)~文化七年七月(依願免) 鉄炮五十挺頭。家紋は「離卦紋」

高瀬儀八郎は、(南東22-17)高瀬文平家の7代儀八郎(6代丹次郎・弟 文平) 百五十石当時御擬作
 
天保七年八月~天保七年九月 玉名郡郡代(山本山鹿助勤兼)
 高瀬文平 名は高輝、玉名郡代當分、また中島広足に問ひ和歌を善くせり。万延元年六月十四日没す、年六十八。
 家紋は判読不明    

■高本安次は、李朝王家一族の李宗閑 を祖とする(南東22-20)高本孝太郎家の6代目・御鉄炮十挺頭・御中老支配 大阪御留守居 
 三百石内百石御足。父親が
銀台遺事」の著者・医師で儒者の高本紫溟である。家紋の正式な名称は判らないが「違い山形に大字紋」  

■高橋尉左衛門は、(南東22-8)高橋俊九郎家の6代目である。家紋は「亀甲に左一つ巴紋」  

■高橋作右衛門は、(南東23-8)高橋直衛家の4代・小平太(養子 作左衛門・作右衛門) 御勘定頭 御擬作高百石外三拾石現米
 家紋は「杏葉紋」

■高橋角之允は、(南東22-15)高橋甚兵衛家の4代目である。家紋は「杏葉紋」及び「隅入り立角に左一つ巴紋」

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■一年前の記事から「我が家検索リスト」再開へ

2022-05-30 06:35:46 | 地図散歩
 
■再チャレンジはあるか?

 2017年8月14日にUPした「■「明暦前後」地図散歩」に「肝心の絵図が載ってねーぞ」と悪友が知らせてきた。慌てて眺めて見ると確かにない。添付し忘れていた。2017年のフォト一覧......
 

 ちょうど一年前にこんな記事を書いたが、恥ずかしながらそのままになっている。
ことしはこれをきっかけに、「我が家検索リスト」を再開しようと思ったことである。
現在進めている「家紋」とこの「我が家検索リスト」だけは片づけて置かねばならない。終活みたいな感じである。
まずはすべての地図を読み込むためにスキャンする作業を始めた。
53枚ほどあるから週一とすると今年中には終わりそうにないので、週二回ほどで進めて今年中には終われそうだ。
今までに見つからなかった皆さんの御宅も、何とか見つかればと念じながら・・・

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■投票がてら・・・

2022-05-29 14:28:25 | 熊本

 私が住む選挙区では、県議が二人欠員となったため補欠選挙が行われ、今日が投票日です。
やめた一人は元県議、先の衆議院選挙に出馬、落選しての県議再挑戦、もう一人は今度の参議院選出馬のためだが、ニコニコ堂出身のあのマラソンランナーMだ。
熊本市議、熊本県議とすっかりベテラン政治家となって国政チャレンジ・・これは秋?の話だが。
二人辞任しての補欠選挙は珍しいらしい。
明日は大ぶりの雨模様になりそうだが、今日は良い天気で良かった。しかし余り投票率も上がりそうにない気配だが?

 投票を済ませて、少し回り道をして散歩を続けたが、昼食後に出かけたから・・・熱い・・・
途中でめまいがして、これはまずいと帰宅、往復3㌔弱。選挙も棄権せずに参加、今日はこれで良しとしておこう。

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■宗久隆さん

2022-05-29 07:33:14 | 人物

 今川了俊が藤崎城に入り隈本城に対したとされるその城は、本山城ではないかという説がある。
かって本山には浄勝寺があったが、白川の河川改修のために現在地に移された。その浄勝寺のあった所が本山城であったらしい。
かっての城主は宅摩氏、その後宗氏が治めたという。その宗氏の子孫がこのお寺の開祖である。
熊本の代表的史家・鈴木喬先生の著に「肥後宗氏の盛衰」がある。
私は鈴木先生から頂戴したが、地震の折ででもあろうか行く方知れずになったが、先生がお亡くなりになり、再販の機会が失われた今、大変貴重な資料となり入手が困難になった。
宗氏は隈府(菊池)宗氏系図によると、その出自は平家であり、平清盛の孫・知宗(知盛の子)とされる。
一方では、対馬の宗氏に連なるとも言われる。岩野道祖城の城主として名を残している。
加藤清正時代まではその庇護のもとにあったが、武家としては宗久隆が最後だと言われ、後には菊池で有力な町人となり文化面でも大きな足跡を残している。

 その宗久隆が最後の大仕事をしたのは、熊本城の図面を起こしたという事である。
それは「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」に編者善三郎が書き残している。
岩野道祖城というのは山城であり、砦ほどの者であったろうと思われるが、この広大な熊本城の絵図を起こしたというのは、にわかに信じがたいが、善三郎は善蔵の話としてそう書き残している。
鈴木喬先生の著の「肥後宗氏の盛衰」の全文を知り得ないが、先生もこの事実については触れて居られないように思う。

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■御侍帳・家紋から考える(24)

2022-05-28 06:49:27 | 家紋

                                   

                                                        新・肥後細川藩侍帳【よ】の部 

■余田繁助は、【丹後以来】(南東21-21)余田策郎家の8代・内蔵八(半助)御小姓組之組脇・小坂半之允組 三百石である。
 家紋は「隅切り立角に■■」・・どなたかご存知の方ご教示ください

■米村喜右衛門は、(南東61-18 一代御中小姓)米村重之允家の4代目か? 家紋については記載なし。     

                                                新・肥後細川藩侍帳【た】の部

■建部九郎助は、(南東22-27)建部青一郎家の3代目である。家紋は「頭合せ三つ結び雁金紋」

■田尻宗宅は、御医師(南東57-又18 医)田尻宗蹟家の3代目、家紋の記載なし。

■楯岡七左衛門は、「元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事」とある。罪を得て小倉に配流された
 楯岡光直の一族である。(南東22-2)楯岡小文吾家の8代目・甲斐之助(七左衛門) 上着座持座七人着座・大頭組 千石
 文化十三年一月(上着座)~文政五年三月 番頭、文政二年九月~文政三年十月 鶴崎番頭、文政六年十二月~天保五年三月 奉行、
 天保五年三月~天保八年九月 大奉行を務めた。家紋は「蛇の目紋」及び「剣片喰紋」  
■楯岡七兵衛は、同上分家、(南東23-4)楯岡三郎兵衛家の8代目である。5代定春に罪ありて断絶、その子小七郎が父に罪を変らんとし
 て宥恕される。300石を減じられて100石となし、相続せしめられた。「肥後孝子伝」に精しい。家紋は本家に同じ。  

■竹原八左衛門は、【青龍寺以来】(南東22-12)竹原東彌家の8代目八百八(養子 八左衛門・九左衛門)
 天保六年閏七月(三十挺頭)~天保十一年十二月 鉄炮五十挺頭、天保十一年十二月~嘉永二年閏四月 中小姓頭、
 嘉永二年閏四月~嘉永五年十月 小姓頭、嘉永五年十月~安政五年十一月(病死)番頭
 出自が阿蘇家旧家臣であるため、家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「三つ葛の葉紋?」  

■竹原清大夫は、同上分家、【丹後以来】(南東22-5)竹原清馬家の4代目もしくは5代目(同名)である。
 家紋は「隅入り立角に違い鷹の羽紋」 

■田中嘉次馬は、元柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を家祖とする(南東22-1)田中典儀家の8代目・加治馬(養子 実・大木氏)二千石
 寛政三年六月名跡相続、大組付、中小姓頭、小姓頭 文化十一年十月致仕。家紋は「丸に梅鉢紋」「丸に一文字紋」である。

■田中為助は、(南東22-22)田中八十郎家の 7代目・八百石(七百石)文化二年三月(三拾挺副頭)~文化六年三月 高瀬町奉行
 家紋は「丸に抱き沢潟紋」「撫子紋?」

■田中亀之助は、家祖は長束(水口)大蔵大輔正家そのため(南東29-28 な)の項に収められている。
 田中(長束)孫四郎家の7代目である。家紋は「細輪紋」か?

■田中甚左衛門
は、(南東38-20 ま)田中(松長)和卜家の5代目甚左衛門(平右衛門) 五百石
  柳生流剣術師範 延享元年父長左衛門病死にて跡目相続被仰付幼年に付御留守居御番方被召加師役被仰付迄中山左助
          引廻被仰付宝暦二年師役被仰付候事
  田中平右衛門 名は保行、柳生流剣法師役にして傍ら射を善くし、和歌を好む。文化十三年十一月没す。年六十。
  家紋は「隅切り平角に隅立角紋」  

■田中丹次は、(南東23-10)田中弥兵衛i家の6代目。御目付・御中老支配 三百石内二百石御足高
 田中麟之 名は丹次、字は麟士と称し、麟之と号す。梅畫の名人たり。「家紋は丸に隅立角紋」

■田中清右衛門は、(南東22-14)田中次郎太家の6代目。家紋は「三つ陰菱紋」  

■田中正吉は、「細川藩家臣略歴」に名前が見当たらない。家紋についても不詳。

■田中養達は、御医師(南東56-11 医)田中半随家の3代目養達(半随)。家紋は「丸に本文字紋」

■田中宗恕は、御医師(南東56-13 医)田中臘五家の4代目。
 田中淡水 名は道明、宗恕と称し、淡水と号す。藩公の侍医執匙となり禄三百石。文政二年十月十六日没す。六十二。
 家紋は「四つ目結紋」   

■田中喜五郎は、初代・以得(意徳)が忠利公に殉死した。(南東22-19)田中一夢家の8代目。
 家紋は「丸に十字紋」「頭合せ三つ結び雁金紋」  

■田中九郎兵衛は、九郎兵衛家の本人である。二代目・重直、真澄(実 的場又左衛門二男)。家紋は「丸に一文字紋」             

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■アオサギ

2022-05-27 11:36:39 | 熊本

 図書館にある本を借るために出かけたが、なんとなんと今日は定休日だった。
毎週火曜日が定休日なのだが、最後の週は金曜日だという事で仕方なく江津湖の遊歩道に出てみる。
水前寺公園から図書館の脇を通る加勢川の上流部はいつきても清らかな水の流れと水の音には癒される。
今の季節夜間には、蛍が飛び交っているらしい。保存会の皆様のご努力のお陰である。

          

 しばらく進むと中州の草むらの中に鳥がうずくまっていた。アオサギだ。
スマホを向けると、随分の距離なのに警戒しているのが判る。営巣して卵を抱いているようだ。
スマホで最大限にして撮影したのが、この写真。雰囲気だけでもという証拠写真である。
明日か明後日か又図書館へ出向かねばならない。その時はカメラを持参することにしよう。
少し上流の芭蕉園では、カワセミを撮影しようと望遠レンズでシャッターチャンスを待つ人がニ三人おられたが、こっちもお願いしたいところだ。
太陽光をうけてきれいな水の水面がキラキラ輝いている。
市民数十万人を賄う水道が、湧き水というこの自然の恵みに感謝しなければならない。
多くに散歩をする人や、イーゼルを立てて絵を描く人、緑陰のベンチで肩を並べているご夫婦らしいカップルなど様々にこの恵みを楽しんでおられる。
これ全て阿蘇の伏流水である。阿蘇に感謝。

             

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■六所宮と歌舞妓興行

2022-05-27 06:44:36 | 歴史

 かっての藤崎宮の横手(豆腐谷側)に「六所宮」があった。私の記憶が正しければ、お六様(光尚)が誕生した時に忠利が創建したと言われる。
ここにご紹介する絵図は、熊本県立図書館が所蔵する古文書「御警固心得」に在るものである。
藩主が六所宮に参詣された折の、所々警固について、種々の決まりごとが絵図も含め記載されている
           

 この資料を読みながら、熊本藩士の弟で津山藩の世子の教育係として招かれた大村荘助が表した「肥後経済録」にこの六所宮についての記述があったことを思い出した。
八代古文書の会叢書・第6巻「熊本経済録ー細川重賢の宝暦の改革ー」を取り出して確認してみると間違いなかった。
該当項はいたって短文なので引用する。

       侍に浄瑠璃禁制、歌舞妓(伎)禁制被申付、歌舞伎の儀ハ城下六所宮に御座候、見物不苦候、六所宮と申は先君代々
  の氏神ニて、
豊前国より国替の節引移申候社ニ御座候、氏子無之社ニ付、禄も付居申候得共、外の入も無御座候ニ
  付、毎年九月中歌舞伎
芝居御座候、此芝居計り見物不苦候(以下略)

 これはあくまでも重賢公の時代の話であり、以降に於いては変更があるかもしれないが、なかなか厳しい規制である。
藩主家の氏神様で氏子が存在せず、禄も十分ではなく維持するのも大変であったろう。応分の入場料などが科され、維持費などに宛てられたのであろうか。
武士ならずとも、近郷の百姓や町民なども楽しんだのであろう。

 

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■御侍帳・家紋から考える(23)

2022-05-26 14:57:36 | 家紋

                             
                                                                新・肥後細川藩侍帳【よ】の部      

■吉田善左衛門は、相撲司(南東20-6)吉田善内家は、代々が善右衛門を名乗っており、人物の特定は出来ない。
 家紋は「隅立角に■■」     


■吉田嘉大夫は、(南東20-8)吉田傳太家の6代目・嘉大夫(傳兵衛)、ちなみに8代目・太左衛門は文久二年(1862)十二月
 十九日別宅(お玉ケ池桧物町)横井小楠他ト酒宴中刺客ニ襲われ後日死去。9代・己久馬(傳右衛門・傳太)は仇討ニ
 出、後
 慶応四年(1868)二月三日鶴崎竜興寺境内ニテ仇討ち(吉田傳太復仇録) 家紋は「組み合わせ角紋」

■吉田嘉久馬は、(南東20-10)吉田嘉蔵家の4代・冨寿(嘉久馬・繁蔵)である。家紋は「丸に吉文字紋」「黒平角に持ち合い切り抜き紋?」

■吉山市右衛門は、【丹後以来】の(南東21-4)吉山典午家の 5代・市右衛門(養子 初・九郎太夫 杢之助・直昌)で}ある。
 享保十七年四月~享保十九年十二月 阿蘇南郷郡奉行、寛延三年六月~ 下益城郡奉行、享保十九年十二月~宝暦二年九月(病死)飽田詫摩郡奉行。
 家紋は「剣花菱二つ切紋」「丸に吉文字紋」

■吉村忠兵衛は、(南東20-22)吉村儀平家の4代目である。父・文右衛門 は延享三年「吉村文右衛門上書」を上げたことで知られる。
 家紋は「隅入り立角に二つ巴紋」「亀甲に水文字紋」

 ヨシガイ
■吉海万平
は、(南東21-3)吉海小平太家の5代目・幸純。文化四年四月(三十挺副頭)~文化七年九月 高橋町奉行・十挺頭ニ転
 尚、市之允・景純は「藩に仕へ奉行職となり、禄三百石。宝暦改革に力を盡して其功多し。」
 家紋は「六角」(又は亀甲)   

■吉海又八は、(南東21-6)吉海弥門太家の5代目である。同上・小平太家の分家であり、家紋も同じ。  

■吉見市三郎は、北野天満宮社家・梅松院の出で(南東21-15)吉見十内家の7代目・市三郎(市右衛門・喜八郎)である。
 家紋は「梅鉢」
    

■吉村橘左衛門は、(南東20-20)吉村橘次家の人だが、代々が橘左衛門を名乗り人物の特定は不可能である。
 家紋は「六角三つ銀杏紋」か?  


■吉村嘉善太は、(南東20-21)吉村橘太郎家の6代嘉善太(直左衛門)。
 文化元年頃~ 芦北郡代、文化十年一月~文化十四年三月 菊地郡代(合志郡・兼)。家紋は三重丸だが正式名称は不詳。
                         
 

■吉住半四郎は、【丹後以来】(南東21-1)吉住半四郎家の9代目である。旧六百石「天保申年三百石被召上候事」とある。
 家紋は「  」
■吉住小十郎は、【丹後以来】(南東21-13)吉住直人家の6代目である。家紋は本家に同じ。 

■吉川安助は、(南東21-19)吉川一休家の4代目安之助(安大夫・安助)である。家紋は「丸に細桔梗紋」か?  

■吉弘加左衛門は、(南東21-5)吉弘 加家、こちらも代々加左衛門を名乗りとしており特定が出来ない。
 大友一族で石垣原の戦いに於いて実質の対象を務めた吉弘嘉兵衛・統幸の子孫である。それゆえ家紋は「杏葉紋」である。  

■吉弘友之進は、同上分家、(南東21-7)吉弘 貞家の6代目である。家紋は本家に同じ。  

■吉冨猪八は、(南東21-11)吉冨一平家の6代目である。家紋は「隅立角に折れ松紋」「  」

■吉岡半右衛門は、鶴崎城主吉岡統増を初代の父とする(南東21-16)吉岡準平家の6代目・政之助(半右衛門)である。
 家紋は「隅切り立角に一文字紋」「七宝に一文字紋」  


■吉岡 仕については、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。そのため先祖附が見受けられない。

■吉津 仲についても、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

■吉井市右衛門についても同様である。

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■某御家老家のコレクション出る

2022-05-26 08:30:34 | オークション

【真筆】【蘇山】[細川衛世姫 幾姫 治年 濵丁 斉樹 宣紀] 6021 掛軸 手紙 絵 和歌 手紙 箱付 紙本 熊本 肥後 藩主 在銘

             

  出品者の説明によると、某家老末裔家のコレクションだという。内容写真はこちらからご覧いただきたいが、見事な品物ばかりである。
特に私の目を引いたのは、齊茲公の参勤の途中で描かれた「濱丁様御画」と称する周防室積・富士・笠戸などの風景画である。
その画才は御子・耈姫様像でいかんなく発揮されているが、この参勤途中での写生も素晴らしい。
随分高額な入札額になるのではないか。    

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■金津家の「と駒紋」のこと

2022-05-25 07:16:14 | 家紋

 ガラシャ夫人に殉死した金津助十郎の二男家(十郎家)の現当主は、私のまた従兄弟にあたる。
私の祖父の三弟の長女が金津氏に嫁いだ。
実は私は金津氏には御目に罹ったことはないと思うが、金津氏が私のブログを御覧になっていて、これがきっかけで交流が始まった。
80年近い年月は簡単に埋まってしまった。

そしていろいろお話を伺う中で、家紋である「と駒紋」についてもご説明をいただいていた。

処が先の■御侍帳・家紋から考える(19)の中でミスをしてしまい、ご指摘の手紙を頂戴していた。
それはこの家紋は「又十郎の拝領紋」であるという事である。
「御侍帳(家紋入り)」を確認すると、どうやらこちらが間違っているようだ。
ちなみに「肥陽諸士鑑」をみてみると、こちらでは「と駒紋」は紹介されていない。
何はともあれ、間違いを明らかにしておかなければならない。(19)の該当項を訂正させていただいた。

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■「木下眞太郎(韡村)宛」を含む書状多数

2022-05-25 06:41:27 | オークション

             【真筆】【蘇山】[城野静軒] 6736 巻物 書状 合箱 熊本 肥後 菊池 在銘

 木下韡村宛書状などを含む、城野静軒の書状などがまとめて一括で出品されている。
残念ながら大きな画面でご紹介できないが、上記オークション紹介ページでは大きな出品物の内容を確認することが出来る。
誠に達筆なもので、それがかえって読むのに難儀している。入札まであと四日、少々にらめっこをしてみたいと思う。
これは研究者の手にあってしかるべきものだろう。
一方では、韡村研究には有難い史料なのだが・・・高価になりそうで手が出せそうにない。

 さて過日、元・くまもと文学歴史館館長・井上智重氏から「木下韡村勉強会」のお知らせをいただいた。
ご興味がお有りの方はご出席いただきたい。

                   「令和韡村塾」開催のお知らせ

    6月から毎月第2,第4水曜日午後2時から開きます。
    場所は市電新水前寺駅のやや東、サニーの裏の出水6町内集会所。公園の中にあります。
    6月8日、開校式です。講師は野口宗親先生。「韡村日記」を読む、です。参加費は1回千円。一応12回。

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■御侍帳・家紋から考える(22)

2022-05-24 13:27:22 | 家紋

                                           
                新・肥後細川藩侍帳【か】の部

■蒲池喜左衛門は、(南東19-3)蒲池軍太家の5代正定であろうと思われる。宝暦の改革の立役者の一人である。
 蒲池崑山 名は正定、通称喜左衛門、崑山と号す。人と為り厳正、人に異る志操あり、而して性遅鈍、少しも利発なる
 事なく、言語も即時に出兼る程の人なりしが、器識ありて大事を処するの才あり、奉行職となり、後には大奉行を兼ね
 政務の難局に當り、即座に決し難き事は一夜思案して翌日出仕して陳述するに、必ず奇計妙策にして同僚同意心服せざ
 る事なしと云ふ。時に三間梯子の称あり、尢名誉ある人なり。食禄九百石、宝暦改正に力を致して功績大なり。
 寛政五年十二月十八日易簀、年六十六。墓は内坪井流長院。家紋は「左巴紋」及び「丸に■■紋」である。   

■加藤軍次については詳細を知り得ない。家紋は「杏葉紋」

                新・肥後細川藩侍帳【よ】の部

■吉田茂兵衛は、該当人物が見受けられない。今後の課題としたい。

■横山寿七郎は、(南東21-2)横山龍造家の8代目。 寛政十二年八月(御側御弓十張頭)~文化七年七月 八代番頭、
 文化七年七月~文化十三年二月 留守居番頭、文化七年九月~   番頭、文化十二年九月~文化十三年 鶴崎番頭、
 家紋は「丸陰に流鼓紋」

■横山幸記は、(南東21-9)横山萬次郎家の6代(弥次右衛門) 新知二百石
 横山幸記知行差紙(寛政八年)二百石、細川斎樹公御書出(文化九年)二百石、細川斎護公御書出(文政九年)二百石、横山三郎吉知行差上目録(文政十二年)が残る。
 家紋は龍造家と同じである。分家筋である。

■横田勘左衛門は、(南東20-17)横田 清家の5代目である。謙信流軍学師範。名は房卿、世禄二百五十石、藩に仕へ軍
 学師範たり。天明七年六月廿九日没す。年六十六。家紋は「丸に五つ環に唐花?」
■横田は、名前がなく人物の特定できず。家紋は「同上」及び「隅切り平角に違い鷹羽紋」

■横井楽三郎は、(南東21-8)横井然平家350石の人物と思われるが、楽三郎を名乗る人物の特定が出来ない。
 横井氏は北条氏を出自としており家紋は「三つ鱗紋」である。   

■横井儀右衛門は、(南東21-18)横井 覚家の家系の人物だが、代々が儀右衛門を名乗り人物の特定には至らない。   
■横井大平は、(南東21-14)横井平四郎(小楠)家の4代目、横井太平 名は時直、幼より才幹あり、藩に仕へ穿鑿所目
 付より所々郡代等を勤め、奉行副役作事頭兼帯となる。天保十一年六月四日没す。年五十六。其子は小楠なり。 

■吉田淳平は、大友一族、(南東20-9)吉田 淳家の7代目、御鉄炮三十挺頭・大木組 五百石である。
 大友義鎮(宗鱗)→大友義統→大友義乗→大友義親(大友家嫡流義乗二男)→細川家家臣吉田家初代・縫殿助と続く名門である。
 家紋は言わずと知れた「大友杏葉紋」である。  

■吉田次郎左衛門は、(南東20-12)吉田二兵家の4代左内(二郎左衛門)もしくは、5代十郎助(善右衛門・二郎左衛門)のいずれか?
 家紋は「陰陽二文字紋」及び「丸に三つ柏紋」  

■吉田伝右衛門は、(南東20-7)吉田傳衛家の4代目傳右衛門(太郎兵衛)である。養子の閏之助は「肥後菖蒲」の祖。
 家紋は「左巴紋」 

■吉田小次郎は、(南東20-4)吉田権三家の7代目である。家紋は「隅切り角に左巴紋」「隅切り角紋」

■吉田平右衛門は、(南東20-2)吉田長四郎家の6代目。家紋は「隅立角に左巴紋」上記権三家と親族か?  

■吉田松立は、御医師で(南東56-10 医)吉田英記家の4代目である。家紋は「違い角」

■吉田五郎左衛門は、(南東20-1)吉田孫四郎家の7代目。家紋は「隅入り角に■■紋」  

■吉田内藏次は、(南東20-3)吉田三郎家の4代目である。家紋は不詳。 

■吉田嘉右衛門は、(南東20-5)吉田 学家の5代~8代が同名であり家禄も同じであることから特定し難い。
 家紋も不詳。  

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