津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■慶安3年以降の新知の家(500石以上)

2024-06-30 17:52:36 | 歴史

 二回にわたり「慶安3年以降新知加増を得た「旧知」の家」を書いたが、これは宝暦期の「世減の規矩」の後の資料だから、この「新知」部分が何時加増され、いつ「世減」されたのかを調べる為である。
同じ資料を見ていると「新知」のお宅で高禄のお宅が結構ある。新知に家は「世減」の対象になっているから、このようなお宅は、宝暦の改革以降この時期に至る間に、どのように禄高の変化があるのかも調べると面白いだろうと、そんなお宅をピックアップしてみた。(500石以上)

     4000石  清水縫殿
     3200石  松井直記
     3000石  坂崎忠左衛門
     2800石  溝口蔵人
     2700石  郡 夷則
     2700石  有吉清九郎
     2500石  朽木内匠
     2200石  木村次郎左衛門
     1900石  岩間此面
     1900石  小笠原一学
     1200石  塩山惣右衛門
     1000石  清水新五左衛門
    900石  中瀬助之進
    800石  堀尾彦左衛門
    800石  神谷源助
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助
   

 

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■慶安3年以降新知加増を得た「旧知」の家(2-了)

2024-06-30 06:18:11 | ご挨拶

(よ)
吉弘嘉左衛門  350石(内    50石新知)

(た)
田中八郎兵衛  650石(内  150石新知)
竹原九左衛門  400石(内    50石新知)

(そ)
曽我三郎兵衛  550石(内  200石新知)

(つ)
津川数馬     1400石(内  400石新知) 管領斯波家

(な)
長岡監物   15000石(内5000石新知) 三卿家老米田氏
永田十左衛門  300石(内    50石新知)
内藤五兵衛   200石(内    50石新知)

(む)
村上衛士右衛門 200石(内    50石新知)
村松市之允   200石(内    50石新知)

(う)
上田新兵衛   550石(内    50石新知)
上羽熊之助   350石(内    50石新知)

(の)
乃美新助    200石(内    50石新知)
野入俊左衛門  130石(内 30石新知)

(や)
藪 弥次右衛門  2800石(内  100石新知)
山本文右衛門   1400石(内  450石新知)
山内八左衛門  250石(内    50石新知)
山川久左衛門  250石(内    50石新知)
安井方助    200石(内    50石新知)
米田十郎助   250石(内  100石新知)・・?

(ま)
松野 匡     2000石(内  500石新知) 大友氏
松野信右衛門   1500石(内  200石新知)  同
松野八郎右衛門  1800石(内  800石新知)  同
牧 一郎右衛門 250石(内  100石開結)
松崎勘十郎   150石(内    50石新知)
的場宇兵衛   500石(内  300石新知)
町 市郎右衛門 400石(内  100石新知) 長曾我部氏

(ふ)
藤崎喜八郎    1500石(内  250石新知)
福田勝助    500石(内  300石新知)

(こ)
郡 勘左衛門  250石(内    50石新知)
米田藤十郎   250石(内    50石新知) 米田一族
小田原茂助   700石(内  200石新知)

(あ)
浅香市郎    150石(内    50石新知)
天草郡兵衛   250石(内    50石新知)

(さ)
沢村宇右衛門 11000石(内1000石分知)
沢村大八    200石(内    50石新知)
沢田助左衛門  200石(内    50石新知)
財津文八    550石(内  400石新知)
佐田宇平    250石(内  100石新知)
佐分利平次兵衛 250石(内    50石新知)
佐分利又兵衛  250石(内    50石新知)

(き)
木村九郎吉   200石(内    50石新知)

(み)
三渕永次郎    5000石(内4000石新知)
宮川金右衛門  850石(内  350石新知)

(し)
志水久馬之助   1200石(内  700石新知)
志水孫七郎    1500石(内1200石新知)
塩山木右衛門  250石(内    50石新知)

(ひ)
平野九郎右衛門  2000石(内1000石新知)
平井貞之允   400石(内  200石新知)・・断絶

(も)
元田弥五右衛門 300石( 内 100石新知)
元田三左衛門  400石( 内 150石新知)

(せ)
関 惣左衛門  250石( 内 150石新知)

(す)
須佐美七郎助  500石(内  200石新知)

    

     

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■慶安3年以降新知加増を得た「旧知」の家(1)

2024-06-29 06:52:32 | ご挨拶

以下の数字は侍帳「天保弐年出来 御知行取伊呂波世勢」によるものである。
旧知の家で慶安3年以降新知加増を受けた家は、宝暦の改革に於いては新知部分は「世減」の対象となっている。
但しそれ以降に加増された家もあることから、すべてが「世減」対象になったとは言い難い。一つ一つ検証する必要がある。

(い)
稲津久兵衛   650石(内  350石新知)
稲津弥右衛門  250石(内    50石新知)
井上新之允   700石(内  500石新知)
石寺加兵衛   400石(内  200石新知)
生駒十左衛門  250石(内    50石新知)
井口喜内    250石(内    50石新知)

(は)
林 勇五郎   150石(内    50石新知)
長谷川十之允   1150石(内  950石新知)

(に)
西山大衛     1100石(内  800石新知)

(ほ)
堀 次郎兵衛  850石(内  350石新知)
堀 平太左衛門  3500石(内3200石新知)

(と)
遠坂関内     1000石(内  500石新知)
富田市之允   700石(内  200石新知)
都甲保助    350石(内    50石新知)
富岡角左衛門  200石(内    50石新知)
友田源右衛門  300石(内  150石新知)

(お)
小笠原庄左衛門 950石(内  350石新知)
大木舎人     5000石(内1563石新知)
大木七右衛門  500石(内  250石新知)
奥村軍記     2100石(内  200石新知)
小篠三郎右衛門 400石(内  100石新知)
大洞杢左衛門  350石(内    50石新知)
大野孫三郎   200石(内  150石新知)
大村久兵衛   200石(内    50石新知)

(か)
柏原新左衛門   4500石(内3500石新知)
鎌田平七     1000石(内  700石新知)
上月兎毛    950石(内  250石新知)
片山左門     1600石(内1400石新知)
兼坂五郎右衛門 550石(内    50石新知)
蒲池太郎八   200石(内    50石新知)
萱野仙游    250石(内    50石新知)
狩野喜角    150石(内    50石新知)

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■疑問を解くきっかけとして

2024-06-28 06:45:56 | ご挨拶

 私の中の細川史のなかで、まだ手がかりを得ないでいる疑問は、宝暦の改革における「世減の規矩」の詳細である。
慶安三年新知であった人たちは、大巾な減知という大津波に飲み込まれた。
忠利公が肥後入国後、「世録制」を宣言した。重賢公の時代に至り、財政の破綻に耐え切れず「世録制こそ古法に反するもの」としながら「君の御心ははじ恐れ給ふ」などとも言い訳がましく重賢をかばう言葉が「銀臺遺事」では語られている。
過去に度々触れてきたが、その成果は「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」と減知高の合計は約12万石となった。
その対象になったのは
       慶安三年以降新知の家
          5,500石~4,500石  500石減
          4,400石~3,400石  400石減
          3,300石~2,200石  300石減
          2,200石~1,200石  200石減
          1,100石~   600石  100石減
             500石~   150石    50石減
             100石新知        御擬作    である。
果たしてどのお宅が具体的にどのような減知となったのかは不明である。(当然永青文庫には詳しい資料が存在するのだろうが)

松本寿三郎元熊大教授の労作に「熊本藩侍帳集成」があり、20編に及ぶ「侍帳」が紹介されている。
その中に「天保弐年出来 御知行取以呂波世勢」があり、ここでは「いろは順」に「旧知」「新知」「擬作」「御蔵米」「寸志」等に分けて紹介されている。
「70石」でも旧知の家があり、「3200石」の新知の家もある。この「世減の規矩」を実行した大奉行・堀平太左衛門などは旧知の家だが、家禄3500石の内、新知が3200石ある。当然この3200石は減知の対象なのだが、これが実行された気配がない。
忠利公が定めた「世録制」を「古法に反するもの」と臆面もなく批判して切り捨て、上記のような条件で実行されたのだろうが、こ
の「御知行取以呂波世勢」を見る限り、抜け穴が大いにあることが一目瞭然である。
私はこの「世減の規矩」は宝暦の改革における、大いなる欠陥であると考えている。
つまるところ、旧知の家が「1石」たりとも減知されなかったことである。旧知のお宅の知行合計がどのくらいあるのか、その5%~3%でも減知したならば、不公平感は少しは和らぐとともに数万石が上乗せされたであろう。
こんなことには当事者たちは耳をふさぎ、口をつぐんだ。
次回から、旧知の家と、新知の中で高禄の家などに触れながら、細川家臣団の構成にメスを入れてみたいと思っている。        

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■石井清喜氏の勘違い

2024-06-27 13:02:53 | ご挨拶

 あることを調べようと熊日出版の「肥後学講座Ⅱ」のページをめくってみたが、肝心の記事には出会わず、郷土史家・石井清喜氏のマンパワーによってできた通潤橋」が目に入って一気読みした。
この「肥後学講座」は三巻あり、「熊本城400年と熊本ルネッサンス」に際して都合36回にわたって行われた講演の記録集である。
(新・肥後学講座-明治の熊本に別途17講座分が収められている。)講演日は平成17年5月15日である。
石井氏は熊本日々新聞の傍系・熊日文化センターの取締役を努められた方であり、町在・関連資料に見る通潤橋架橋による関係町村への政治・経済的背景と効果についての共同研究者でもあられる。この資料は大変貴重な史料で何度も拝読した。
ここに通潤橋の建設費が総額711貫306匁余と書かれてある。ウェブサイトで同様のことを調べると38億円余りだと書かれているものをよく見かける。

 処が、石井氏の頭書の「肥後学講座」ではこれを15億円と書かれている。
先月の史談会では、美里町歴史伝承会の田上彰氏の講演「布田保之助翁よもやま話」をお聞きした折、少々質問をさせていただいたが工事費について38億円ほどと申しあげたら否定はされなかった。これは美里町での公式の見解となっているようだ。

 石井氏の講演記録を読むと、711貫余を銀勘定されている。そして1両10万円で換算されている。(実情は半額である)
以前から申し上げるように、これは「銭匁勘定」の数字であり、熊本藩は70匁勘定であるから、この数字を70倍しなければならない。
貨幣博物館の見解、江戸後期(1842~)によると「1両=銀60匁=銭6,500文」であり、
     (711.306×70)6.500=7.660両 この時期の1両=5万円ほどだとされるから38.3億円となり、美里町の見解と合致する。
つまり、石井氏は「銭匁勘定」をご存じなかったことになる。蓑田勝彦氏が「八代古文書の会会報」45・46号でこの「銭匁勘定」について報告されているが、そのきっかけはこの「通潤橋の工事費」がきっかけになっている。その発表は2013年(平成25年)10月であり、それまではこの不思議な「銭匁」勘定については、まだ闇の中にあったことが判る。

 工事費の約45%は藩からの借り入れである。田上先生の講演の際私が質問したのは、維新の改革により藩は消滅しており、返済は打ち切られたのではないかという疑問であった。田上先生は明快にこれを肯定された。いくら残債務があったのかは判らないが、相当の金額が返還不要となった。
明治維新とは不思議な改革である。

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■肩痛甚だしく・・・

2024-06-27 08:29:18 | ご挨拶

 コロナのワクチン注射以来の肩痛は、相変わらず続いている。筋肉痛は消えたが、相変わらずの肩痛に加えて左手甲あたりにしびれが来る。
整形外科に行ってみてもらおうと思うが、何しろのものぐさ男だから、痛みを我慢すればいいと思って過ごしてきた。
昨晩寝返りを打った時、激痛が走った。思わず起き上がって腕を抱え込んでしまった。痛みで睡眠が浅く、早起きをしてシャワーをして肩を温めたりし
ながら何とか落ち着いた感じである。
しかし、左手のしびれ感は残ったままで、タイピングにも支障をきたして、この文も「片手打ち時々左手」といった具合である。
雨が降って鬱陶しい中、病院に行こうにも腰が引けてしまう。
ここ一両年、本当に身体に「ガタ」が来ている。まずは規則正しい生活をして、適度の運動をして、飲酒を控え、「こけない」様にしなければならない。
46時中、椅子に座ってPCか読書という生活だから、慢性的エコノミークラス症候群で足元がしっかりしない。
「還暦爺様のスクワット」は続けながら、「一病息災」ならぬ「あちこち病息災」で持ちこたえねばならない。若死にした親父の分も長生きして、もう少
し勉強したいと切に願う昨今である。

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■恩を仇でかえされる、長田屋受難

2024-06-26 06:53:01 | ご挨拶

 宝暦の改革に際しては、財政面で大阪の鴻池が堀平太左衛門の直接の懇願にもかかわらず、細川藩の用達を辞退した。
その折家業の飛躍を志していた、長田屋作兵衛なる人物が名乗り出て救世主となった。一時の急を救われるとともに、細川家の
米銭の取り扱いを一身に受けて尽力した。
その後、「世減の規矩」や「地引合せ」などの積極的施策により、財政的のも好転の兆しに向かった。
世減の規矩に於いては新知の士の家禄が大幅に削減された。地引合せはいわゆる検知である。農民のささやかな開墾などが隠田
として摘発された。この改革は旧知の人々は家禄の削減を免れているが、これは反対の声が上がるのを抑える為でもあったろう。
忠利公が定めた「世録制」が崩壊の形となったが、綱利公の放漫な金遣いが大いに影響している。
その後のなすすべもなく宝暦の時代に入り、重賢公による大ナタが振り下ろされた。
好転の兆しが表れると、名君・重賢公、賢才・平左衛門の文教・刑法・衣服の制度を改め、奉行所を建てて役人の出仕を定めた。
これらの成果は、重賢公を「肥後の麒麟」と天下に知らしめた。
しかしながら、その後の財政面に於いては暗雲が立ち込めてくる。平太左衛門の後を受けたのが大奉行・嶋田嘉津次である。
齊茲公の時代に入り、嘉津次は借銀の返済に大いに苦労するが、かっての恩人である長田家さえもが返済を促してくる。
条件の変更についても話し合われたが、細川家の財政は行き詰まりを見せていて、長田屋の姿勢は強力であった。
嘉津次はついに禁じ手を発し、交渉に当たった長田屋の番頭に不都合があると言い立て、用達の契約を破棄して借銀の返済を一方
的に停止した。平太左衛門につぐ名大奉行と云われた嶋田嘉津次でも、切り抜けることができない財政の破綻は、かって立ち直り
に力を貸してくれた恩人・長田屋に対しての背徳の行為となった。

                 【摂津国大坂玉水町加嶋屋長田家文書】
    

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■遊行上人の来熊と庶民の難儀

2024-06-25 06:39:17 | 熊本

 現在読んでいる「町在」、これは中古町の別當・友枝良左衛門の善行に対し、町の人たちが「士席浪人」格に
してくれるようにと町奉行に請願する詳細が書かれている。
良左衛門は中古町の別當でありながら、零落はなはだしい細工町や高麗門町に居住する人形職人に自らの資産を提供して、人形

制作の資金や生業、又、家作の修繕等の手助けをしている。これが請願の理由である。
「町在」とは、「熊本藩領の住民、数万人の褒賞記録」だが、その褒章をえるために、多くの関係資料が残されている。
友枝良左衛門については30ページにも及んでいるが、人形職人の名前が羅列記録されていたり、貸金の詳細な記録などが添付さ
れている。そのなかにある人の後家さんや丁頭の借金の理由が、人形職人とは全く異なっていた。
これは遊行上人が来熊されたときに、町人も合力のためになにがしかのお金を出したり、またお寺の垣根の修繕費を負担したり
している。その費用さえ事欠いたらしく借金として残った。良左衛門から借用して町に返し、若干の利をつけて数か月で返す事
が記されている。

 さてこの遊行上人の来遊、以前も書いたが熊本では阿弥陀寺に宿泊されているから、これらの町の人々が負担を強いられた。
遊行寺というお寺は、徳川家ゆかりのお寺であるから葵の御紋の旗をなびかせながら進んでこられるという。
また、最高位の上人自らがお出でになるので、通りの町や村では道の掃除や、宿泊のお寺の掃除など当然のことであったらしい。
武士、町人、農民そのたすべての生業の人たちが浄財を寄付をした(強いられた)。
度々のことではないが、貧しい庶民の負担は大きかったようだ。容赦がないという権力を後ろ盾にする一面が見受けられる。

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■「あやつり」見物中頓死

2024-06-24 11:53:57 | 歴史

                                                    2015/09/06 「赤坂大歌舞伎」舞台稽古① 『操り三番叟』

 細川家記によると、細川綱利の死については、白金邸に於いて「俄かに発病、夜半卒去」と書かれている。
本当のところは、歌舞伎役者を招いて「あやつり」を見物中に突然死されたらしい。
歌舞伎役者・中村傳九郎がごひいきだったようで、この日も傳九郎の「あやつり」を見ておられたのであろう。
自らも「あやつり」の真似をするなどされていたらしい。いかにも綱利公らしい死にざまだが、表向きには語られることはない。
これは、「富永家文書」(熊本県立図書館蔵)にかかれているのだが「頓死」とある。
詳しいことは判らないが、歌舞伎の演目で「あやつり」といえば、「操り三番叟」のことだと思われる。
中村傳九郎という役者は六代目で途切れているようだが、初代は中村勘三郎の弟であったらしく、以降も勘三郎家の庶流ともいうべき
家であったらしい。
この「あやつり」、自らも稽古をされたらしいが、まさか殿様芸でどちらかでご披露に及ぶという事はあるまいが・・・・・・・

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■ドメイン、サーバー契約更新

2024-06-24 09:49:57 | ご挨拶

 6月末はドメイン(shinshindoh)とサーバーの契約更新の時期である。
1年ごとの更新、それも銀行振り込みや、コンビニ振り込みにしてきたから、今年も梅雨の中出かけなければならない。

奥方に今日は出かけないかと聞いたら、今日は出かけないという。この振り込みを押し付けられるからだと思っているからである。
クレジットカードだと、PCから「更新」をクリックすればそれで済む話だが、82爺は肥後モッコスなので、ご苦労なことながらこんな按配である。
3年とか5年とか払い込んでおけばよい話なのだが、それでは「ああ、18年目か?」という確認と苦労も必要だろうと思っているのである。
それに、そろそろ我がサイトも終わり時も考えておかなければならない。いつ病でサイトの運営ができなくなるかもしれないからだ。
だとすると、まだ1年更新でよかろうと思いながら、雨が小降りになった処を見計らって出かけなければならない。
そんな苦労もサイト運営の仕事の一つと思わねばならぬ。

 

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■お安く読む―中公新書「 日本語の発音はどう変わってきたか-「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅

2024-06-23 06:43:24 | ご挨拶

 大河ドラマ「光る君へ」がなかなか面白い。おしゃべりが現代風なのが少々気になるが、TVドラマだからこれは教養範囲としておきたい。
名古屋大学の釘貫亨教授が、Youtube「テンミニッツTV」の講師の一人として、【気になる講座 ちょい見せ】ことばで辿る古代日本史
をお話になっておられるが、これが大変面白い。
「ハヒフヘホ」は当時はP音で発音していたから、「パピプペポ」であるというお話は大変面白い。
そんな話が中公新書で発刊されていた。
       日本語の発音はどう変わってきたか-「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅 (中公新書 2740)

これは、うっとうしい梅雨を乗り切るのにうってつけの本だと思いAmazonに注文している。
そろそろつくころだと思い、玄関のポストを何気にチェックしている。奥方に知れるとやかましいからである。

 
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■飯田山が消えた

2024-06-22 06:56:23 | 徒然

5月30日に■飯田山が消えるを書いたが、とうとう昨日我が家のリビングの視界から飯田山が消えてしまった。
左側は14階建て、1階あがるのに3週間かかっている。右側が12階建て競うように工事が進んでいるが、平面積が小さい
ので進捗はやや早い。下方階はサッシュが入り、ガラスが入り、ユニットバスなどの据え付けが進んでいるようだ。
引っ越してきて1年を過ぎたが、すっかり景色が変わってしまった。
この二軒のマンション、目の前は自衛隊の広い敷地が連なっていて、高い建物が立つ恐れはなく眺望は満点である。
TSMCの進出を受けて、こういったマンションもすぐ売れてしまうのだろう。

国立市のマンション解体問題や、京都仁和寺前にたつ高級ホテルの建設反対問題など、それぞれ景観が問題になっている。
特に仁和寺前のホテル建設は、特例許可を下したというから何ともいただけない。
守るべきものは何なのか、東京都知事選挙でも神宮の森の問題が争点の一つとなっている。

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■「日本(書)記」を紫式部が読んだ結果

2024-06-21 06:51:31 | 歴史

 最近読書するにも、読む本がなくなってAmazonで二冊注文している。
これが到着するまで時間がかかるから、差し当っての本がない。
本棚を見回していたら全現代語訳の日本書紀・上下巻(講談社学術文庫)が目についたので、何となく手に取って読み始めた。

天智・天武・持統天皇のところを集中的に読んだところだが、何方かのお説に「壬申の乱」という言い方は本来皇室を慮ると
禁句であるという。
万世一系の天皇家で「反乱」を思わせる言葉の使用は誠に不謹慎であり、「役」と日本書紀には書かれているという事である。
探してみたが見当たらない。ななめ読みが災いしたか?。一方では「大津皇子」については本文に「謀叛」と記してあるが、
解説ではやはり「大津皇子の変」とある。

 ふと「日本書記」はかっては「日本記(にほんぎ)」と呼ばれていたことを思い出した。
それは紫式部の「紫式部日記(にき)」に出てくる「日本記之御局(みつぼね)」と呼ばれた話からである。
この「日本記」こそが「日本書記」であり、一条天皇が「この人は日本記をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし」と云
われたことに対して、そのことを聞いた左衛門内侍なる人が「日本記の御局」と戯れの名をつけたというのである。
どうやらこの話は、高校生の定期テストの常連らしい。紫式部は少々迷惑がっている様子を示しながらも、身内にも自分が漢
文が好きだという事は言っていないなどと釈明なのか自慢なのか、そう書いている。

 黒岩重吾の壬申の乱を扱った「天の川の太陽」をはじめ、一連の同時代の作品を読破した時代があって、古代史に興味をも
ったことがあった。
その一連の書籍はすべて処分してしまったが、今にして思うと残念の極みである。文庫本を購入して読み直そうかと思った。

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■古文書を読む・苦しさと楽しさ

2024-06-20 06:38:39 | 徒然

 まだ本格的な降りにはなっていないが、ここ一週間の天気予報は雨マークばかりである。
本格的梅雨シーズンになった。毎年のことだからしようがないが鬱陶しいことだ。


現在私は「町在」40頁ほどを読んでいるが、これがなかなか進まない。別段悪筆というわけではないが、読めない字が多すぎる。
タイピングする中で読めない字は■表示しながら、とにもかくにも前に進む。後で一文字づつ潰していこうという算段である。
処が一見すると5%くらいはありそう、これは大変だと憂鬱である。
私は、熊本史談会で今月を第一回として「古文書を楽しもう」と称して、資料を作成して会員にお配りした。
例文を配布して予習をしていただき、次回解説をしようというものだ。一年やればかなり読めるようになる。
「馴れですから」とお話ししたが、私自身がこんな有様では話のつじつまが合わないではないか。
古文書を読むという作業は、人様にさきがけて紙面の内容を知る楽しさが何とも言えない。「だからやめられない」

 梅雨で外出がままならないから、ここしばらくはミミズのような文字を睨みつけながら過ごすことになる。

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■熊本市庁舎、建設予定地

2024-06-19 10:26:19 | 熊本
 数日前熊本市長が、正式ではないが熊本新庁舎建て替えの候補地を発表した。
いまは空き家になっている、かってのNTT西日本・熊本ビルの跡地である。解体して開発、商業ビル建設かと思っていたが、コロナの影
響で事は進捗しなかったらしい。
熊本市にとってはこれが幸いしたという事になる。桜町ビル・NHK熊本ビル・熊本市民会館などにとりかこまれた一等地である。
そして花畑広場の地下には、地下駐車場があり新庁舎と地下道でつなぐという事も出来る。後数日後正式発表となるのだが、現庁舎の耐
震問題で新庁舎建設の是非が問われていたものがすっかり改築の方向へ走り出した。
噂によると現庁舎跡は民間デベロッパーによる開発で、ホテルを含む商業施設が立つのではないかという。
誰もが考えそうな噂話だが、熊本城を抹消面に見る一等地だから可能性は大いにある。
さて、以前も触れたが現NTT熊本ビルがある場所には、古い時代の石棺が江戸時代に発見されたという。このビルが建設されたときには、
遺構の話など聞かなかった様に思うから、今度も期待薄だがちょっとロマンある話だった。
近世期、花畑邸を守るようにこの一帯は屋敷町が形成され、城内に入ると奉行所が立ちここで大国肥後54万石の政が行われてきた。
時代が変わってもかっての熊本県庁後に市役所が建て替えられることになる。少々現庁舎に比べると敷地が狭いようだが、どうやら中央
区役所機能は、別に建設されるのではないか。政令都市の整備が着々と進んでいく。
さて爺様はその完成を見ることができるかどうか、何とか冥土への土産話にできればと思うが如何・・・
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