津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

観能出席者

2006-10-30 20:33:20 | 歴史
 又、私事で恐縮だが、我が家の二代目さんは色々な仕事をしている。
・元禄十年丑八月廿二日於花畑御能被仰付候節、両度共ニ御料理仕出し方之御目附役被仰付相勤申候
・同年十二月廿一日於花畑御能被仰付候節も表方仕出し、御目附役被仰付相勤申候
・同十五年午二月廿二日御参勤前、於花畑御能被仰付候節、表方仕出し、御目附役被仰付相勤申候   等がある。

 能を御覧になる方々にお食事をお出しする、その目付役ということだが、そんな方々というのは果してどんな人たちだろうと、常々考えていた。

 時代は遡るが、豊前時代の記録に次のようなものがあった。

 御能ニ付折進上仕衆覚
     長岡式部少輔
     有吉頼母佐
     長岡右馬助
     長岡監物
     長岡勘解由
     村上八郎左衛門
     牧左馬允
     氏家源六
     佐藤傳右衛門
     藪図書
     三渕内匠
     藪市正
     黒田蔵人
     道家次左衛門
     谷主膳
     續亀助
     志水宗加

    右何も折壱つ宛進上被申候間、此通可被仰上候、 以上

     二月六日     浅山清右衛門 花押
              西郡刑部少輔 花押
      飯田才兵衛殿

 出席者に食事(折)をお出しするについての名簿である。
さすがに錚々たる方達だ。裏面には「面々分見申候 心へニて可申候 以上」と書かれている。能とかお茶などはまだまだ高嶺の花の時代である。
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出女

2006-10-28 16:52:29 | 歴史
 小倉における細川時代の話である。故あって、小倉を離れる女性たちの消息が垣間見えるのが、「小倉川口御印之儀仰上可被下女之事」とある幾つかの文書である。忠利のローマ字印(tadatoxi)により決済されたものだが、なかなか厳しい。細川家筆頭家老松井式部少輔(興長)の届け出は「合二人内 壱人ハ与次郎女房也 壱人ハ同下女也」とし「右ハ私内松井与次郎女房ニて御座候 従江戸召寄候へ共離別仕伊勢ニ彼女房伯父有之ニ付唯今伊勢迄差上遣申候 自余之女ニ紛無御座候 勿論御国之女にて無御座自然此女ニ付出入之儀御座候者私可存候 其上無紛為請人志水伯耆相立申候 以上
  寛永三年 十一月二日 長岡式部少輔 花押  」
そして、志水伯耆守(頭衆五千石)が請人として署名している。ちなみに与次郎とは、松井康之室の甥に当たる人である。

 十一月七日には、播磨から罷下っていた渡辺藤五郎のおばが帰国するにあたり、藤五郎が同様の書類を提出、請人は杉新右衛門がなっている。

 村上八郎右衛門(長岡河内景則一万石)は、召仕う蔵田長右衛門の女房の母親を、松平安房守家来である相壻高木某が罷下って連れ帰るに当たって届け出ている。請人は長谷部文右衛門(物奉行六百石)であった。これが十一月十五日。

 その他明石源右衛門が、召仕・弓削八郎兵衛の妻と娘が暇を出されて生国備前に帰されるに当たり届け出、請人は桑原主殿助である。

 日にちが集中しているのは、何か訳が有るのだろうか。しかし請人まで立てて大変な事だ。藩主の決済を必要とする事案なのだろうか。小倉川口とはどのような場所なのだろうか。たぶん関所なのだろうが・・・・面白いなー。
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田辺籠城衆・村田彦三郎

2006-10-28 15:07:08 | 歴史
 河上彦斎といえばあの佐久間象山の暗殺者として知られている。そういう意味でどうも好きになれずにいた。在熊の作家故荒木精之氏の著作「定本・河上彦斎」を今読んでいる。筆を尽くして居られるが、多分私の気持ちは変らないだろう(と思う)

 彦斎は小森家の九代貞助の次男である。幼名小森彦治郎、河上家に養子となりお掃除坊主となって彦斎(げんさい)と名乗った。小森家の祖・彦三郎は始め村田彦三郎と称し、丹後国で忠興に仕えていた。慶長五年には田辺城に残り小野木軍と戦って軍功があったという。そのことを以って豊前にて七十石の加増があって百石を拝領、小森と改め倅には「御名御一字拝領」し与三郎と改名したという。彦斎の父貞助が書き残した先祖付にそうあるそうな。
(以上荒木精之氏の上記著作から引用した。)

 田辺籠城衆・村田彦三郎の名前は初見である。
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寛永三年湯治の旅

2006-10-27 20:06:51 | 歴史
・寛永三年金守将監は中風を煩い「色々養生仕候へ共快気不仕候間・・・」豊後の杖立へ湯治に行きたい、ついては往復三十日ほどお暇をいただきたいと申し入れている。これには請人が必要で、横山藤左衛門が署名している。杖立が豊後となっているのが面白い。
・同じ年、藤寺次郎左衛門も通気の故をもって、中国たわら山(長門・俵山温泉カ?)に湯治の願いをしている。請人は永良長兵衛とある。
・竹屋喜兵衛という人は「先年落馬仕候・・」て、有馬へ湯治治療往復五十日のお暇を申し出ているが、「後四月過候て可申候よし可申聞候也」とされている。何の理由か四ヶ月もまたされたのでは、直るものも直らないだろうに・・・・。ちなみに請人は熊谷九郎大夫である。
・竹原以凡(医師)は脱肛だそうな。こちらは藤寺同様中国俵山とあり往復二十五日、請人は嶋村三郎兵衛である。
・財津久兵衛は脚気、肥後国つゑ立へ往復二十八日、請人は志賀左門である。ここでは杖立は「肥後国」とある。

 いずれも「史燈」に掲載された「史料細川家文書」によるものだが、強面顔のお武家様がいろんな病気に苦労している様子が伺えて面白い。落馬した竹屋殿は歩行も出来ないのだろうから、籠に揺られての大変な旅だったのだろう。皆さんご苦労さん。
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久我家のこと

2006-10-24 16:21:09 | 歴史
 清華家の久我惟通に嫁した綱利の養女具姫(初・鍋、常)は、細川利重(綱利・弟、新田支藩・初代)女である。ここから久我家と細川家の深いつながりが始まる。惟通と具姫との子が通兄、通兄女由婦が重賢(細川家八代・綱利孫)に嫁ついできた。
惟通---通兄---敏通と直系できたが、敏通の跡は養子・信通(広幡長忠子)である。信通の跡は通兄の孫通明が継ぐことになり、正室として治年(細川家九代)女・美子(就姫)が迎えられている。又敏通女が細川利政(新田支藩・五代)に嫁つぐなど、久我家と細川宗家・新田家の間の、婚姻関係は度重ねられている。何か思惑あっての事か興味深い。
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綱利の女(むすめ)達

2006-10-22 18:02:10 | 歴史
 綱利の正室「久」は、松平讃岐守頼重(高松藩12万石初代藩主=水戸松平)の養女だが、実父は水戸中納言頼房(家康十一男・頼重の実父)である。五人のむすめ達の嫁ぎ先に「親藩」が多いのが興味深い。
 ●長女「菊」は伊予西条の松平頼路に嫁した。紀伊松平家と呼ばれるこの家は、紀州徳川家の継嗣を出している。藩祖頼純は紀伊徳川家の初代頼宣(家康十男)の三男である。頼路は若死にしたのだろうか、嫡子ながら藩主とはなっていない。
 ●二女「光」については既に書いた。酒井左衛門尉忠真に嫁いだ。
 ●三女「松」は、西園寺左中将と婚約したが十七歳で亡くなった。
 ●四女「楊」は、出雲母里藩(一万石)の二代目藩主・松平美作守直丘に嫁いでいる。越前松平家(家祖・結城秀康)の支藩・出雲松江藩初代直政が三男直丘に一万石を分知して立藩している。娘初姫が細川綱利の養女となり(母親の死によるものだろう)、伊予今治藩の松平采女正に嫁いだ事は先に書いた。
 ●五女「吉」は、同族細川采女正利昌に嫁いでいる。

 その他の娘は妾腹である。子供は多い綱利だが、男子(いずれも妾腹)は與一郎が十四歳、千次郎吉利が十八歳で亡くなっている。綱利の跡は、弟細川若狭守利重(新田藩主)の二男竹之助が養嗣子となった。宣紀である。
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伊予今治藩・松平家

2006-10-22 10:06:42 | 歴史
 綱利女楊は出雲母里藩の二代藩主・松平直丘に嫁いでいる。娘初姫は綱利の養女となっている。そして伊予今治藩四代藩主・松平采女正定基(貞基とも)に嫁いだ。もっとも後には離別したらしいが・・・。この輿入れに当たって、当家三代目又之允がお供している。宝永二年十一月と先祖附には記されている。

 この采女正、江戸に采女原とか采女橋とか後世に名を残している。
(謎・NHKアナウンサー松平定知は、家康の生母お大の方『久松松平』の血を引いているらしいが、伊予松山松平の胤とするウィキペディアの記述は本当かなー。もしそうなら久松氏が名乗りだろう・・・)
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庄内藩酒井家

2006-10-21 22:48:05 | 歴史
 庄内藩(鶴岡藩が正式らしい)といえば、藤沢周平の小説を思い起こすが、酒井家十六万七千石の城下町である。細川家とも関係有って、五代目藩主・酒井左衛門尉忠真に、細川綱利の女光姫が嫁いでいる。元禄二年の事であるが結婚生活は僅か七年、元禄九年二十九歳で亡くなっている。忠真は将軍綱吉に認められ、一時期側用人を務めたりしている。養嗣子忠寄は老中を勤めた。光姫の祝言にあたり、我が二代目は御道具支配人なるお役目を仰せつかり、江戸京都を走り回った。その労に対し、妙應院(綱利)から小判三両、光姫様から小判二両を頂戴したと先祖附は記している。
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偶然の「市中」

2006-10-20 08:32:51 | 書籍・読書
 季節はずれだが、夏目漱石に私の好きな次の句がある。
   市中は 人様々の 師走哉

 数日前出久根達郎のエッセイ「下々のご意見」を読んでいたら、この句が紹介されていた。この「市中」は「まちなか」と読むのだと・・・(わかってますけどー)
時代劇で「市中(しちゅう)引き廻しの上・・・」というのは、かっては「まちなか引き廻しの上・・・」と言っていたという事をおっしゃりたいらしい。
漱石の句と共に古句「市中は 物のにほいや 夏の月」が紹介されている。

 まったくの偶然だが、きのう浅野宏著「江戸の『闇』を読む」を読んでいたら、この古句に遭遇、凡兆の句であることが分った。じつはこれは連句でなんと芭蕉が七七を附けている。

 市中は 物のにほいや 夏の月  凡兆
 あつし/\と 門々の聲     芭蕉   となる。

「裏長屋の夏は夜まで蒸し暑い。涼風どころか熱風でさえ、長屋の角は曲がりきれない。蚊いぶし焚いても効果はないから、誰彼なしに裸を叩いて蚊を追っている」と著者は解説している。
(後で知ったこと---太宰治の天狗という文にこの句が紹介されているが、「いちなか」とルビがふってある。さてさて・・・)
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客屋局

2006-10-17 23:53:39 | 歴史
 我が家の先祖附に、佐々助三郎・丸山雲平の名前があった事は前に書いた。その接待役を仰せつかったのは、二代目の太左衛門である。この二代目は巡見使が肥後に入った時も、行き帰りの接待や対応その他で苦労をしている。細川藩においては客屋局という部署がある。當用局つまり当番奉行の府であるが、ここが客屋局を兼ねたらしい。この客屋局が巡見使の通行や、諸方の来賓、使節の來往に対応していたらしい。その他吉凶禮の儀式、都て他郷に係りたること、及使僧飛脚の類、君公東都参勤朝聘の事を掌る、とある。ご奉公四十二年、江戸への参勤は十五回に及び、定御供三十年というから国許での生活は僅かである。単身赴任でご苦労さんでした・・・・・
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山田詠美+1

2006-10-15 09:30:59 | 書籍・読書
 幻冬舎の編集最高責任者・石原正康氏は、ウィキぺデイアにも登場するくらいだから、相当の人物なのだろう。NHKの「プロフェッショナル」がなかなか面白くて毎回見ているが、この石原氏が登場した。かって山田詠美の本をむさぼり読んだ事がある。魅力的な才能を感じたものだが、若い石原氏が育ての人らしい。著名な作家たちが口を揃えて石原氏の人柄を称えている。又、山田詠美を読もうか等と思っている。

 幻冬舎のHPに気になる本を発見、細川貂々著「ツレがうつになりまして」だ。エリートサラリーマンの旦那がうつになり、暖かく見守り過ごされる様がユーモアたっぷりの文体で書かれているらしい。細川の名前も気になる。

 今日も良い天気、本屋さんまで出かけてみようか。
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迷惑至極

2006-10-14 14:29:28 | 歴史
 為政者が狂うと迷惑至極である。徳川綱吉の「生類憐れみの令」などが、最たるものであろう。ご本人は「良い事をしている」と思っているから、尚更始末に終えない。細川興元の玄孫・茂木谷田部藩四代藩主細川興榮は、元禄ニ年襲封している。その年の暮、領内の農民が犬を使い鹿を獲ったことにより、「遠慮」せしめられている。「遠慮」という処分はたいしたものではないのだろうが、襲封早々の事で大変だったろうと推察される。農民のその後がどうなったのか知らないが、軽い刑ではなかったろう。
八十歳まで長生きした興榮だが、人生いろいろある。

 
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ここ一両日

2006-10-14 08:43:02 | 徒然
 一昨日、図書館まで出かけた帰り道、公園の脇の一本の桜の木に三・四輪の花が咲いている事に気がついた。この日は熊本は30度をこす夏日となったが、汗を拭きながら狂い咲きした可憐な花をしばしお花見・・・。昨日13日は金曜日、案の定なんとも面白くない一日と相成った。「仏滅、三隣亡じゃないのかい」と言いたくなるほど・・・。今日は(も)朝から良い天気、実は「熊本史談会」の会合にお誘いを受けているのだが、どうも気分が晴れず出かける気にならない。ずるやすみし様と思う。(もっとも出欠のご返事もしていなかったけれど・・)

 出久根達郎のエッセイなどを読んで、気分転換と参ろうか。
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みょうな穴

2006-10-11 16:08:31 | 徒然
 「元の鞘に納めた」刀がちょっと気になっている。実は「鍔」の事だ。天地7.5cm左右7.0cmの縦長の丸い形で、中心穴(なかごあな)の両脇はこれも縦長い円形で穿たれている。周囲には象嵌が施されていたのだろうか、ステッチ状の模様が黒く残されている。そして右下(刀の峯を下として)の所にみょうな穴が二つある。一つは約5㎜、もう一つは約2㎜程の穴である。とても模様とは思えない。何のための穴なのかといろいろ調べているが、良く分らない。天下に名高い肥後鍔の写真を見ていたら、西垣勘四郎の「田毎の月図鍔」に同様の細工がある。なんだこれは・・・・   ご存知の方はご教示いただければ幸いである。
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お燗は人肌

2006-10-08 18:51:58 | 徒然
 棚の整理していたら、燗徳利が二本出てきた。もう三十年程も前だろうか、呉須の色にほれ込んでデパートで買ったものだが、晩酌がウイスキーや焼酎に変わってからは、全く使う機会も無くなっていた。随分涼しくなってこんなものを見つけると、「お酒を一杯」と思ったりする。昨今は冷酒なるものが出回って、季節に係らずお酒を口にする機会は有るのだけれど、お燗したお酒をいただいたのはいつだったろうと考えると記憶にない。
雑誌「酒」の元編集長佐々木久子氏の随筆だったと思うが、「お燗は人肌」というのは女性の乳房の下辺りの体温なのだそうだ。まずはぬるめから入り、徐々に温度を上げて嗜むのが良いという。

 お酒を買ってきて、久し振りにお燗で一杯と行きたいところだが、「お燗は人肌」の確認が問題である。女房殿に張り倒される予感がある。
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