津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ご恵贈御礼ー「放送大学日本史学論叢」

2023-04-28 09:55:39 | 書籍・読書

                           

 「加藤清正妻子の研究」「続・同左」「加藤清正と忠廣ー肥後加藤家改易の研究」など一連の肥後加藤家研究の第一人者の福田正秀氏から頭書の「放送大学日本史学論叢」をご恵贈給わった。
深く感謝を申し上げる。この冊子の中に氏の論考「徳川家康養女清浄院の母方系譜ー清浄院書状を解析するー」が、30ページに亘り掲載されている。
今迄の業績に加え「妻子の研究」は更なる進展をしている。つまり清浄院の生母(目加田氏)の存在が明らかにされ、清浄院の実父・水野忠重(家康生母・於大=伝通院の兄)との関係が明らかになってきた。
氏は「清浄院の人間関係や人柄、功績に新たな知見を開く」論考と言って居られるが、まさしくこれまでの氏の研究の成果としてこのような貴重な資料がもたらされて、氏の許に蓄積された多くの資料と共に更なる校合研究がなされて新たな世界が開かれてきた。
氏とはずいぶん長いご厚誼をいただいているが、今般またこの論考掲載誌をご恵贈給わり、論考をいち早く拝見できたことに感謝を申し上げる。
また機会を得てご講演を拝聴できる機会が訪れるのではないかと期待している。

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■見なきゃよかった有禄士族基本帳

2023-04-28 08:25:25 | 徒然

 K家という著名なお宅の先祖附が、他家の資料袋の中から出てきた。それも本家・分家二家分が一つ綴じにしてある。
本家分については有禄士族基本帳迄取っている。改めて二家分を分けてクリップ止めにして新たに資料袋も整えた。
そんな作業をする中で有禄士族基本帳に普段では記載ない特別な記事が付けられていた。
何気に目が行ったが、見なければ良かった。
明治十年五月と十一年の一月の二度に亘り、官山に自ら又は雇人と共に入り込み立木を都合十四本盗伐したというのである。
その代償は大きかった。「料賊盗律常人盗ニ準シテ諭シ士族破廉恥ニ係ルヲ以テ・・・」除族の上懲役六十日・杖六十に処されている。
杖とは杖打ちのことであり、その数60ともなると大変苦痛を伴ったであろう。

盗伐の木は没収されるべきところ、「己之費用スルニ依・・追徴に不及」とある。

 実は以前、全く同様の事例に出くわしたことがある。こちらはご依頼を受けて先祖附を取得して読み下しを行い、同様の記述が見受けられたため、「不愉快に思われる記述がある」旨を事前にご連絡した上、ご了解を得てお送りした。
高祖父の兄に当たられる人物の行為が腹に据えかねたらしく、随分御機嫌を損ねられたことを思い出す。
その高祖父という人は歴史に残る著名人であった。

 この二つの事例は大変内容が類似している。その裁判が行われた裁判所も同じところだと思う。
明治十年~十一年という時代からすると、西南の役で被災された結果ではないかと推測している。
先祖附や有禄士族基本帳を読むと、このような記載に時々遭遇して、おろおろしてしまう。

 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (2)

2023-04-28 06:54:32 | 先祖附

忠興文書-元和元年(慶長廿年)

91、(慶長廿年)四月十七日書状
 ・苺初物ノ礼

 ・本多正純ヨリ出陣用意ヲシテ指図ヲ待ツベシトノ指令アリ

(4月21日秀忠二条城に到着し、翌22日家康・秀忠は本多正信父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議。この時の徳川方の戦力は約15万5千。
 家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かわせる)

92、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・幕府ヨリ大坂参陣ノ指令来タル
 ・国中ノ舟ヲ小倉ニ集ム
 ・五十挺立ノ乗舟ヲ忠利ニ貸ス

93、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・水夫少キタメ惣勢陸路出立ヲ命ズ
 ・忠興ハ少人数ニテ海路上坂セン
 ・忠利ハ長府近辺ニ陣取ル予定ニテ出立スベシ

94、(慶長廿年)四月廿六日書状
 ・小笠原秀政・津田秀政ゟ書状届クモ、返事遣間敷候事
 ・忠利小倉へ被越、陸路罷上候様ニと指令
 ・忠興来廿九日・晦日之内ニ出船
 

(豊臣方、4月26日に(郡山城の戦い)、28日には徳川方の兵站基地である(堺焼き討ち) 29日には一揆勢と協力しての紀州攻め(樫井の戦い)。
 5月6日まで堺攻防戦を行った。)

95、(慶長廿年)五月五日書状
 ・忠興三日兵庫ニ著ス
 ・家康ハ牧方ニ秀忠ハ飯森下ニ陣ス、淀ニテ家康ニ謁見ス・家康ノ信頼忝儀ニ候事
 ・大坂方強勢或ハ味方謀叛ノ噂モ真実ナラン
 ・家康、忠興ヲ側近ニ居ラシム
 ・忠利ハ西宮尼崎附近ニ着陣シテ後命ヲ待ッベシ
 ・大坂方ヨリ茶臼山平野マデ兵ヲ出ス
 ・大坂方ノ兵一揆ト共ニ岸和田大和郡山邊ヲ焼ク
 ・京都放火ノ陰謀者捕ハル
 ・丹波摂津ノ一揆ノ鎮壓
(5月6日、道明寺・誉田合戦八尾・若江の戦い

96、(慶長廿年)五月七日書状 大坂城落城、豊臣秀頼・淀殿自殺
 ・昨六日、飯守下にて合戦、木村重成後藤基次薄田兼相等戦死
 ・七日ノ戦況、今日合戦度々之せり合中々推量之外、本多忠朝戦死、小笠原秀政手負(後死去)
 ・細川勢、鎗突き候者、一番七助・二番縫殿・佐藤傳右衛門・薮三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・續孫介
 ・其後大崩れ、松井右近一人取テ返シ、甲首一ッ
 ・七助(清田石見)鑓之鋒を突曲申候
 ・細川勢ノ挙ゲタル首級、貮ッ亀介・主水及び主水内之者、壹ッ賀賀山半兵衛・朽木與五郎
 ・大阪城天守焼亡シ秀頼等自殺ス 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
 ・此状草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候

(5月7日、天王寺・岡山の戦い  
 同7日申の刻(午後四時頃)に治長は家臣を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀
 頼・淀殿の助命嘆願を行う。

(5月8日、秀忠上記申し入れを却下、秀頼に切腹を命ず。秀頼らが籠もる山里丸にある蔵を包囲した井伊直孝勢が午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を
 放つことでこれを伝えた。これにより秀頼ら三十二人は自害をし、後に蔵内から火が挙がった=ウイキペディア)

97、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・大坂落城ニツキ軍勢ハ引返シ忠利ハ上洛スベシ

98、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・花熊近辺ニ到着セバ急報スベシ

99、(慶長廿年)五月十日書状 
 ・忠興大坂ヨリ尼崎へ渡リ京都ニ上ル

100、(慶長廿年)五月十四日書状 
 ・(忠利岳父)小笠原秀政・忠脩父子戦死、伏見ノ内竹田邊之寺ニ御入候
 ・忠利ハ伏見ニテ秀忠ニ謁スヘシ

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