津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

楽ではない「落書」探訪

2013-03-31 16:14:23 | 徒然

 熊本市立体育館のサイトを開き、今日の催しを見てみると珍しく何もない。ならばと熊本県立図書館に出かける。というのは駐車場を共用しているので、体育館に行事があると、とても込みあって入れなかったり、とんでもなく遠いところに駐車をさせられるからだ。
いささか膝が痛い私としては、近いところに駐車できると有り難いのだ。

今日はもっぱらコピー三昧、73枚と相成った。入館が早かったのでコピー機二台の内の一台を完全独占しての大仕事である。
最近私が興味あるのは、「落書=らくしょ」である。上妻文庫の138、139、149(肥後風刺文学)に面白そうな記事がありそうだと目星をつけてこれを眺めると大当たり、内容を一部コピーするとともに、三冊の目次に相当する47ページをコピーした。
これ等は正史では語られない、裏面史とも庶民史・風俗史ともいえる。中には単なる誹謗中傷や、現在では考えられない不具成る人たちをあざけったりするものも見受けられるが、相当は当時の政府や上級役人を批判して笑い飛ばしたり、世の中の嬉しいこと悲しいことを大らかに歌い上げている。
渡辺京二氏の著「江戸という幻影」に相通ずるものがあり興味尽きない。

内容は膨大ですべてをご紹介するには私の生涯の内(大げさではない)では無理なように思われる。ひとまずはその目次をご紹介しようと思っているが、これまた「くずし字解読辞典」と首っきりでの作業となりそうで、簡単にはゆきそうにない。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKカルチャー熊本教室・開設20周年記念講演

2013-03-31 13:07:50 | 熊本

開設20周年記念講演「細川ガラシャを語る」 

開設20周年記念講演 「細川ガラシャを語る」

講師: 細川 佳代子 氏

    (NPO法人勇気の翼インクルージョン2015理事長)

    (スペシャルオリンピックス日本名誉会長)

 

日時:平成25年5月6日(月・祝日) 10:00から11:30(9:30開場)

会場:くまもと森都心プラザ5階・プラザホール

    熊本市西区春日1丁目14?1

チケット:【会員】1,050円 【一般】1,365円

お問合せ・チケット販売: NHKカルチャー熊本教室 096-351-8888

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

灸をすえる

2013-03-30 10:39:28 | 熊本

 熊本城の整備計画に文化庁が待ったをかけた。観光目的の市の余りにも短兵急なやりかたに、お灸がすえられた。
一口城主をつのりいろいろ整備が進められているが、いささか図に乗りすぎたというところであろう。

       熊本日々新聞の記事  http://kumanichi.com/news/local/main/20130330002.shtml 

「国の史跡」という観点からすると、何もかも復元というのも如何かと私は考えていたが、今回の事はそれ以前の問題で関係者は猛省すべきである。

桜の馬場の「湧々座」に於いては、バーチャルリアリティーで江戸期の熊本城の姿が見られるようになった。

                                                                                  
                             http://www.sakuranobaba-johsaien.jp/about/goden.html


熊本城をどこまで復元しようとするのか・・・・ブレーキが懸けられた今、じっくり考える時が来た。 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜は中尾山・岩倉谷

2013-03-30 08:35:55 | 熊本

 「歳序雑話」という天和三年の歳の一年を通しての雑記がある。原本は見たことがないが白文であろう。日本都市生活史料集成3・城下町篇1 に活字化されているが、こちらは返り点やオコト点がうたれている。それでもなかなか読むのに苦労をする。

今年の桜は全国的に開花が早く、例年は今頃であれば三・四分咲きと云ったところだろうが、熊本では満開を過ぎて桜吹雪の状態である。
そんな中で今日も各地の桜の名所は花見客でごった返す事であろう。
先の「歳序雑話」を読むと、この時代の桜の名所は「中尾山」と「岩倉谷」であったらしい。中尾山は本妙寺周辺であり、岩倉谷は立田山の東方現在は住宅団地が山頂まで至っている岩倉団地がある辺りであろう。

             青陽謝を告ぐ、朱明新ならんと欲す、
             数樹の残花に春老を知り、一声の啼鳥に山の深きを覚ゆ、
             此時野客岩倉谷と中尾山に至り、花に因て酔臥して帰るを忘る、
             そもそも岩倉の白桜は于畿内之和州芳野の花に増して遥遠たり、
             仰ぎ見れば満山皆桜花なり、さながら雪山の如し、
             花時此に至らずんば、春を得ざる人なり、
             此に至り詩なくば、花を見らざるのみか、
             中尾の花は本妙寺裡の所にして栽ゆる、
             しかして開発の時は白雲を引くに似たり
             山中に又数株あり、花下に油幕を連ね花蓋飾る
             歓を尽くして帰る者は、卻(カエッテ)於岩倉より繁てし、行程近きを以ての故なり

なんとか読んでみても、内容が100%理解できないところが何とも情けない。
今日の熊本は良い天気、我が家の窓から岩倉山の南の高台が望まれる。


数年前に転んで痛めた左ひざの按配があまりよくなく、最近は4キロ散歩もままなりませんが、ちょっと外に出て桜吹雪に身をおいてみましょうか。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八陣守護城の中の「船歌」

2013-03-29 17:54:46 | 徒然

 過日 鶴崎御舟歌の中の「八代」 をご紹介したが、一昨日熊本県立劇場で鑑賞した文楽「八陣守護城」において、清正の船出の際に歌われる歌が、これが船歌なのだろうと思われ感激した。まさに出港の目出度さと海路の安全を朗々と歌い上げている。
鶴崎の津は加藤清正の旧領地である。鶴崎の船歌も清正の時代から受け継がれたものであろう。御舟歌の中の「八代」についても、N氏から加藤時代の者だろうとのご指摘をいただいた。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(61~66)

2013-03-29 14:07:12 | 論考

   雑花錦語集(巻六十一)

1 禁裏御当座 延宝2年7月25日
2 禁裏御当座 延宝2年8月15日
3 禁裏御当座 延宝2年8月29日
4 禁中御会 延宝2年9月9日
5 禁裏御会始 延宝3年1月19日
6 新院御会始 延宝3年1月23日
7 禁裏御当座 延宝3年1月25日
8 禁裏御当座 延宝3年2月21日
9 水無瀬社御法楽 延宝3年2月22日
10 聖廟御法楽 延宝3年2月25日
11 禁裏御当座 延宝3年3月11日
12 禁裏御会始 延宝4年1月19日
13 新院御会始 延宝4年1月23日
14 禁裏御当座 延宝4年1月24日
15 水無瀬宮御法楽 延宝4年2月22日
16 聖廟御法楽 延宝4年2月25日
17 聖廟御法楽 延宝4年6月25日
18 禁裏御当座 延宝4年6月28日
19 禁裏御会 延宝4年7月7日
     
     雑花錦語集(巻六十二) 
1 禁裏和歌御当座御会 延宝4年8月17日
2 禁裏御会 延宝4年9月9日
3 禁裏御当座 延宝4年9月13日
4 禁裏御当座 延宝4年10月21日
5 禁裏御月次 延宝4年10月24日
6 禁裏御当座 延宝4年11月晦日
7 禁裏御会始 延宝6年1月19日
8 新院御会始 延宝6年1月22日
9 水無瀬宮御法楽 延宝6年2月22日
10 禁中御月次 延宝6年2月24日
11 聖廟御法楽 延宝6年2月25日
12 禁裏御月次 延宝6年4月24日
13 禁裏御月次 延宝6年3月24日
14 禁裏御会始 延宝7年8月13日
   
   雑花錦語集(巻六十三)
1 禁中御会 延宝7年9月9日
2 禁中御当座 延宝7年9月13日
3 禁裏御月次 延宝7年10月24日
4 禁裏御会始 延宝8年1月19日
5 新院御会始 延宝8年2月13日
6 禁裏御当座 延宝8年2月18日
7 禁裏御会始 天和1年10月27日
8 禁裏御会始 天和2年2月12日
9 禁裏御当座 天和2年2月16日
10 水無瀬宮御法楽 天和2年2月22日
11 聖廟御法楽 天和2年2月25日


   雑花錦語集(巻六十四) 
1 禁裏御当座 天和2年3月16日
2 禁裏御当座 天和2年4月26日
3 禁裏御当座 天和2年5月2日
4 禁裏御会 天和2年9月9日
5 禁裏御当座 天和2年9月15日
6 点取十首
7 烏丸光廣卿詠歌
8 桂光院殿御詠
9 中院通村卿詠歌
10 仙洞の冨士詩歌并三保図
11 唐ノ聖賢ノ名并名所の和歌
12 日本聖賢ノ名并名所の詩
13 後光尾帝八十御賀御屏風の和歌
14 後光尾帝同八十御賀の詩歌
    
   雑花錦語集(巻六十五)
1 御点取和歌 貞享年
2 小畠氏に点取の歌
3 寺川武茂酌春酒の歌
4 中嶋氏若菜の歌
   雑花錦語集(巻六十六)
1 新院御興行連歌百韻
2 新院御興行連歌百韻
3 新院漢和 寛文11年11月29日
4 法眼玄陳発句
5 連歌表八句
6 妙楽院追福連歌 享保12年7月29日
7 賦何酢誹諧
8 天神社菊興行 5月25日
9 志賀相如 試筆発句
10 里旭陽貞送別
11 万谷発句
12 作者不知発句
13 玄旨公御歳旦
14 作者不知歳旦
15 芭蕉翁門人五則
16 万穂松助玄然発句
17 万穂脇起表六句
18 独龍発句
19 諸家寄合表八句
20 鈴名句
21 酒没子玉山に送る発句
22 三角浦八景
23 長波舟中の歌仙
24 裸嶋発句
25 西国発句集〆
26 江戸幽山追善百韻
27 徐来歳旦歳暮
28 中嶋斗也三ツ物
29 不角評四季発句
30 不角評誹諧歌仙并不角発句
31 三雅評歌仙
32 不角評百韻
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新町・古町贈答の哥

2013-03-29 12:00:56 | 熊本

 先に 京町vs坪井町 賜答の歌 をご紹介した。そのほかにも、新町・古町贈答の歌山崎・京町贈答の歌などが存在している。
今回は新町・古町贈答の歌をご紹介する。(雑花錦語集・巻25)
 

                         上の句・新町                下の句・古町

                      饅頭ハ扇屋酒ハ茨木屋         曽右衛門蕎麦に寺のこんにゃく 

                      随兵ハ所まれなる祭かな        祇園の翁一日に二度

                      新町にふたりまてある能大夫      座頭の司古町にあり

                      朝夕に牽馬武士の数しれす      いんげ(隠家)といふハたつた三ヶ寺

                      祭にハ揚ヶ輿に乗ル僧もあり      勅使の役を兼る光永

                      ギボウシの立たる橋ハ三丁目      土橋なからも長イ長六

                      かせいたの妙を覚えし長崎屋     白川鮎を喰ふ事もあり 

                      文武藝磨キ立たる両榭哉        療治の篇ハ二本木にあり    
                                 時習館東・西榭       再春館

                      京店を立たる市の賑やかさ       野菜と魚ハ毎朝乃事

                      職人ハ具足鉄炮弓金具         正吟といふ瓢箪屋あり

                      羅漢寺の座頭ハ糞の置所       段山は小便は宿

                      国中の道を定る札の辻         熊本馬は古町で継

 

 また、番太日記(髭爺日記)にも、「扨毎ハ新町ばかりにてハれんそくすることなし、又古町ばかりにて扨毎はとゝのハす、宝暦之比新町より古町に申遣す」として次のようにある。

                      新町ゟ  初市をたてゝてひさしき壱丁目
                      古町ゟ  閏月でもたつる朝市

                      新町ゟ  きほうしをたてたる橋ハ三丁目
                      古町ゟ  土橋なからもなかひ長六

                      新町ゟ  ふたりまて有能大夫
                      古町ゟ  二度の翁はきおん会にあり

                      新町ゟ  月毎に富にきやかな桶屋町
                      古町ゟ  富の根しめハ古町にあり               熊本独特の文字 扌偏にメ で表記されている

                      新町ゟ  まんちうハ扇や酒はいはらきや
                      古町ゟ  曾左衛門うどん寺のこんにゃく
                                 古魚屋町正立寺向にこんにゃく屋、正立寺とて名物有 

                      新町ゟ  とけいや弓屋鉄炮屋
                      古町ゟ  数珠屋鋳物屋きせるはり

                      新町ゟ  はんやといふハたつた三人
                      古町ゟ  いんげ(院家)といふもたつた三人

                      新町ゟ  新町に七ツにてある勢ひたまる(勢屯)
                      古町ゟ  長六河原すもふ(相撲)あやつり

                      新町ゟ  おちか徳左衛門しや香三十
                                 何レも極々きりょふすくれ万能達し、珍敷御人がら、おちかさまは古屋様御娘子、徳左衛門殿ハ
                                           三なとや源左衛門殿御子にて、じゃかう殿うる山町仕立屋三十殿ハ八代屋平左衛門殿子息也
                      古町ゟ  吉三やきミそがめ仁左衛門
                                 吉三は鬢付うり極々かま足なり、やきミそハたばこ売、肥がめ仁左衛門ばか也、
                                           何れも珍敷馬鹿也、此外略す 

                                     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お安く読む・光文社新書「役たたず」

2013-03-29 08:20:20 | 書籍・読書

 

    役たたず、 (光文社新書)
       
        光文社



役たたず、石田千/著

だいじなことは、役にたたない。そして一見、役にたっているようにみえるものも、ひと皮むけば役たたず。役にたつことばかりしていると、暮らしも人も、痩せていく――。古風な下町感覚の文章を書きファンの多いエッセイストで、ここ最近は小説家としても頭角を現している石田千が、日常のなかで綴った「役たたず」の視点からの風景。二年あまりにわたる連載の途中では、大震災が起き、そのときの空気感も文章としてリアルに切り取られている。相撲好き、競馬好き、ビール好きの「町内一のへそまげちゃん」が、だいじにしたいもの。へなちょこまじめな日常記。

目次

I やちゃくちゃない日々
三段めの混沌/忘れて候/オスの乳首、メスのほくろ/マンネリ峠/
店長翌日/レバニラ炒めとタラ入りスープ/四十路女のブルース

II 手足、ぶらぶら
夏の日記/おはらい箱と、たからの山/絵ごころ文ごころ/
マンションから墓場まで/イガイタイガイ/新年ぶらぶら/
二十年さきの稽古

III 役に座す
またたきと松明/あのひと/さよならポンプ/しっかりしないで/
真夏の夜/ハイ、チーズ/役にたたない……

あとがき

著者紹介

石田千(いしだせん)
1968年福島県生まれ、東京都育ち。エッセイスト、小説家。國學院大學文学部卒。2001年、「大踏切書店のこと」で第1回古本小説大賞を受賞。2011年、「あめりかむら」が第145回芥川賞候補、2012年、「きなりの雲」が第146回芥川賞候補となる。おもな著書に、『月と菓子パン』(新潮文庫)、『踏切趣味』『屋上がえり』(以上、筑摩書房)、『店じまい』(白水社)、『並木印象』『踏切みやげ』『きんぴらふねふね』(以上、平凡社)、『平日』(文藝春秋)、『部屋にて』『みなも』(以上、角川書店)、『あめりかむら』『ぽっぺん』(以上、新潮社)、『きなりの雲』(講談社)、『山のぼりおり』(山と渓谷社)、『しろい虹』(ベストセラーズ)など多数。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本本妙寺・第十二回桜灯籠

2013-03-28 12:01:34 | 熊本
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

於・植木町田原坂資料館

2013-03-28 11:31:51 | 展覧会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花錦語集の内容(56~60)

2013-03-28 06:56:26 | 史料

     雑花錦語集(巻五十六)

1 禁裏御会始 寛文8年1月19日
2 法皇御会始 寛文8年1月19日
3 新院御会始 寛文8年1月22日
4 飛鳥井会始 寛文8年1月28日
5 禁裏御当座 寛文8年4月21日
6 新院御当座 寛文9年8月15日
7 禁裏御月次 寛文9年10月14日
8 禁裏御会始 寛文10年1月19日
9 法皇御会始 寛文10年1月19日
10 新院御会始 寛文10年1月22日
11 飛鳥井会始 寛文10年2月18日
     
         雑花錦語集(巻五十七)

1 禁裏御月次 寛文10年2月24日
2 聖廟御法楽 寛文10年2月25日
3 禁裏御月次 寛文10年3月24日
4 禁裏御当座 寛文10年4月19日
5 禁裏御月次 寛文10年4月24日
6 禁裏御当座 寛文10年5月4日
7 禁裏御月次 寛文10年5月24日
8 禁裏御会 寛文10年7月7日
9 新院御会 寛文10年9月4日
10 禁裏御当座 寛文10年9月13夜
11 法雲院殿弔歌会 寛文10年
12 禁裏御当座 寛文10年10月29日
13 禁裏御当座 寛文10年11月24日
14 禁中御会始 寛文11年1月19日

     雑花錦語集(巻五十八)

1 長者教
2 鍋松君様江御譲之事
3 帝王崩御并御陵
4 宣紀公御祝御能之節御警固
5 宗考公御婚礼御祝御能付
6 落書開帳
7 松竹寒盛記
8 隠語づくし

 
     雑花錦語集(巻五十九)
1 新院御会始 寛文11年1月23日
2 禁裏御当座 寛文11年1月27日
3 禁裏御当座 寛文11年2月25日
4 飛鳥井会始 寛文11年2月27日
5 禁裏御当座 寛文12年2月朔日
6 禁裏御月次 寛文12年2月28日
7 禁裏御当座 寛文12年3月19日
8 禁裏御当座 寛文12年4月15日
9 禁裏御当座 寛文12年5月21日
10 聖廟御法楽 寛文12年6月25日
11 禁裏御当座 寛文12年6月26日
12 禁裏御当座 寛文12年6月27日
13 禁裏御会 寛文12年7月7日
14 聖廟御法楽 寛文13年6月25日
15 禁中御会 寛文13年7月7日
16 禁裏御当座 寛文13年8月15日
17 禁裏御会 寛文13年9月9日

     雑花錦語集(巻六十)
1 禁裏和歌御当座 寛文13年9月13日
2 禁裏御当座 延宝1年10月13日
3 禁中御当座 延宝1年11月晦日
4 禁裏御会始 延宝2年1月19日
5 禁裏御当座 延宝2年1月23日
6 法皇御会始 延宝2年1月19日
7 新院御会始 延宝2年1月27日
8 水無瀬宮御法楽 延宝2年2月22日
9 禁裏御月次 延宝2年2月24日
10 聖廟御法楽 延宝2年2月25日
11 禁裏御当座 延宝2年3月29日
12 禁中御当座 延宝2年4月25日
13 内侍所御奉納 延宝2年5月4日
14 禁裏御当座 延宝2年5月29日
15 禁裏御当座 延宝2年6月21日
16 聖廟御法楽 延宝2年6月25日
17 禁裏御会 延宝2年7月7日
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綿考輯録に見る関ヶ原(20)

2013-03-27 09:51:06 | 論考

   一、御鉄炮九拾挺ハ御自分、又九拾挺ハ番方
        イ番方
        但百廿挺之内三十挺ハ豊後魚住市正小頭上村孫三ニ添被遣、相残九十挺の頭三人ハ西郡大炊・白杉少助・水嶋源助也、源助岐阜ニ而
        討死故、十五挺分ヶて中路新兵衛・住江小右衛門ニ御預ヶ被成候、此時迄ハ三十挺之内ニ小頭弐人有之、是も鉄炮をかたげし也、装束
        も替りなし、豊前ニ而ハ外ニ小頭二人有、是ハ鉄炮をかたげす、但五十挺の内ニ弓十張有 
            考ニ、右ニ有之番方九十挺の鉄炮は能相わかり候、御自分九十挺と有之ハ左之御側筒、三拾挺も此内なるか、残六十挺の組合せ
            分り不申候、又上村か先祖書ニ、上村孫三ハ丹後ニ而御中小姓被召出、豊前ニて御知行弐百石被下、其子甚五右衛門ニ跡目被下、
            御郡奉行役勤居候処、忠利君之御意ニ不叶御暇被下候、有馬御陳之節武功有之、先知被返下と御日記ニ在と云々、孫三を此所ニ
            小頭と有ハ添頭の様ニ見江申候、いつれも追而可考、右上村孫三ハ今の武七郎孫三・当喜角右衛門等か祖也

   一、御側筒三十挺
        此頭加々山少右衛門・牧新五御馬ニ引付て歩行也、田中吉政の勢敵ニ被追立候時、忠興君御側筒の者ハ膝台、御弓の者ハす引して折
        敷、御側ニ居候ひしハ沢村才八・入江五郎作・津田夕雨・入江平内等也

   一、御備二備   御人数二千弐百程也 一ニ四千ニ不足ト有
        先備ハ田辺衆荒木左助・中路次郎左衛門、与十郎殿御旗本ハ御馬廻りの衆、御舎弟玄蕃殿但御自身ハ先備へ御出被成也、御人数被立
        様ハ御自身御乗廻し、御立候時もあり御気ニ不向時ハ加々山少右衛門・牧新五ニ被仰付候也

   当夏会津陳御用意の為御帰国の時、丹波の宅河原ニ御宿被成、其夜の御咄に、大将ハ相撲の行司人と心得候へはよし、と米田助右衛門・加々
   山少右衛門・牧新五ニ被仰候か、去ル八月清須より美濃路へ河越の時も岐阜江御働の時も、先へ御乗先より玄蕃殿介右衛門ニ御下知被成候、
   今度の合戦にも御人数より先江御乗被成、玄蕃殿江御下知被成候也
   赤坂ニ而福島氏へ人数いか程御つれ候と御尋被成候ヘハ、四千と御答候、其後玄蕃殿へ被仰候ハ、夫程ハ有間敷、子細ハ此方一備と正則一
   備と見くらへ候ニ対々候、然らば三千程可有と被仰候、福島丹波組の山川惣右衛門後ニ被召置候ニ案のことく千宛三備之由噺申候、福嶋の備頭
   一ハ小(尾)関石見、二ハ福島丹波、三ハ長尾隼人 一ニ村上彦右衛門 なり
   加藤氏身体九万石、人数八百計列られ候留主を無心許思ひ、人を多く残されし也
   赤坂ニ而玄蕃殿物前に押へきか、武者押におすへきかとお尋有し御使の様子牧新五申上候ヘハ、間ニ及ふ事か、物前ニ押ひてハと被仰候、武者
   押の時ハ昇か先、物押の時ハ鉄炮か先なり、忠興君備の立られ様を本多中務大輔御覧有之、今日の強敵ハ越中殿人数ニ而受とめんと被仰候也
   田中氏石田勢ニ立られて忠興君の前を退れ候を、乗違て乗込給ひけるハたゝ見苦しきとてハ懸らせ給ハす、治部少輔か後備の嶋津か喰とめんと
   兼而御用心有けるに、島津か陳迄いろめきたる故ニ懸りたると被仰候也 一ニ島津かせめ来る故ニ掛りたると被仰し也と有
   関原落去の時嘉明も一所ニ而黒田長政被申候ハ、大坂より瀬田の橋を焼落さは如何すへきと有れは、忠興君、瀬田より左へ/\と一里計ゆけは
   大石と云所有、それより宇治・田原へ掛り大和路より攻め上るへし、肥前守は北国より山崎へ掛り、住吉へ働き両方より引はさミて討へし、大坂歯
   ごたへするならば安芸へ働、毛利家の妻子共を取り、此方の妻子と可被替と被仰候
   惣而忠興君ハ信長以来の御人持、福島・加藤ハ太閤の御取立ニ而場数少き故にや、岐阜・関原ニ而も万の評議忠興君ニて一決したりと也
   関原ニて黒田甲州被申候ハ、門跡を頼一揆を起させ可申と有ケレは、越中殿と御談合可被成とて忠興君江右之通被仰候ヘハ、今少御待可被成
   候、後の為ニと御申上候由、遥後京の吉田ニ被成御座候時、板倉周防守数寄に御出候而御尋ニハ、関ヶ原陳の時、越中殿有無之事を不被仰唯
   合戦被成度と度々被仰候由、江戸衆不審仕たるとの御物語候ヘハ、三齋君御笑被成、治部少輔ハ筆先かきゝ候て、日数あれは筆の先ニ而調略
   仕候、武辺の儀ハ腸の内迄能存候、合戦初り候ハゝ此方勝可申と存候故、合戦を初たしと申候、別の事ニてハ無御座候と被仰候となり

                                             (了) 

                                

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江津花壇(旧細川内善家下屋敷)

2013-03-27 09:10:12 | 史料

 「江津湖の水辺から」というブログで、江津湖やここに住む魚たちを水中写真を駆使して紹介されている HNかくびんた様から、江津湖周辺の写真についてお尋ねをいただいた。
添付されていたアドレスからサイトを開くと、何とも懐かしい写真が納まっていた。お尋ねは江津湖周辺で催される「わくわく江津湖フェスタ2013」で、現古の写真を並べて展示されるについて、その出展写真の詳細についてである。私の幼いころの遊び場であった場所だが、残念ながらお尋ねの件については記憶が定かではなかった。
そしてその中に料亭・江津花壇の写真が含まれていた。
江津花壇は且ての細川内善家の下屋敷「砂取邸」であり、その敷地が現在熊本県立図書館となっている。遠藤二三子氏の論考「熊本市にある旧江津花壇(旧砂取邸)庭園の変遷に関する研究」で、その詳細を窺い知る事が出来る。
しかしながらこれほど鮮明な写真は見たことがなく、大変ありがたいご連絡であった。はたしてこの建物が、砂取邸そのままであるのかどうかはよく判らないが、御庭などはそのままであろう。
サイトをご紹介する旨のご了解をお願いしたら、わざわざ写真をメールでお届け戴いた。誠に有り難く感謝申し上げる。

                      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常山記談から「林半介」

2013-03-26 18:59:13 | 論考

                                              

 細川家家臣林家(英三家・新九郎家)が家祖とする、林才兵衛の逸話である。
私は現在林家記共云うべき文書(28ページ)の読み下しに奮闘中である。大変豪快な人物で一日に三度一番乗りをし、その都度一番首を取ったという。
(下の株瀬川云々の場面)なんとも場面/\が面白く、小説・講談の世界である。
林家の名誉のために申し上げると、その遠祖は織田信長の家老を勤めた林秀貞だとされる。半介を美濃大垣の青柳の百姓と常山記談は記しているが、
秀貞亡き後一時期帰農していたのであろう。なんとか秀貞につながる資料を見つけ出したいと思っている。 

林半介ハ美濃安八郡青柳村の百姓なりしが、石田に仕へて禄七百石使番なり、石田兵を起其の時佐和山の城中に軍兵を集め書院にて饗礼を行ひ、
吾今かゝる一大事を思ひ立運を天命に任すといへども汝たちが武勇をひとへに頼む處なり、其旨を存して軍忠あらば賞は功によるべし、其約束も印と
して酒盃を座の中に出しける時、林遥の末席より進み出て軍は臨みて一番は知らず、二番はかく申す半介としろし召れよとて、其盃をとりて飲みたり
ければ、皆にくきふるまひよといひしが、株瀬川にて一番首をとりぬ、斯くて両軍物別れする時、稲葉助之丞は金の切烈の指物にて秀家の軍士の殿し、
林は白じなへのさし物指て乗さがり殿しけるが、猶も本多忠勝が兵に向て一騎輪をかく有様、敵ありとも思ざる体なりしを、東照宮御覧じてあつぱれ不
敵者哉、武功を志す者はあの武者の草摺をいただけと仰せありけり

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綿考輯録に見る関ヶ原(19)

2013-03-26 18:29:27 | 史料

                                                                                                

       一、大御馬印   黒字ニ白き九曜但五幅四方、横広く見ゆるとて上下の方壱寸五分程御延被成候
           一書ニ、差人はかち助と六助也、かち介(ママ)差て少しよろつき候を六助追取て突立し故、御意により加々山庄右衛門名字をもらひ
           加々山六助と云し也、志方半兵衛親也と云々、志方か家記にハ、志方六助か父ハ志方右衛門尉繁広と申候而、播州志方の城主也
           神吉民部少輔弟ニ而初ハ櫛橋左京進と申候処、後播州印南郡在名志方と申所居城いたし志方と名乗候由、天正六年志方落城之
           時六助二歳ニ而一命を遁れ、丹波国ニ隠れ、其後丹後国長生院と申寺俗縁有之ニ十五歳迄居り候内、心繰有之段忠興君被聞召、
           十七歳 一ニ十五歳 之時被召出御知行五十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相働、中ニも於高麗深手負、御
           懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御懇意ニ而、寛永弐拾年病死、右六助
           嫡子志方半兵衛 半兵衛事大坂之所ニ詳ニ出云々 
       御馬印豊前ニ而ハ有之字也

    一、御昇     廿本絹三幅黒字ニ二引両を折懸之
           角より白く筋違ニ付、天正十年三月十九日より、右之通也、一とせ森美作守より忠興君へ御懇望ニ而昇ニ筋違を御付候、是ハ白地
           ニ黒キ筋違の由也、岐阜・関原落去し御上洛の時、御昇破れたるを三条橋ニ而京童が見て、扨も見事なる昇哉、骨を折たると見へ
           て破けると感候由、七曲りの山ニ而木の枝ニ引懸り破れたると也、扨昇の頭と云事御家ニ無之と也、関原ニ而昇の小頭諏訪孫右衛
           門・同孫七也 一ニ源七 、高麗陳の時晋州にて能かりし故、諏訪与右衛門 一ニ与左衛門 が名字を両人ニ遣候へとの御意ニ而諏訪ニ成し
           と也、御昇、豊前御入国以後ハ白地上の方ニ黒キ九曜也、島原御陳の後忠利君御昇を替させられ候時、三齋君へもか様ニ被成候
           やうニと被仰候へ共、我代の昇ニ悪敷事ハなし、其方ニハ何そ悪敷事有か、此方ニハ替ましと被仰候と也、白地ニ上ニ黒き御紋付
           たる御昇五十本有之候を、半分宛御分被成、立孝主・興孝主江御譲今以御両家伝来有之候と也

    一、御差物   銀の中くり  世ニ銀の半月と申候得共、忠興君ハ中くりと被仰候
           山鳥の尾ばつとしてくりの所を見へ隠れにて見事なりとなし、十五日合戦前より軍散する迄御差被成候、他の御大将衆は差物を大
           方人ニ御持せ候由也、或時秀忠公御差物の儀を家康公ヘ被仰上候ハ、加藤肥後守か馬藺の差物か、羽柴越中守銀の中くりの差
           物二ツの中御望ニ思召候如何可有御座やと御窺被成候ヘハ、家康公上意ニひとつハ差物なとハあやかりものニ候、肥後守もけな
           けものにて指物も能候得共、太閤の代計の競也、越中守ハ信長以来数度の事に逢候上、先年小牧表の退口殊ニ見事成し越中守
           差物可然との事ニ而、土肥大炊頭上使ニ而忠興君の御指物を被召上、後ハ御円居ニ成り銀の半月と号、大坂御陳ニも御持せ被
           成候、同時大炊殿御申候ハ、武勇をあやかるへきとの事なれは、着用之甲冑も可被差上と也、忠興君、具足ハ着古し候、新しく縅
           献候ハんと被仰、御召料之通縅立られ、其年の十二月被差上候 一説明ル正月
               考ニ、中くりの御差物被召上候ハ大坂陳以後と云説有、誤成へし 元和元年の所ニ詳出
               一書、山鳥の尾の立物をも御所望被遊候得共、引尾と申若き御大将ニハ御遠慮ニ被思召候とて不被差上と云々、又一説ニ
               ハ、一色は家ニ残し申度よし御断被仰せ上候と云々、同書ニ、御差物銀なる故、御家中ニ御免なけれは銀の道具ハせす、御
               国本ニ而後も差へきと思召けるにやと云々、又一書ニ中くりの御差物此以前牧左馬允ニ被為拝領候得共、公義江被差上候ニ
               付、以後ハ家の紋ニすへき由被仰付候と云々、又武隠叢話 武辺咄共云 曰、関原御陳の時、御先手より越中守唯一騎にて御籏
               本江被参候時、山鳥の尾の甲に銀の天衝 半月或は中くり の差物なり、遠方より見れは只其儘舞鶴の如し、家康公御覧被成、忠
               興武具の物数寄世ニ勝れて見事なり、就中甲と差物の取合一段見事なりと被仰、則天衝の差物御所望被成候ニ付、台徳公
               ニ被差上候也と云々、他よりハ天衝共申候哉、難心得候、又忠興君此時御先手より家康公の御旗本江御出被成たる事なく、
               其上国の主武前ニて唯一騎往来と云事も時分柄とハ云なから信し難き事也、又同書ニ、台徳公御所望にて細川忠興より御
               召の冑一頭被差上、則角頭巾の角の■(糸偏に包)と立たる形也、其冑を土井大炊頭利勝披露也、台徳公御意ニ入御感不斜
               則越中守も御前ニ召種々御褒美也、時ニ御冑ニねりくりのうち緒を忍の緒に付たり、忍の緒ニハ麻布のくり緒か能と聞召被及
               たるか、此うち緒か能かとの御不審也、其時越中守懐中より桐の箱を取出し、其内ニ麻布の忍の緒を入候と差上る、土肥大
               炊頭ニ向て、打緒付置候は御祝儀ニ而御座候、是ハ御肌ニ付候物故別ニ仕置候、只今御前ニて付直し申候と申上候、台徳
               公御機嫌也、此御冑を大坂御陳ニも被為召候と云々

   一、御家中番指物  鉄輪の足の如く立たる三本はご黒地ニ縫付たる金の九曜紋
           豊前ニ而は三ツしなへのはごニて長サ右同断、人持衆ハ同しなから色銘々ニかはる、御馬廻り衆・小姓組ハ三ツはごニて地黒し、
           御馬廻は一番より六番迄組々一・二・三・四・五・六と金にて押付候也、番文字忠興君御自筆之由、今以伝来仕候 

            

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする