津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「ベテルギウスの超新星爆発」・・・こういう本大好きです

2012-02-29 15:49:59 | 史料
   ベテルギウスの超新星爆発 加速膨張する宇宙の発見 (幻冬舎新書)
 
                                   幻冬舎

本の内容

オリオン座の中で明るく輝く赤い星ベテルギウスは晩年を迎えている。星が一生の最後に自らを吹き飛ばす現象「超新星爆発」。ベテルギウスは今、いつ爆発してもおかしくない状態にある。地球からこんなに近くで起きる超新星爆発は史上初のこと。過去、超新星は数々の宇宙の謎解きに役立ってきた。ベテルギウスが爆発したら何が起こるのか?二〇一一年にノーベル物理学賞を受賞した「宇宙の加速膨張」という衝撃的な事実は、どのようにして明らかになったのか?超新星の最新研究をやさしく解説する。

 

目次

第1章 ベテルギウスに爆発の兆候?!
第2章 星の誕生と進化
第3章 たそがれを迎えた星たち
第4章 宇宙の扉を開く
第5章 宇宙はどこまでわかったか
第6章 加速膨張する宇宙の発見

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時習館平面図

2012-02-29 14:09:06 | 史料

                   昨日時習館南門周辺の絵図をご紹介しましたところ、時習館全体の間取りが知りたい旨のリクエストがありました。
                   著作権の問題があり手書きの図面を準備しておりますが、それまでの間使わせていただくことにしました。
                   昨日ご紹介した南門は、この図面では左手上に成ります。(お間違えないように願います・・・) 

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藩校・時習館 南門

2012-02-28 16:20:41 | 史料

 藩校時習館の南門廻りの絵図である。棒庵坂を登り、監物台植物園の前を二の丸広場へ入ると正面正門があったが、藩主の出入りは居館から近いこともあり南門が使われることもあったらしい。現在の城内駐車場と二の丸の境くらいの位置か・・・
右手の門が南門、絵図ではは上下に東榭、西榭にみえ南門からまっすぐ通路があり、時習館に至っている。

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どうする・・・熊本

2012-02-27 08:21:15 | 徒然

banner1.gif 

こんなバナーが貼られたサイトがあった。 http://www.taiga-dorama.com/
(ぴえーるさん http://d.hatena.ne.jp/muxia/ が紹介されていて知りましたけど・・・・)

平成23年4月27日に設立された(?)という京都のNHK大河ドラマ誘致推進協議会が、「ガラシャ、光秀、幽齋、忠興を大河ドラマに」と強力な活動を開始している。ぴえーるさんが仰るように、タイトルの字の間違いなどいただけない部分があるが・・・・(いつ修正されるかウォッチングしなければならない)

行政がリードする協議会のようだが、こういう動きは熊本へ伝えられているのだろうか。
熊本は加藤清正公を同様な趣意で動きを増していることもあり、微妙な感じではある。
個人的にはなにか協力できないかと思ったりするのだが・・・・ 

 


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藩主居館・御花畑

2012-02-27 07:19:30 | 史料

 この絵図は藩主の居館・御花畑の正門周辺である。現在の熊本国際交流会館あたりになろう。

「特別企画 熊本藩大名行列」 http://www.ab.auone-net.jp/~xe2918/ezu/img/all.html でも雰囲気は理解できる。

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上羽勝衛著「日本史畧」

2012-02-26 21:00:09 | オークション

上羽勝衛 http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2337.html

 

和本■日本史畧 上下揃■上羽勝衛 古書古文書_画像1

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チャレンジ 貴方もどうですか

2012-02-26 15:48:48 | 徒然

 私の古文書の読み下しは独学我流なので、いつまでたっても完読出来るような状態に成らないで居る。これは一度ちゃんと勉強しなくてはいけないと思い、NHK生涯学習「古文書を読む」にチャレンジしようと思い。申込書を取り寄せた。

                       http://www.n-gaku.jp/life/dtl/4H0.html

生涯学習インストラクター制度というのも魅力的ではある。

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生涯学習インストラクター制度とは

文部科学省認定社会通信講座を実施している団体で構成されている、財団法人・社会通信教育協会認定の資格です。時代の要請に応えて、全国各地で多様な生涯学習活動を推進・指導する人材を育成するために、 「生涯学習インストラクター1級・2級」の資格制度を設けています。

内容
・生涯学習2級インストラクター…生涯学習活動における指導者の補助。
・生涯学習1級インストラクター…生涯学習活動における指導者。
資格を取得すると
・資格認定証書を交付し、認定証を付与します。
・(財)社会通信教育協会の人材バンクに登録します。
・登録者名簿を作成し、各都道府県・市町村教育委員会、その他関係機関・団体に配布します。
資格取得の方法
指定講座の修了を含む申請条件を全てクリアした上で、顔写真を貼った申請書に必要事項を記入し、申請料(2級の場合12,000円/1級の場合14,000円)を添えて申請することが必要です(申請時に2級は満18歳以上、1級は満20歳以上でなくてはなりません)。その後、(財)社会通信教育協会による審査を経て合格となります。

対象分野とインストラクター申請条件

 

古文書 2級 1.NHK学園の「古文書を読む」講座「基礎」コースを優秀な成績(全てのリポートの評価が「A」以上)で修了すること
2.NHK学園の「古文書を読む」講座「応用」コースを優秀な成績(全てのリポートの評価が「A」以上)で修了すること
1級 1.NHK学園の「古文書を読む」講座「解読実践」コースを2回受講し、優秀な成績(全てのリポートの評価が「A」以上)で修了すること
2.近世の古文書を素材とし、ひとつのテーマを設定して小論文を提出し、審査に合格すること


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泰勝寺内慈眼庵

2012-02-26 10:17:59 | 史料

 細川刑部家の墓地がある地は、泰勝寺内慈眼庵の跡だとされる。現況は立田山へ上る車道が泰勝寺と刑部家墓地を分断しているが、ここで示す絵図によると慈眼庵の建物は泰勝寺のすぐ隣に立っていたことが判る。(左端の赤い表示の建物である)

   ・山門右手の広場には現在細川家の歴代を祀る祖祠堂があり、上部建物は現存している。
   ・又、絵図の下方には小笠原少齋家歴代を祀る墓地があるのだが、お寺跡がどのようなものであったのか判らないで居る。
 

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三寒四温

2012-02-25 09:55:37 | 徒然

 一昨日であったか熊本も18℃を越える暖かさに、春が近いことを感じたところだが、朝夕は冷え込んで鼻がぐずぐず状態になって不愉快きわまりない。
一日中PCの前で作業をしているか、本を読むか、どちらかの毎日だから目だドライアイ状態で痛くてしょうがない。
ひょっとするとスギ花粉が飛散を始めたのかもしれない。三寒四温のこの時期皆様もどうぞお身体ご自愛ください。

恥ずかしい話だが私は三寒四温という言葉は、春この時期のものだと思い込んでいた。友人と話していたら、「秋にも使うんだよ」と言われ、ぐぐって見たらGoo辞典に用例として川端康成の「舞姫」から次のように紹介されていた。
           三寒四温の温に向いたか、近ごろになく、小春日和になりそうな、朝でもあった。

春のことと思い込んでいた私としては、川端先生の文章といえども違和感があってなじめない。しかし認識を変えなければならなくなった。

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忠利公の死と橋谷市蔵

2012-02-24 19:30:54 | 歴史

  熊本大学文学部・国史研究室が刊行した「史料・細川家文書・二」(昭和40年頃か)を眺めていたら、忠利公の「御印物」として興味あるものを発見した。

寛永十八年正月晦日付による「今度江戸へ歩ニ而御供望申候御中小性(ママ)衆」という書状の中に、十三名の御中小姓の名前が記されている。
自ら御供を望んで、参勤に加えられることがあることを知ることが出来る。五人の奉行の許から、「右之御中小姓衆歩ニテ致御供御奉公仕上度旨御奉行所へ申上候間御次手を以被達御耳可被下候以上」として、忠利の御次役である仲光小内膳・藤崎喜八郎宛にこの書状が発せられている。
そして忠利のものと思われる書き込みが為されている。「太儀ニ候めしつれ可申候此前之ものへ申付ともさせ可申候 以上」とある。

前の年・寛永十七年十一月廿六日・光尚宛て書状で、忠利は「我等息災十年此かた覚え申さず候」と記すほど元気だあった。
年が変わり少々体調に変化が見られ、父三齋も京都へ医者の手配をしている。そんな中での上の書状である。
三月十日の忠利の光尚宛書状はなんとも痛々しい。「右のてくびより手なへ申すばかりに候、し(死)に申すべき様にはこれなく候、心安かるべく候、以上」
老中宛てにも、「二十日には立ち申し度覚悟に候」と書状を送ったが、十四日に病状が急変、父三齋の悲痛な思いが光尚宛書状に伺える。
そして十八日に死去するのである。 

参勤の御供を願い出た中に橋谷市蔵の名前がある。想いが叶わなかった市蔵は殉死者十九人の中に名前を連ねることになる。
森鴎外はその著「阿部一族」で、この橋谷市蔵について次のように記している。

忠利は病が重くなってから、橋谷の膝を枕にして寝たこともある。四月廿六日に西岸寺で切腹した。丁度腹を切ろうとすると、城の太鼓が微かに聞こえた。
橋谷は附いて来ていた家隷に、外へ出て何時か聞いて来いと云った。家隷は帰って「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の桴数(バチカズ)は分かりません」と云った。橋谷を始として一座の者が微笑んだ。橋谷は「最後に好う笑わせてくれた」と云って、家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村甚太夫が介錯した。

上記「史料・細川家文書・二」では福田源太夫の弟として福田権内とともに列記しているが、これは間違いであろう。

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