津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■You Tube・05/28 にライブ配信 「熊本城の過去・現在・未来」

2021-05-31 15:38:19 | 熊本

               「熊本城の過去・現在・未来」

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■中村恕斎の墓誌その他

2021-05-31 09:11:18 | 人物

 過日、先輩のK氏から中村恕斎の墓誌を読んでいるが、加勢をしてほしいとの連絡をいただいた。
これは私が100倍の力を発してもできる話ではないが、資料が送られてきた。数日経過するが手のつけようもなく困惑している。
一方、史談会の若い友人N君から、今朝の事だが、平成肥後国誌の篇著者・高田先生が恕斎の知行地にあるお墓に関する写真三枚を送ってくれた。
これは偶然とは思えない因縁めいたものを感じ、真剣にチャレンジせずばなるまいと思った所である。

   

            

 

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■花畑邸の部屋の名前

2021-05-30 11:24:46 | 歴史

 ある文書を読む中で、花畑邸の主要な部屋の名前が出てくるが、現在我々が確認できる数葉の絵図を見ると、特に藩主の居間の周辺が幾度となく増改築がなされていることが判る。今回は「寛政期」のものとされる絵図を以て部屋の名前を明らかにしたいと思う。

 この時代の武家建築は、能舞台を中心にして考慮されている。この絵図は北を上にしている(上が坪井川、左が桜町)となる。
一番奥まったところに藩主の常の間があり、北側の「御裏」に廊下で繫げられている。
          1、御居間 この絵図では6帖ほどの小さな部屋だが、「披雲閣」とも言われた。
          2、御次之間
          3、陽春御間 南面する庭を陽春庭という。まさに「君子は南面す」の部屋配置である。
          4、氷室山御間
          5、次ノ御間 この部屋は「竹の間」とも呼ばれたらしいことが、有吉家文書で見受けられる。
          6、御敷舞台 元禄八年以降とされる絵図では「御座之間」と記されている。
          7、歌仙御間 
          9、御鑓之間
           10、鏡之御間
           11、      私はこの部屋に「九曜の間」と朱書きしているが、その典拠が何であったのかが不明である。
           12、中柱之御間 部屋中央に柱が在ることからこう呼ばれている。構造上の問題であろう。
           13、佐野々御間
           14、御上段   御舞台の真正面に位置し南面している。
           15、鷹之御間
           16、御使番詰所    藩主其の他の通り道となる部屋だが詰所というのが不思議ではある。   
           17、御広間
           18、御用人之間

 ある文書に「鹿の間」と書かれているものが有る。文章の内容から「2」の御次之間ではないかと推察しているが、裏づける史料がなく今後の問題としたい。
また、「口之間」と書かれたものが有るが、「17」御広間に隣接するいくつかの部屋が、御玄関から入った直ぐの位置にありこれがそうではないかと考えられるが、これも絵図に記載されたものが見当たらず推察の域をでない。

これらの部屋名について御存知の方は、ご教示いただければ幸いである。

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■いつの事やら・・ワクチン接種

2021-05-30 09:01:46 | 徒然

 熊本では昨29日、75歳以上80歳未満のワクチン接種の受付が始まったが、たった一日だけだ。
電話ではとても駄目だろうと思い、インターネットでの申し込みを試みた。
その手始めとして、発券番号と自分の生年月日を打ち込むのだが、エラーになる。とんと原因が判らないが、面倒くさくなってやめてしまった。

さて、私のような申し込みから外れた者はこの後どうなるのだろうか。
ほかの大勢の人たちがワクチンを打ち、コロナ禍が抑え込まれたらそれで大いに結構だと思っている。
私の奥方もほぼ私と同じ考えだし、加えてワクチンは罹患率が高い若い人たちを先にした方が良いというのが持論である。
本人は申し込みをしようともしない。私に輪をかけたような病院嫌い人間だ。

 しかしながら、り患した方々の苦しそうな療養の状況や、医療スタッフのご苦労を窺うと、やはりコロナにかかるのは願い下げで、ビリッケツでも良いからワクチン接種は受けたいとおもうし、お国は見捨てずにちゃんとやってくれるだろうと確信している。

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■悶絶・・

2021-05-29 21:14:13 | 徒然

 一昨日は散歩をさぼったので、昨日は朝からスロースクワットを3セットした後、しばらくしてから散歩に出た。
効き目が真夜中にやってきて、強烈なこむら返りをおこし悶絶してしまった。
歩きながら両足のふくらはぎと、右足の腿のあたりがはっているのを感じたので、ゆっくり歩いて帰り、わが家が近くなったところで近道をし、50センチほどの段差がある処で右足を踏ん張ったらふくらはぎが攣ってしまった。
まずいと思いながらも時間を経て忘れて居たら、「災難は忘れたころにやってきた。」
地震ではないが、こむらがえりもわずか前に予兆があるが、今回は対応が出来ず強烈なM7クラスが襲ってきた。
足を踏ん張ろうとベッドから足を下ろそうとするが、足元に絡んだ毛布が邪魔をして、ますます手遅れになってしまい唸り声を発して悶絶状態に成ってしまった。
まー何と痛いこと・・・、何とか毛布をはねのけて足を床に下ろすが、足先が伸び切ってなかなか元に戻らない。
大した時間ではなかったのだろうが、随分時間を要した気分で、しばらくベッドにこしかけて回復をまった。
ベッドに入ったものの、また起こりそうな気がしてうつろ/\して、少々睡眠不足である。

スロースクワットのスローというのが応える。注意して行いましょう。

 

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■所詮はと思いながら

2021-05-29 11:10:27 | 徒然

 コロナ禍の中、主要都市の緊急事態宣言が来月20日迄延長することが決まった。
オリンピックの開催が危ぶまれる中、このさい徹底的に抑えこもうということだろう。
熊本はまん延防止策が発出されているが、これはどうやら来月13日限りで終わりそうな気配である。
これで図書館や美術館や、熊本史談会が例会の会場としている熊本市民会館などの規制も緩んでくることだろう。
復元したばかりの熊本城大天守・小天守は、オープニングに水を差されてしまったが、これもいよいよ再開されるか、ただし熊本県民のみの処置がとられるかもしれない。

 何ともやるせないのが図書館の閉館、こちらはそう密でもなく大声を出すわけでもないが、本を介してということを心配してのことだろう。
来月13日以降再開されることを期待しているが、資料不足でブログの維持が困難になりつつある。
先祖附の改訂作業もストップ状態、毎日わが本棚からいろいろ本を引っ張り出して読んでいるが新鮮味がなくていけない。
                    

 最近、「歴史學原論」というお堅い本を購入した。大学で歴史を学ぶ人達にはお馴染みのものだろうが、少々気合を入れなければ睡魔が襲ってくる。
歴史専門家はその勉強のスタートで何を学んだのかを覗いてみたいという興味からである。
所詮私たちは、森田誠一先生が「歴史滴録」で仰るところの「好学的歴史」家の範疇からは逃れられそうにない。
「歴史とは科学であり」、それは「個別的事象を通じて普遍的法則を見出すこと」だとされる。
単なる興味から発した門外漢の私だが、何とか一つことに没頭して、成果を得たいと思うが、所詮在野の「歴史好き」に終わる事必定である。
1,000家程にも及ぶ細川家関連の先祖附を徹底的に読んで何かを見出したいものだと思ってはいるのだが・・・

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■細川家関係オークション

2021-05-29 07:11:44 | オークション
肥後細川藩一ケ年御所務高定規 弘化2年 24×18㎝ 墨付24枚 外ニ寛政9年以前熊本廻り諸屋敷ホニ相成候分並八代御城下地震崩れ高・・
         1,000円  
細川之御伝記 幽斎公から3代綱利まで 26×20㎝ 墨付70枚 保存並
4,910円  
衆妙集 上巻 1冊 細川幽斎公著 歌文集 27×20㎝ 墨付45枚 保存良
1,200円  
銀台遺事附録 1冊 高木紫溟著 24×18㎝ 墨付48枚 嘉永3年写 細川重賢公の事績 遺事に載なかったものを55ケ条としてまとめたもの
2,100円  
蜜録 御内意之覚 熊本藩領分 上益城郡甲佐手永大町村 慶応2年写 25×17㎝ 墨付24枚 保存良
2,300円  

 

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■発見「明暦前後」の桜町周辺絵図

2021-05-28 17:56:49 | 地図散歩

 2017年8月14日にUPした■「明暦前後」地図散歩」が幾重不明だったが、ようやく画像フォルダから探し当てました。
少々「ペイント」で書き込みをし、画像を見やすいようにしたつもりですが、文字がぼけており一応このままUPしますが、いずれほかの絵図をご紹介する際、もう少し見やすくしたいと思います。         

         

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■再チャレンジはあるか?

2021-05-28 06:13:38 | 地図散歩

 2017年8月14日にUPした■「明暦前後」地図散歩に「肝心の絵図が載ってねーぞ」と悪友が知らせてきた。
慌てて眺めて見ると確かにない。添付し忘れていた。2017年のフォト一覧を探すが見つからない。
さてどの地図だったろうかと、大いに慌てて探している。悪友には「しばらくお待ちを・・・」とメールしておいた。

処で過去に「我が家検索リスト」というものをご紹介してきたが、一連の「熊本分所絵図」12葉はこれは「安政比」とされる同時代のものがまとめられてある。
ほかにも熊本市史の「絵図帳」には時代が異なる種々の絵図が遺されている。これは時代はバラバラである。
これを何とか掲載してほしいというリクエストもあるが、これだけの数があるとこれは相当の体力を要する。安請け合いはとてもできない。

    22・二ノ丸之絵図     元禄年前後(1690~1700)
    23・ 同上        宝暦年後半ころ(1700年代後半ころ)
    24・ 同上        天明年前後(1781年前後)
    25・二ノ丸之内千葉城段山 文政年間(1718~29)
    26・東二ノ丸       不明 27と一対か
    27・西二ノ丸       不明 26と一対か
    28・山崎之絵図      寛文五年(1665) ~延宝二年(1674)
    29・ 同上        寛延三年(1750) ~明和四年(1769) 
    30・ 同上        宝暦五年(1755) ~宝暦九年(1759) 
    31・山崎         弘化二年(1845)五月以降 
    32・高田原之絵図     万治二年(1659) ~寛文二年(1662) 
    33・ 同上           同上
    34・ 同上        元禄七年(1694)
    35・ 同上        元禄十一年(1698)~宝永元年(1707)
    36・ 同上        宝暦六年(1756) ~宝暦十一年(1761)
    37・南高田原之図     享和三年(1808) ~天保六年(1835)
    38・北高田原       文化十三年(1816)~文久三年(1863)
    39‐1・手取 千反畑 外坪井 向寺原 竹部之絵図 分割1
    39‐2・手取 千反畑 外坪井 向寺原 竹部之絵図 分割2
                 明暦元年(1655) ~寛文二年(1662)
    40‐1・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割1
    40‐2・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割2
    40‐3・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割3
    40‐4・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割4
                 寛文四年(1664) ~寛文七年(1667)
    41‐1・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割1
    41‐2・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割2
    41‐3・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割3
    41‐4・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割4
                 延宝六年(1678) ~延宝七年(1679)
    42・手取之絵図      宝暦三年(1753)ころ
    43・手取藪の内坪井堀端之絵図  延享四年(1747) ~宝暦四年(1754)
    44・外坪井 千反畑絵図        宝暦元年(1751) ~宝暦四年(1754)
    45・建町構ヨリ荘厳寺迄  文化年(1804)以後
    46・千反畑        江戸後期
    47・立田口絵図      宝暦十年(1760) ~安永二年(1773)
    48・向寺原 建部之絵図     宝暦三年(1753) ~宝暦五年(1755)
    49・  同上       文化十一年(1814)~天保十年(1839)
    50・向寺原絵図      宝暦二年(1752) ~宝暦六年(1756)
    51・向寺原        文化十一年(1814)~天保十年(1839)
    52・建部         明和年間(1764~1772)ころ
    53・内坪井        延宝四年(1676)~元禄十一年(1698)
    54・寺原之絵図      元禄年前後(1600~1700初)
    55・南寺原絵図 但 内坪井京町之内モ有之
                 宝暦年間(1751~1763)
    56・北寺原        宝暦年前後(1750前後)
    57・京町之絵図      寛文六年(1666)以前
    58・  同上       元禄七・八年(1694・1695)
    59・南京町        明和七年(1770)以降
    60・北京町           同上
    61・岩立之絵図      寛保二年(1742)~宝暦五年(1755)
    62・北岩立之絵図     宝暦元年(1751)~宝暦六年(1756)
    63・高麗門 塩屋町之絵図 明暦二年(1656)~寛文末期(1672)
    64・高麗門 塩屋町絵図  元禄十一年(1698)~元禄十四年(1701)
    65・高麗門 塩屋町絵図  宝暦五年(1755)~宝暦十一年(1761)
    66・高麗門 塩屋町之絵図 文化八年(1811)~文政七年(1824)
    67・塩屋町        文政九年(1826)

    68‐1 ~ 68‐12 熊本所分絵図 安政四年(1857)以降   ご紹介済「我が家検索リスト」
   

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■紫陽花

2021-05-27 14:32:30 | 徒然

 今日の未明は随分雨が降ったらしい。奥方は雨の音で眠れなかったと言っていたが、私はめずらしく熟睡して全く気が付かなかった。
去年大水害を起こした県南の河川が心配されるが、どうやら雨も上がりそうな気配で一安心である。
熊本市内は日も照り出し気温も上がりそうだ。
昨日は病院に薬をもらいにゆき、少々遠回りをして帰り、散歩をしたことにしたが、少々距離不足の感じである。
少々血圧が高めで安定しない。歩いていても体がふらつくし、最長コースの4.4㌔を歩くとこれが坂道も多く、天気が良い日はとても歩けない。
さて今日はどこを歩こうかと思案しながら外へ出る。水無川は水かさを増して音を立てて流れて居る。
何時もの路地を進むと、額紫陽花が雨に打たれていて誠にすがすがしい。
そうだ、紫陽花の写真を撮影して回ろうと、住宅街に入り込む。一つ撮影しては次の角まで進んで先を見廻す。
花が大輪だからすぐ目に付くし、その場所へ進んで撮影してまた同じことを繰り返し、思わず距離を歩いたように思う。
紫陽花といってもいろんな種類が有り、色があって様々だが、いずれもやはり雨が似合うようだ。

                紫陽花や白よりいでし浅みどり  渡辺水巴 

           

                                     トリミングがバラバラになってしまいました。

                           

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■地図散歩「竹部」界隈

2021-05-27 09:41:59 | 地図散歩

 昨日ご紹介した坪井七曲りを東に進むと「菊池往還」へ出る。このあたりは藩政時代の「竹部」という地名であったが、現在では存在しない。
古くは建部とかき、磐井の乱(527)のおり肥後の火の君をけん制するために軍隊を派遣した其地であるといわれる。由緒ある地名である。
南は豊後街道(国道57号線)に面し、藩政期には街道沿いは鉄炮の者が住まいして、小さな道が迷路のようにあった。
現在では随分道路も整備されたようだが、これまた奥へ入ると七曲り同様、車の運転に自信がない方は立ち往生しなければならない。
中に入り込むと突然火除け地ででもあったのか広い道があらわれ驚かされる。今日ご紹介する絵図では「小枩(松)原」と記されているが、松の木が植えられていたのだろうか。
この辺りにになると下級武士の住まいが立ち並び、わが先祖の住まいもここにあった。■向こう三軒両となり(二)
このあたりの散策には、地図が必需品となる。但絵図に見える泰勝寺への道などは、現在は消滅している。
黒髪小学校・濟々黌高校・熊本大学などの校地、久本寺などの取り囲まれた一角でと、菊池往還を挟んだ反対側の地区で、現在の地名でいうと、黒髪1・2丁目、坪井4丁目当りである。
西の方では菊池往還の「中三軒丁」につながっているが、「出屋敷」の名前が見られる。
小路名が書かれており、大変貴重な古地図である。

      

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■坪井七曲りと木山往還七曲り

2021-05-26 17:06:55 | 地図散歩

 もう30年ほども前の話である。私の伯父嫁の実家S家が当時坪井の七曲りにあった。
所用があって車で出かけたが、その名の通りクランクが連続し大いに難儀したことを思い出す。
新国道三号線の開通によって、分断されたが、坪井の必由館高校(元米田家屋敷)の正門前からやや進んだかってはどんずまりの所から右折し、黒髪1丁目の椋天神のあたりまで繋がっていた。
だから私が入り込んだ七曲がりは、四曲がり目くらいの所であったのだろう。
地図上は国道につながっているように見えるが、5・60センチくらいの段差が有り、帰りはこのクランクをバックで出たという次第である。
もうS家も引っ越されたので出かける機会もないが、今一度歩いてみたいし、椋天神当りにも出かけてみたいと思う。

       
   

 過日もブログでご紹介した「木山往還」ここにも七曲りが在る。ここは全く道筋が変わることはなく存在している。
ただし、木山往還自身は、白山から水前寺地区で豊肥線により分断された。しかし数少ない横断路の一つとしてかろうじてつながっている。
県営堀之内団地の南側から、国府高校の北側をへて、私が幼少期を過ごした出水町(今)のどんどん川に沿って砂取四つ角のやや手前に顔を出すことになる。
ここから県立図書館の前を通り、八丁馬場から健軍神社へと進むことになる。
こちらも初めての人は迷い込んで身動きが付かなくなるが、現在は携帯の地図で居所が瞬時にわかって大助かりである。

       

                                 ルートは 今昔マップon the webで確認済です。

 

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■佐貮役について

2021-05-26 06:48:01 | 歴史

 花畑邸内には藩主の居館とは別に、右手に家老の詰め間を有する建物が在る。家老は月番で、藩主が在国の時にはこの詰め間に出仕したが、藩主が参勤で江戸詰めの折にはそれぞれの屋敷で執務に当たった。
家老の執務に当たっては、その業務にはそれぞれの家臣があたり、業務の遅滞や機密の漏洩など不都合が起こることがあった。
そのため、重賢公の時代になり、家老は奉行所に詰めることが規定され、彼らの業務は機密の間で行われるようになり、陪臣の介入が止むことになった。           

■熊本藩の支配機構--1 「機密の間」(一)
■熊本藩の支配機構--1 「機密の間」(二)

機密の間には「佐貮役」がおかれ、家老へ上げられる事案はここを通されることになった。
佐貮役は「さじ役」と読むようで「佐次」という字をあてられていることがあるが、この佐貮は漢語である。
「漢語網」というサイとに、「佐貮詞語解譯」がありその意は「舊時指擔任副職的官吏」であり「輔佐主司的官員。明 清 時,凡知府、知州、知縣的輔佐官,如通判、州同、縣丞等,統稱佐貳。其品級略低于主管官」と解説している。
この意からすると、「府や州や懸において補佐的官員として勤めて、これらを佐貮と称した」ということか。
高禄の者が勤めることはないが、高潔な人物が定められたのであろう。機密の文書を扱い、これらの漏洩が認められた時は罰せられたという。合議体としての最高機関である「会議」には、家老・中老・第奉行・奉行・用人・目付に加え佐貮役二人が出席した。この「会議」のまえには案件について「内会議」「本会議」「復議」にかけられた。
この「会議」においては、佐貮役が必要書類の朗読を行い、書記を務めた。
今日でいうならばさしずめ、総務・秘書課長といったところであろうか。

                                                                                       

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■ご恵贈御礼・「荒木村重研究会会報・第15号」

2021-05-25 20:16:29 | 書籍・読書

                       
      

 荒木村重の御子孫で、山梨の甲州市にお住いの同姓・MA様は、随分以前福岡県大牟田市に調査にこられた折にお目に懸って以来ご厚誼をいただいている。
この度「荒木村重研究会会報・第15号」をご恵贈賜った。厚くお礼申し上げる。
今回は、26頁にわたり「生き延びた村重の子孫たち」発表しておられる。MA様はお医者さまだが、東京大学の科学史科哲学科御卒業でもあられるから、御仕事の合間をぬってご先祖様である村重公の研究に没頭しておられる。
いろいろと資料などお送りいただいているが、お受けするばかりで誠に申し訳なく思っている。只々感謝するのみである。

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■暇つぶし

2021-05-25 08:51:49 | 書籍・読書

 今日は良い天気で外に出られそうですが、余りにも早い梅雨入りとともに、コロナ/\で大いにうんざりしています。
暇つぶしのために本棚を眺めまわしては、古い本を取り出し読み返したりしていますが、これもそろそろ飽いてしまいました。
過日ヤフオクを眺めて居ましたら「武家雛形」という、建築関係の古文書の冊子を発見、安く手に入れました。
武家の門やお能の舞台、納戸構え・厩などが取り上げられていますが、建築設計を生業としていた私でも、これら古建築は全くの門外漢で、これは宮大工さんの世界です。
日本建築の奥ふかさに魅了され、すごく興味が湧いて版木文字を一文字/\追いかけています。
これでしばらくは毎日一時間ほどは、ひまつぶしが出来そうです。

                           

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