津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■図書館行き‐トライアングル

2021-06-30 17:12:39 | 徒然

「まんぼう」が解除になって、図書館も平常運営になった。熊本城も公開になり賑わいを見せているようだ。
すぐさま出かけたいと思うが、車の免許を返納したので、なかなか体がすっと動かない。
先日自転車で1㌔ほどの所まで出かけ、帰りがけになると後輪の空気が抜けている。
わずかに空気が残っているのを無理をして乗って帰った。今日はしっかり空気を入れて自転車屋さんに出かける。
ついたころにはペチャンコになっていた。チューブとタイヤを交換してもらう。

 車の免許がないから何処にも出かけられないとぼやくと、奥方が「バス、バス」という。
図書館には直行で行けるような路線がない。そんな話をすると奥方曰く、「バスで水前寺駅通まで出て、電車(路面電車)で図書館前まで行く」と無茶な提案をする。
我が家から図書館までは3.5キロほどである。奥方の提案だとトライアングルの二辺約7~8キロをバスと電車で行けというのである。
体は楽でよいが時間の無駄だ。ならば自転車にしようと修繕と相成った。
2・3万で買い替えるか、電動アシストを買うか大いに悩んだが、年も年だし其処まですることはあるまいという結論である。
一二年もすれば、自転車に乗るのもおぼつかなくなるだろうし、その時はトライアングル二辺コースで行かずばなるまい。

27インチの自転車のサドルを高くしていたら、「足がとどかんでしょう。止まった時にこけるよ」と店主に怒られてしまった。

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■忠利女・藤

2021-06-30 08:19:53 | 人物

 先のオークションに出ていた「両敬様」にある、妙解院(忠利)女・藤にかかわる資料である。
天眼寺様とあり、松平刑部太輔忠弘様御奥 真源院様之御妹とある。
松平宮内少輔忠直(尚)とあるのは実子ではなく婿養子である。右に記載がある忠清主税および鶴松が実子か、細川家資料でもうかがうことが出来ない。
天眼寺様の左手の四人の御子は側室の子か?御亡室さまとあるのが忠直(尚)夫人である。
つまり、御藤様の血は途絶えたということだろう。


「藤」は寛永十一年甲戌出生、承応三年甲午六月十日婚姻、元禄十一年戊寅六月廿三日江戸にて卒す、年六十五、
法号・天眼寺慈光性林、谷中天眼寺に葬る。

生母は不詳とされるが、真如院と号されたようだ。後に高見権右衛門に再嫁されたという資料がある。 

               

                                                                                                                        東京谷中天眼寺にある御藤様のお墓

コメント (1)
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■解説ー有吉家文書「年中行事抜粋」(三)ー御着座後初而召出之式

2021-06-29 13:01:12 | 有吉家文書

■御着座後初而召出之式
 御帰国後初めての召し出しの式(御到着の翌々日に行われる)

  一、於竹間同席中壱人完被召出、畢而同御間ニおいて御役人中一列ニて左之通
    竹の御間に於いて家老一人宛召し出され、終わってお役人の人々一列にて召し出さる
      但竹御間と申ハ陽春御間次之御間之事ニ而候得共、矢張於陽春御間被召出候已前より右之唱ニ相成来候事
      此竹之御間之事ハ但書之通ニ候得とも陽春御間御障子之腰ニ竹之絵有之候付、元来ハ陽春御間を竹之御間
      と唱居候と相見候處、陽春之御額懸候後竹之御間は御次之間之様ニ相成たると考候事
       竹の御間というのは陽春御間の次の御間のことである、以前よりこのように唱え来ている。この竹の御間は陽春の御間の障子の
          腰に竹の絵があることによる、元来は陽春の御間を岳の御間と唱えていたが、「陽春」という額が架けられたのち、竹の御間は
       御次の間のようになったと考えられる
          御奉行      一限
          助教       一限 
          学校御目附    一限
          御郡御目附    一限 
          御穿鑿頭     一限
          御勘定頭     一限
          御算用頭     一限
          (上記略)
          御目附一人完御供之御目附ハ一列之末ニ被召出候
          御目付一人あて御供、御目付は一列の末に召し出されること
         右之通何時揃ニて被召出旨被仰出之段前日御用人より御用番江書付相達候、右ニ付而御請等之手数
         無之候事   但右之召出ハ多御着坐之翌々日ニて候事
         右の通りにいつ時に揃って召し出さる旨の仰せでは、前の日用人より御用番(担当家老)へ書付で達せられ、御受けなどの
         手数はないこと、右の召し出しは多くご着座の翌々日に行われること
       付札
       御奉行以下被召出候儀ハ御用人より達ニ相成此方よりは欠席之人江知せ候事
        お奉行以下召し出されることについては用人より達しがあり、この方からは欠席の人へ知らせること
       文化九年初而御帰国之上被召出六月三日御着座被遊同五日初被召出此節御一門衆同席中薄上下上ニ 茂御
                          薄上下御備頭以下御役人中ニ召出候是ハ皆麻上下着達者従御小姓頭
        文化九年初めてご帰国(齊樹)されての召し出しは、六月三日ご着座、五日に初の召し出しあり、この時には御一門衆・同席
        中薄裃、上(殿様)もお薄裃、御備頭以下お役人の召し出しには皆麻裃着であることを小姓頭より達しのこと 

       文化五年六月十三日同断之節吟味之處同奉行之方ニハ控有之候付機密間江も此節控致し被下候様置候様
       夷則より申聞有之候事
        文化五年六月十三日の同様のことについて吟味したところ、お奉行の方には控えがあるが、機密の間へもこの度から控えを下
          さる様にと郡夷則より聞かされたこと
          
    右御当日之式左之通
     召し出し当日の御式について
  一、平服ニ而 初召出ニ而候得共平服 刻限半時前仕出之事
     平服にて初の召し出しであっても、刻限の半時(一時間)前には仕出しのこと
  一、例之通奉窺御機嫌之事
     例の通りにご機嫌伺い奉る事
  一、召出之節ハ哥仙之御間まてハ例之通候事
     召し出しの節は歌仙の間までは例の通りに行うこと
  一、右哥仙之御間江控居候得者御用人より案内有之、一人完罷出 此時は不老門よりハ不罷出 尤鹿之御間と哥仙
               之御間之境御襖南之端一枚明キ居候、此所より左手之様ニ参鹿之御間北御入側と陽春御間之次之御間との突合
    之八畳敷ニ御取次以下相詰居、此處ニて御取次以下江致会釈右之壁付ニ脱剣御居間江罷出候事
                   歌仙の間に控えていると用人から案内があり、一人づつ罷出、この時は不老門からではなく、鹿の間と歌仙の間の境の襖の南端が一枚明
     いて居りここから左手に参り、鹿の間北側お入側と陽春の間の次の間との突合の八畳敷に御取次以下が詰めて居り、ここで取次以下へ会
      釈をして、右側の壁付にて刀をとり御居間へ罷り出ること

      但脇差ハ三家ハ八畳之敷居内其外ハ敷居外ニ脱置候、且又御前江罷出候得ハ御用人并御取次以下ハ鹿之御
      間北之方段落之御間へ下り居候、右之通二付退去之節不及会尺候事
       脇差は三家老家は八畳の敷居内、その他は敷居の外に置くこと、御前へ罷り出れば用人や御取次以下の人は鹿の間北の段落ちの間
       へ下がっているので、退去の節には会釈には及ばない事
  一、陽春御間御敷居外ニて御辞儀是〇被遊御意候上御敷居内ニ摺入尚御辞儀左候而御用相済御敷居外江出猶御辞儀
    退去初之所二て帯剣且々詰間江参候事
     陽春の間の敷居の外にてお辞儀し、ここでお言葉があり敷居内に摺り入りなおお辞儀する、御用がすんだら敷居の外へ出てお辞儀をし
      て退去、刀を帯びて詰めの間へ参ること

      但陽春御間御座所ハ御建具無之御襖一枚北之方江建附ニ相成居此御襖之脇より 召出候之節ハ此御襖際丁
      口ニて御縁側之方末坐ニ成此トキハ一人ニ付此丁口之席ニ出て候 御目通りニ罷出候事
       陽春の間御座所は建具がなく襖一枚北の方へ建てつけられており、この襖の脇より召し出されたときは、この襖際の丁口にて御
       縁側の方の末座になり、この時は一人に付きこの丁口に出て御目通りにまかり出ること
  一、夫より御奉行以下被召出候御奉行御目附は九曜中柱御間之縁側ニ北向に繰付例之御役人者佐野之御間御縁側ニ
    繰付相成居候得共無構通候事
     それよりお奉行以下召し出されたお奉行御目付は、九曜・中柱の御間の縁側に北向きに順に座し、例の(?)お役人は佐野の間の縁側
     に順に座しているが、(自分たちは)構いなくその前を通る事
  一、三家之嫡子者不案内ニ有之候得者同席之内より召連御前江罷出候儀も有之候、且又見習ニ出方無人ハ此時は不
    被 召出候御一門衆は勿論之事
                   三家老家の嫡子は不案内であるため家老家の内から召し連れて御前へ罷り出ることもある、見習いに出ていないものはこの時は召し出
      されぬこと、御一門衆も同様である

    〔御用人より御杉戸明ル 此所二て御時宜〕
      用人が杉戸を明ける、ここでお辞儀をする
    已前ハ初被召出不老門よりト相見朱書之通之書付持伝候墨書之図ハ本文ニ依而認置
     以前は初召し出し(の時?)不老門よりであったようで、朱書きの通りの書付を持ち伝え墨書の図は本文により認め置く
           
                  (この項・了)

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■細川家譜

2021-06-29 09:17:33 | オークション

            時代物 源氏細川之世譜 細川家譜 印刷資料 希少 入手困難 資料 旧家蔵出

 印刷ものだそうですが、こんなものがどこから出てくるのでしょうか。詳しく見てみたい気がしますが、ずいぶん高額になることは間違いなさそうです。

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■気になる二つのオークション

2021-06-28 18:22:36 | オークション

       小山武岑他『増補 本藩年代便覧 完』安政6年刊 肥後国熊本藩便覧 細川韶邦に至る系図他 江戸時代和本 熊本県郷土資料

                                                       

 

                                             御代々御続 御両敬之記 

                     

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■御側という職域

2021-06-28 09:03:30 | 歴史

「御側」とは藩主の家政組織である。ある時期には藩主の意向もあって政事にも加担するようにするようになり、発言力を強めるようになった。いわゆる寵臣が政治の表舞台に進出していくことになる。
しかしながら、その弊害が露呈し、宝暦の改革においては重賢の意向により、表向き政治への発言などは後退せざるをえなくなった。
鎌田浩氏はその著「熊本藩の法と政治」の中で、「御側」に対し「政治機構を外様(外局)」としている。
ウィキペディアをみると、外様(とざま)とは、主君(上位権力者)を中心とした人間関係において、主君の親族・一門や累代にわたって仕えてきた譜第(譜代)と比較して疎遠にある者(家臣)を指す。】と記している。
ウィキペディアの説明が、そのまま大名家に当てはまるものではないが、鎌田氏の説明に基づけば、君側に身近に合って家政に従事するのが「御側」、「外様」とは政治向きの機構にある人々ということであろうか。
しかしながらこれらはすべて「役方」であり、これらをはずれた「番方」の人々は「外様」の範疇に含まれるのだろうか? 

さてその「御側」については、「肥後読史総覧」に機構図が示されているからご紹介しておこう。

                 

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■今日の買い物107円

2021-06-27 19:04:40 | 徒然

 今日の散歩は昼食後となった。朝の曇りがちのときに出かければよかったが、雑用で午前中の時間を費やしてしまった。
ホームセンターを覗いてみたいということもあって、太陽が照り付ける中出かけることにした。
帰りに観葉植物をながめていたら、「ホテイアオイ」が並んでいた。新鮮という形容は当たらないかもしれないが、元気がよさそうである。
いつものごとく、散歩の折わがポケットには500円入っているから、手をつっこんで確認したうえに一つ購入。
107円という何とも中途半端な値段である。
江津湖あたりへ出かければ、採取できるのだろうがこちらの方が手っ取り早くて良い。
わが愛する13匹のメダカ君のためにである。すこしビオトープがにぎやかになった。

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■御恵贈御礼「家系研究・第71号」

2021-06-27 18:26:14 | 書籍・読書

                

 家系研究協議会様から「家系研究・第71号」をご恵贈たまわった。厚く御礼申し上げる。
いつもながら、会員の皆様の熱い研究成果が頁に満載されている。
今回は特に真野信治様の「消えゆく甲斐逸見一族」を特に興味深く拝見した。それは、細川家には若狭衆といわれる多くの方が仕官されているからである。
特に細川忠興・忠利のもとで重臣となった沢村大学などは、逸見家の存続に心血を注いだ人物である。
事がかなわわず、細川家のN氏の足軽となりのち功名をたて、10,000石を拝領することになる。以降家老職を輩出する家格となった。
会員の皆様のさらなるご研究を楽しみにしている。感謝・・・

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■ガラシャの血

2021-06-27 08:28:02 | 歴史

 ガラシャ夫人の血を引く方々は、忠興とガラシャの間に生まれた、嫡男・忠隆、二男・興秋、三男・忠利の男子三名、女性は前野景定室・長である。
興秋は父・忠興により切腹を命ぜられた。長の夫・前野景定も秀吉から秀次の事件に関係する人物として切腹させられている。
忠隆は長男なれど、奥方が前田利家女であり、ガラシャの自害の際共にしなかったとして忠興の怒りを買い廃嫡された。
三男忠利が嫡男となり、ガラシャの血は光尚→綱利→宣紀→宗孝→重賢→治年とつながったが、宇土支藩から齊茲が入ることにより途絶えることになった。
宣紀は新田藩初代の利重(綱利弟)の二男だが、新田藩は男系が明治に至っているからガラシャの血も受け継がれているだろう。
なんといっても正統は忠隆の内膳家の家系である。またこれらの家系の女性たちの婚姻によりガラシャの血を引く家も結構あるのだろう。これはなかなか追跡しがたい。

 先にこちらは明智の血をひかれるAAさまから、大阪みなと中央病院長 (大阪大学名誉教授)・細川 亙先生の講演記録が掲載された同病院の記事のご紹介があった。
御礼を申し上げるとともに、当ブログでもご紹介させていただく。
講演記録にもあるように、細川 亙先生は内膳家の嫡流ともいうべき血を引いておられるから、まぎれもないガラシャのDNAを受け継いでおられる。ご一読を願うものである。

                 波瀾万丈細川ガラシャの生きた戦国時代

 ちなみに、細川護熙様にも回りまわってガラシャの血が流れていることを、ある関係者からご教示いただいたことがある。

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■鎮魂の日6月26日

2021-06-26 18:14:10 | 熊本

 昨日の事だが、奥方が今年は雨が少ないと言う。早い梅雨入りだったので、長い期間鬱陶しいことだと思ったが、確かにいかにも梅雨の雨の降りという日は意外と少ないように思える。
空梅雨の部類かもしれない。
今日という日は、私が小学6年の時(昭和28年)に大規模な水害が発生、大被害が出て同窓の人が30名弱が命をなくした。
毎年その日を迎えると、友達の御霊に合掌するのだが、今日は雨が降ることもなくうっかり忘れるところだった。
ダイアリーに書き込みをするとき気づいて、大いに慌てたことである。
68年の時の経過がある中、私にはこれだけは絶対に忘れてはならない一日で、これを忘れたら亡くなった人たちに申し訳が立たない。
ちょうど今頃の時間からあちこちで堤防が切れ、我が家も鴨居の高さまで水が来て、なんとか脱出して命を拾った。

ただただご冥福をお祈り申し上げるしか、すべがない虚しさを感じる。

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■東唐人町・競商場あたり

2021-06-26 12:59:01 | 古写真

           

 東唐人町(現・紺屋町1)にあったという百貨店の走りだといわれる「競商場」前の唐人町の賑わいである。
左手(地図では上)、船場の方から来た道が突き当たった場所である。
写真では判りにくいが、やや筋違いに右手に進む道があり、これを行くと現在では大きく迂回した市電の通り、商工会議所前あたりに出る。

桑野豊助著「くまもと商家物語」では、二階建ての木造と思われる図(下図)が紹介されているが、上の写真右手の建物が描かれているようだ。
                                                 
 甲斐青萍の画をまとめた、伊藤重剛編著の「熊本街並の画集」の「熊本城下街並屏風」をみると、中庭をもつ三階建ての洋館が描かれており(p29)、この写真では右手の茶色に着色された建物がそうである。

明治17年の開業で、間口2間×奥行1間ほどを、テナントとして小間物・雑貨・古着・玩具などや婦人・子供用品、日用品などの店が並び、中庭に沿って一回りすると出口に至るというような作りであったらしい。
まだ電灯ががなく、ろうそくやランプの時代だが、この写真のように電気が通るに及んで営業も夕刻にもおよび、人並みで賑わったようだ。
なかなかのアィディアマンだが、もともとは細川家家臣・長谷川家に仕えた軽輩であったそうな。どこに才能があるかわからない、維新後起業して財をなした。


 ちなみに、写真左手の「〇にセ」とあるお店も、「くまもと商家物語」に紹介されている。
当時売上番付№1の呉服屋・石坂清四郎のお店であることが判る。
                  

唐人町筋の貴重な資料である。

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■狂言「瓢の神」「花折」

2021-06-26 06:31:26 | 歴史

                 梅の薫」耇姫様の事 (四) - 津々堂のたわごと日録 

 先に書いた「耇姫」さまの続きである。大きなおざぶに座られた御姿はなんとかわいらしいことか、又こちらの立像は少し成長なさっているように思える。
右手に扇子をお持ちだが、これは舞を舞われている御姿だとされる。
「梅の薫」によると、耇姫は狂言の「瓢の神」「花折」が大変お好きで、役者が舞うのをご覧になった後、みずから真似て舞われたという。
「四歳でお亡くなりになった」というが、現代風に言うと三歳と十か月である。まさにかわいい盛りである。
 残念ながら私は、狂言を拝見するという機会もなく、「瓢の神」「花折」がどのようなものであるのか知る由もないが、サイトで色々調べてみると新発意(しんぼち=小坊主)が登場する後者の話が特にお好きではなかったかと推察する。

さてこの扇子を右手に持った仕種は、いずれにしてもどちらかの狂言だと推察されるが、さてどうであろう。
YouTubeで見れないかと思ったが、残念ながら見ることはできないようだ。

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■熊本の文化施設が動き出しました

2021-06-25 18:28:31 | 熊本

 熊本でのコロナ感染者はここ三週間ほどは、10名以内に落ち着き、病床にも余裕が見えてきました。
そこで県・市においては、閉館していた文化施設などの再開が発表されました。

         ■熊本県立美術館本館・同分館(開館中)・永青文庫展示館
         ■熊本県立図書館
         ■熊本県伝統工芸館
         ■熊本県立劇場(開館中)

         ■熊本博物館
         ■熊本市立図書館
         ■熊本城
         ■熊本市立現代美術館(開館中)
         ■くまもと工芸会館
         ■島田美術館(開館中)
         ■熊本国際民藝会館(開館中)
         ■(肥後銀行)肥後の里山ギャラリー(開館中)

 なかなか「どうぞおいで下さいませ」とは申しかねる昨今の状況ですが、どうやら日常が戻ってきそうです。
まずは、図書館の開館が待ち遠しいものでしたし、改修なった熊本城をゆっくり眺めてみたいと思います。

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■街角の風景・実生で育つ植物たち

2021-06-25 17:10:44 | 熊本

                                                                 

    夏の暑い中の散歩は、いきおい緑陰を選んで歩くことになります。
錦が丘公園の北側のケヤキ並木を歩いていたら、公園の石垣と排水路のあいだのわずかな隙間に、いろんな木々が実生で成長していました。
このあたりにはイチョウがずいぶん芽を出しています。
近くには見受けられないのですが、道路の反対側が錦が丘小学校の運動場に当たり、たくさんの木々の中にイチョウもありますから風の強い日にでも飛ばされてきたのでしょう。
これが里山ででもあれば大きく成長するのでしょうけれど、これは道路清掃の際処分される運命になりそうです。
これを圃場に持って行って育てるなんてことは、万が一にもないでしょう。
自衛隊周辺の植込みでも、やはり実生のケヤキやトウカエデなどが植えこまれたツツジ同様3・40㎝に育ったところで頭をきられ、これが毎年繰り返されています。

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■耈姫さまは御祖父様似?

2021-06-25 12:02:10 | 歴史

 宇土支藩の7代藩主・立礼が、宗家の10代目の当主(齊茲)になったのは、天明3年9月のことであり、当時25歳である。
宇土藩主時代に嫡子・立之が生まれている。宗家先代当主・治年には二人の男子があったが、いまだ幼く、齊茲の跡は二男の應五郎に継がせることが内定していたらしい。
齊茲は宗家に入ってから、五男五女をなしているが、男子二人が夭折、二男茲詮は23歳で亡くなった。
女子は五人(二女~六女)五人が夭折している。
養父・治年の子・應五郎が6歳で亡くなり、齊茲の跡は嫡男斎樹がつぐことになるが、それは文化7年(1810)である。
齊茲がこの年に隠居するが、御年51歳の若さである。隠居後三女をなした。四女は産後に死去しているようで命名もされていない。五女の融(アキ)姫は濱町屋敷で誕生している。10歳年が離れた六女の耇(コウ)姫は熊本の本山御殿で誕生している。齊茲64歳である。
耇姫誕生については面白い話が伝わっている。齊茲は耇の生母・倉と共に、宇土に出かけて安産を祈願している。
宇土での宿所で倉は「白髪の老翁」の夢を見て経緯を齊茲に語っている。齊茲はこれを詳しく聞き「それは御父興文公によう似させたまう」と不思議がった。
日が満ち文政6年2月14日、耇姫が誕生した。果たして耈姫さまは御祖父様似であったのだろうか?
この耇姫についてはその愛らしい姿が描かれ残されている。画才ゆたかな齊茲は耇姫像の模写絵を残している。
 
                
                     

その愛らしさは、仕える廻りの者を魅了したが、わずか4歳弱で二の丸お屋形で死去した。
眼下の桜や遠くの山々の景色を望まれてお楽しみになったことであろう。蓑田勝彦氏は「熊本歴研・史叢 第13号」に「細川耇姫と荒仕子清七」という文を掲げておられるが、当時江戸詰めの武家奉公人最下級といわれる荒仕子の清七というものが、耇姫が病になったということを聞きつけ、「ことの外仰天して、そのまま裸になり総身に水をかかり、薬師に詣でては又水をかかるなどを繰り返して平癒を祈った」というのである。
熊本に在った時、その愛らしさを見聞きしていたものであろうか。
仕えていた人々の嘆きは深く、これらのことは「梅の薫」という著に詳細に伝えられている。
日本風俗学会誌№115(平成5年10月発行)第32巻・第2号に紹介されている。

                                                       

                                    

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