津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■石井清喜氏の勘違い

2024-06-27 13:02:53 | ご挨拶

 あることを調べようと熊日出版の「肥後学講座Ⅱ」のページをめくってみたが、肝心の記事には出会わず、郷土史家・石井清喜氏のマンパワーによってできた通潤橋」が目に入って一気読みした。
この「肥後学講座」は三巻あり、「熊本城400年と熊本ルネッサンス」に際して都合36回にわたって行われた講演の記録集である。
(新・肥後学講座-明治の熊本に別途17講座分が収められている。)講演日は平成17年5月15日である。
石井氏は熊本日々新聞の傍系・熊日文化センターの取締役を努められた方であり、町在・関連資料に見る通潤橋架橋による関係町村への政治・経済的背景と効果についての共同研究者でもあられる。この資料は大変貴重な史料で何度も拝読した。
ここに通潤橋の建設費が総額711貫306匁余と書かれてある。ウェブサイトで同様のことを調べると38億円余りだと書かれているものをよく見かける。

 処が、石井氏の頭書の「肥後学講座」ではこれを15億円と書かれている。
先月の史談会では、美里町歴史伝承会の田上彰氏の講演「布田保之助翁よもやま話」をお聞きした折、少々質問をさせていただいたが工事費について38億円ほどと申しあげたら否定はされなかった。これは美里町での公式の見解となっているようだ。

 石井氏の講演記録を読むと、711貫余を銀勘定されている。そして1両10万円で換算されている。(実情は半額である)
以前から申し上げるように、これは「銭匁勘定」の数字であり、熊本藩は70匁勘定であるから、この数字を70倍しなければならない。
貨幣博物館の見解、江戸後期(1842~)によると「1両=銀60匁=銭6,500文」であり、
     (711.306×70)6.500=7.660両 この時期の1両=5万円ほどだとされるから38.3億円となり、美里町の見解と合致する。
つまり、石井氏は「銭匁勘定」をご存じなかったことになる。蓑田勝彦氏が「八代古文書の会会報」45・46号でこの「銭匁勘定」について報告されているが、そのきっかけはこの「通潤橋の工事費」がきっかけになっている。その発表は2013年(平成25年)10月であり、それまではこの不思議な「銭匁」勘定については、まだ闇の中にあったことが判る。

 工事費の約45%は藩からの借り入れである。田上先生の講演の際私が質問したのは、維新の改革により藩は消滅しており、返済は打ち切られたのではないかという疑問であった。田上先生は明快にこれを肯定された。いくら残債務があったのかは判らないが、相当の金額が返還不要となった。
明治維新とは不思議な改革である。

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