津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北海道新聞に掲載

2013-05-31 18:01:12 | 書籍・読書

 「肥後藩三百石米良家・堀部弥兵衛の介錯人 米良市右衛門とその族譜」の発刊に当たり、著者近藤健氏がお住まいの札幌において、北海道新聞が
これを紹介している。いよいよ明日店頭に並ぶようだが、ご近所で入手が困難な場合は発行元へ注文をお願いしたい。

                                 発行元・花乱社 http://karansha.com/merake.html 

 ぜひとも皆様にお読みいただきたいと、乞い願うものである。

                                    

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「石垣原の戦い」以後

2013-05-31 08:06:43 | 歴史

 石垣原の戦いが終息を見た後、松井康之は有吉四郎右衛門を木付(杵築)城に残し、十月十三日福智山に到着している。
「忠興君御悦被成九州の様子委細被聞召、戦功等御賞美被成候、黒田如水よりも康之ニつけて諸将ニ書を送られ、覚悟を添て委しく言上すへきよし被申聞く候」とあり、家康公もやがて康之を召しだし、種々報告をなし戦功に対し御感あって面目を施している。その後丹後へ帰国している。

一方、木付にある有吉四郎右衛門にたいして、十二月九日付の妻・まんの生活の窮状を知らせる書状(家士・葛西彦四郎宛て)が残されている。

    まつい殿の文とどき申候、こんどはかいせんにて、彦四郎てがらのよし承り候て、せんじつ与太郎への九兵衛へのこころづけ申し候へやうもなく、御う
    れしさかず/\にて候、又国がへとてやがて殿様御下りのよしに候、此の程われ/\も下り候て御うれしくぞんじ候へば、又国がへと申候まゝ、せは
    しさ申し候はんやうもなく候、彦四郎おやたちもさとにあずけおきて、われ/\下りて候、たいらへこされ候、孫衛門おかあも、えはまへあづけて、これ
    もたひらへこされ候て、みな/\一ところへ居まゐらせ候まゝこゝろやすく候べく候、おかあはかたびら一つにてふる(震)われ候、にやひ(似合)もの候
    はゞ、米かしてかさせ候はゞ きせ(着)候はんと申し候へども、いまだうりかひ(売買い)もなきゆゑならず候、宮つまでのこじき(乞食)よりはあさましき
    てい(態)にてまいり候、われ/\もよろこび候てあくる日のらんにてまひり候ゆゑ、わずらひ候て、くし一具とりいで申さず、かたびら一つにてのき候へ
    ば、ふるきもものを一つみなにきせ候へどもならず候、われ/\はさように候はんにももめん(木綿)にてよるのものをこしらへ候て京より下り候てきま
    いらせ候、にょうぼうどもにもぬのこ(布子)一つづつこしらへて、きせ申すていにて参り候ほかはなく候、下り候へども、米をさまり候はではん米さへな
    らず候へて、めいわく申し候、しゃく(借)米とも、はこび候て、さはしさ御もすし候べく候、四郎右門殿へ御申し候て、具の方よりしゃくせん(借銭)かた
    御すまし候やうに候て給べし、又長次郎へ言伝申候、京にもふたりながらそくさいにそうろう、かしく
                                          まんより
             十二月九日
                彦四郎殿
                    まゐる 

四郎右衛門妻・まんは過酷な逃避行が始まる前日に二男・平吉(英貴)を生んでいる。この乳呑児を抱えての苦難の毎日がつづき十二月に至って着る物がなく震えているというのである。十二月九日と云えば新暦では一月である。寒さは一入であったであろう。

文中にある御国替とは十二月二日、「豊前一国と豊後之内速見国崎(国東)両郡を添御拝領被成候、是此度の軍功を被賞候故也」として豊前に赴くことになったのである。出発は十二月七・八日ごろとされるから、まさにまんが葛西彦四郎に書状を発した時期である。寒い盛りであったことが、加藤政右衛門の先祖書に次のように記されている。
    忠興君豊前御入国之刻、雪深く御馬こゝへ(凍え)、御人数及難儀申候ニ付、金山下坊(加藤氏祖)へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたゝ
    め申候、其上御通行之道筋三里之間雪をかきのけ、無御支御旅行遊され候、左候而下坊は翌六年三月上旬、豊前へ罷越候と云々

十二月廿六日、一行は豊前(中津)に入国して御規式がなされた。当然のことながら、有吉四郎右衛門は木付から駆けつけお祝いを申し上げ、「直に木付城ニ帰候也」と綿考輯録は記している。当然のことながら妻・まんと再会し二男とも初の顔合わせをしていると思われるが、これに関しては記されていない。こうしてそれぞれの慶長五年が過ぎゆき、細川家の新たな出発が始まるのである。 

 

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熊本市歴史文書資料室の「歴史講座」

2013-05-30 11:47:07 | 熊本
 


歴史講座
テーマ:~くまもとの歴史を彩った人々~ 
平成25年度は、くまもとの歴史に登場した人々あるいは、くまもとの歴史を導いた人々にスポットをあて講座を実施します。

次回開催予定 
日時:7月23日(火)午後2時から午後4時
場所:歴史文書資料室( 花畑町別館3階 
講師:山田 貴司さん(熊本県立美術館 学芸員)
演題:「加藤清正の朝鮮出兵と肥後の民衆」
定員:40人(申込み多数の場合は抽選)
費用:100円程度(資料代)
応募方法:7月1日~10日までに往復はがきに住所、氏名、電話番号を書いてお申込みください。
【あて先】〒860-8601(この郵便番号を記載するだけで市役所に届きます。)歴史文書資料室

※講座中は、資料室の利用はできません。
※会場(花畑町別館)には、駐車場、駐輪場がございませんので公共交通機関をご利用下さい。 
【平成25年度 開催予定】
テーマ 「くまもとの歴史を彩った人々 」
  
開催日 演題 講師
第1回
 5月28日(火)
 「肥後国の成立」  熊本博物館 学芸員
  美濃口 紀子 さん                    (終了)
第2回
 7月23日(火)
 「加藤清正の朝鮮出兵と肥後の民衆」  熊本県立美術館 学芸員
  山田 貴司 さん
第3回
 9月24日(火)
 「細川忠利の政治と生涯」  熊本大学文学部教授
   稲葉 継陽 さん
第4回
11月26日(火)
 「菊池一族」  熊本県伝統工芸館評議員
  阿蘇品 保夫 さん
第5回
 1月28日(火)
 「清正公信仰とくまもとの人々」  熊本博物館 学芸員
  福西 大輔 さん
第6回
 3月25日(火)
 「徳富蘇峰・蘆花と会津・群馬の人脈」  熊本近代文学館長
  井上 智重 さん

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皆さん・・「我が家の歴史」を書きましょう

2013-05-30 10:13:03 | 徒然

 畏友近藤健氏(共著佐藤誠氏)が今般発刊された(6月1日発売)、「肥後藩参百石・米良家 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜」を読みながら、いささか触発されて私も「我が家の歴史」を書いてみようかという思いが、むっくりと頭をもたげさせている。そして皆様にもぜひとも「我が家の歴史」を書いていただきたいものと思っている。例えば数枚のコピーでも良いから、親・兄弟・子供、叔父伯母・従兄弟・はとこの目に届けば、先祖を想う気持ちや一族の絆の一層の深まりが増すものと確信を持っている。

御著によると近藤氏が母方のご先祖「米良氏」の歴史に触れられてから、八年の時が経過しているという。氏は、たびたび資料をまとめられて当方にもお送りいただいていたが、共著の近世史家・佐藤誠氏の強力な応援により発刊の決意を為され、サラリーマンとしての仕事の合間を縫って、稿をまとめられた。その経過を知る一人として頭が下がる。

事此処に至らないまでも、「我が家の歴史」にまったく興味を持たない私の子供たちのために、今自分が知りえる情報を伝えるためにも何とかやり終えたいという思いがつのっている。問題は間に合うかという一点のみである。


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お安く読む・講談社文庫「実見江戸の暮らし」

2013-05-29 16:34:50 | 書籍・読書

 

   実見 江戸の暮らし (講談社文庫)
 
          講談社


内容説明

相手の顔さえよく見えないほど暗かった行灯。「数メートルに一軒」というほどの隆盛を極めた外食店。離婚・再婚は当たり前、婚活不要の自由な結婚事情―。名所図会や絵草紙をはじめとした図版を豊富に収録。目で見て、読んで追体験する、表舞台の歴史資料には記されない、江戸庶民の実生活を徹底ガイド。

目次

江戸を絵で見る;江戸の食さまざま;江戸の魚河岸・青物市場;江戸の酒;江戸の着物;明かり;江戸時代のお金;明六ツ、暮六ツの世界;旧暦の世界

出版社内容情報

暦、食生活から懐事情に至るまで、豊富な図版とともに庶民の生活を分かりやすく解説した、時代小説ファン必携・江戸のガイドブック。

人気のおかずは? 快適に暮らすための知恵とは? 当時の貨幣経済はどうだったの? 江戸庶民の毎日は、リサイクルを徹底し、低エネルギーでありながら実に豊かだった。当時のベストセラーの挿絵に息づく、バラエティ豊かな江戸の人々の衣食住を、分かりやすく解説。時代小説の副読本としても役立つガイドブック。(講談社文庫)

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白杉庄助なる人

2013-05-29 08:07:53 | 歴史

慶長二年の頃、有吉立行の家士であった白杉庄助なる人物が、忠興御預かりとなり「御直勤仕」となり、御鉄炮三拾挺頭を仰付けられている。
これはこの時期有吉立行の「勝手向殊之外逼迫」がその原因である。借金が多く「返済の為に上知仕、御扶持方計りにて取続候間、家中之者共も当前之家来ハ先ツ暇を遣し候・・・・」訳である。このとき、与太郎安政(十五歳)御擬作二千石を拝領している。
戦つづきでどの家も出費が甚だしく、特に有吉家においては大事な家臣を賄う事が出来ずに暇を出し、これを受けて白杉は細川家の直臣として組み入れられた訳である。(以上綿考輯録巻十一--忠興公・上 p137)

三年後慶長五年立行が木付で大友義統と戦っていた折には、立行の妻まんが木付の陣中に手紙を送っているが、生活の困窮ぶりが吐露されている。生まれたばかりの子(英貴)をかかえ戦乱の中を逃げ惑っている。

さてこの白杉庄助であるが、細川家家臣略系譜には白杉少一家が存在するが手元にある先祖附をみるとどうやら異流であるようだ。
あちこちの戦でその功名ぶりが語りつがれているが、白杉庄助のその後がいかなるものであるのか、史料を見いだせないでいる。 

コメント (3)
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東大史料編纂所・研究紀要第22号(2012年) から

2013-05-28 21:10:34 | 論考

江戸城に関わる論考、四件が大変面白い。

標題 著者名 
掲載ページ
         
<研究集会報告> シンポジウム「歴史のなかの地図Ⅴ 江戸と江戸城」        
都市空間のなかの江戸城   杉本史子   231
家光政権期江戸城と江戸の防衛―城門警衛と消防制度の成立―   松尾美惠子   236
境界としての江戸城大手三門―門番の職務と実態―   岩淵令治   249
画像のなかの江戸城―版本江戸絵図を中心に―   千葉正樹   267
       

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梅雨入り

2013-05-28 07:34:34 | 熊本

何時降り出したのか、今朝は雨が降っています。 

連日の夏日に「雨が欲しい」などと思っていたら、何と昨日の午前中に「梅雨入り」と相成りました。総選挙の出口調査で開票早々当選確実が出たような話で実態は伴わないままで、とうとう雨は降らないまま日が変わってしまいました。三日ほど風が強く吹いて、窓を開けていると細かな砂がまい込んできて、家中ざらざらという感じに困っていたのですが、今日は風も収まり穏やかな梅雨の入りと云ったところです。平年より一週間以上早く、今年の梅雨は陽性だといいますから、昨年に様な災害が起こらないように願うばかりです。 

                                   松葉ぼたんの一輪咲いて梅雨に入り   津々
 

枯れかかっていた71爺も、なんとなく生気を取り戻したような気分になっています。他事ながら乞う御休心。

午後から本降りに成りました。・・・・湿度が急に上がり夏日とはうってかわっての不愉快さです。17:15

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石垣原の戦い・17 了

2013-05-27 06:46:19 | 史料

廿三日、垣見和泉守か冨来城を如水攻られ候に、松井・有吉も寄手ニ加ハり候、其比大坂表より飛船を以、去十五日於関原御合戦御勝利の注進あり、此由を如水より清正江秘告、松井・有吉よりも書を送る、清正は宇土城攻之節にて則返書あり
   自如水幸便ニ付而本状本望候、濃州面之儀、心ちよき仕合併少残多存候、其辺御手間不入爰かしこ陳を被明御羨敷候、此方ハ手間入候ハんと存
   候事候、是へ押寄候日雨ふり其上程近キ道ハ人数つかひ不罷成付而、八代之方へ押廻し候ヘハ、人数草臥日も暮ニかゝり候故、城中持かためさせ
   候事口惜候、併落居程有間敷候条、可被御心安候、少日数のひ候とも悉可討果覚悟候、是分ニ候ハ中国面へ各申談候事ハ成間敷かと存候、羨敷
   事不及是非候、上方之様子如水申遣候、折節差急ニ付而以書状不申不沙汰本意之外候、猶吉左右互可申承候、恐々謹言
                                        加主計
        九月廿三日                           清正
             松 井 佐 渡 殿
             有吉四郎右衛門殿

又翌日清正より上方表の事告来る、兼て之内存ハ九州を打鎮め、中国に発して毛利家を攻討るへき旨、如水と相談有之由ニ候へとも、輝元降参之上は、其儀に不及、且松井・有吉等に使者の直口を聞せらるへき為ニとなり
   態以飛脚申入候、今度関原表合戦之競を以、輝元手前懇望ニ而相済之由申来候、其元程近ク候間、可相聞候得共、余り日限早ク相聞候間、申入
   候、越中殿丹波国御拝領候而御入国之由ニ候、先以御満足たるへく候、将又柳川侍従事ハ落下候由申候、我々ハ去ル廿六日上関迄類船仕由申
   候、舟数百艘計有之由申候、然時ハ毛豊・鍋信・羽藤四比類たるへく候、則是ハ上方より参りたる者ニ而候間能々可有御尋候、次ニ当城如形仕寄
   申候間、落去程有間敷候、其元如何被仰付候や承度候、猶追々吉左右可申承候、恐々謹言
                                        加主計
        九月廿九日                           清正 在判
             松 佐 渡 殿
             有四郎右殿
                   御宿所

其後忠興君よりの御書相達し、福智山御攻被成候由、被仰下候間、有吉ハ木付に残り、松井ハ急き丹波へ赴くへきの旨、如水に相談し、十月朔日康之木付の城に帰り、船用意して、急き罷上り候、其節如水より各へ被遣候書簡并松井江被渡候覚書
   就松井佐渡守被罷上、令啓上候、今度大友討果刻、羽越中者共致一番合戦、松井・有吉自身手をくたき、無比類働仕候間急度 内府様へ被仰上
   被成 御感候様ニ可有御披露候、兼而又大坂不慮以来九州之者共忠不忠之次第、淵底佐渡守被存候、被 召出 御直ニ被 聞召候様ニ是又御
   取成所仰候、恐惶謹言
                                        如水軒
        十月八日                             円清
             井伊兵部少輔殿
             金 森 法 印
             有 馬 法 印
             浅野弾正少弼殿
             羽柴越中守殿
             黒田甲斐守殿
                     人々御中
     私云、此本書故有て福田頼雄所持也、其内には羽柴越中者共一番合戦と云事ハ見へ不申候、九月十六日加藤氏より松井・有吉に賜り候書中
     ニも、十三日吉統陳所へ如水被取懸候処、其先勢より以前ニ被及一戦之由如水より被仰渡候、御粉骨可申様無之候と有、其外此節の一番合
     戦無粉事ニ候処、右書面に洩たるハいふかしく候

     
 一、上方乱之刻九州衆心持之事
 一、加主計我等間之事
 一、手切働之事
 一、中川修理初中後違之事
 一、府内留守居前後無相違事
 一、民太留主居之事
 一、竹伊豆事
 一、細川相働付城申付鍋嶋人数入置薩摩へ可罷出候事
 一、熊谷垣樋城之事
 一、太田飛騨父子之事
     以上
   十月七日           如水
       松佐州

     私云、松井佐渡守上着以後之事は福智山攻の跡に出し置候事、捴而木付表一件之初中後、忠興君会津御陳立、岐阜・関ヶ原御戦功等に月日
     紛れ申候間、別巻に仕候、其次第従前々数多記録も有之候へとも、或ハ事前後にして難見、或ハ本文と書状と違有之、又ハ後年ニ記す人の了
     簡なとも交り候様に相見へ候所ハ除き申候、肝要ハ言上の書簡、中津・熊本往返之書通等ニ符号不仕候而は実録とハ難仕候、しかし右書簡の
     内にも或ハ時の風聞を直に書面に顕ハし、或ハ関東尾濃辺の事を京・大坂にての人口を聞て注進之趣を申越、又ハ一旦評議有を伝へ聞、注進
     の後其事変り候て書面と相違の事も出来、最初敵にして後味方となり候の類ハ、書中の文言なりとも踏へには成不申候、既に秀林院様御屋敷
     御退散被成候同時稲富切腹との事、丹後へ向候人数勢田に出候、或ハ家康公八月二日江戸御立、同廿五日清須御着、又ハ忠興君丹後御拝
     領御入国なとの事 福智山城御攻可被成ため丹後に御発向を唱違たるなるへし いつれも相違の事なり、其外も可有之候、ヶ様の類は必竟時の風説にて其実な
     き事ニ候、然れハあなかちに泥ミ候得は、大なる誤りと成申候、且又七月より九月迄之内熊本・中津に取遣之事ハ数多にて右に記し置候外、何
     程も可有御座候、右本書多クハ追而忠興君江差出、扣ハ松井・有吉の家に秘し伝来いたし、又ハ本書を持伝候も有之との事に候間、右之外ニ
     も証跡と相成候も可有之哉、いまた初中後不審之所も多く候間、たとひ無用の書面たりとも考出し候ハゝ猶又追加をも可仕候、又松井・有吉等か
     注進状に懸樋城と有之候ハ、垣見和泉守の城の事なるへきか、垣見をかけひと訓する故、文字転したるなるへし、家康公の御家人にも垣見(カケ
      ヒ)助兵衛なと云士有

 

                                           (了) 

      


   

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夏日つづき、いささか疲れ気味です・・・・

2013-05-26 15:57:00 | 徒然

 熊本は五月の内今日で10日目の夏日となりました。今月はあと5日ありますから、ひょっとすると月の半分が夏日と云う事に成るのかもしれません。
毎年五月の夏日は2-3日ですから異常としか言いようがなく、五月上旬からの急激な気温の上昇に体力がついていけず、71爺はいささかばて気味の毎日です。
昨日・今日とさいわい涼しい風が吹き抜けていますから、まだ冷房を入れるまでには成りませんが、短パン・Tシャツという出立です。
ここ四五日は十時ころにはベッドに入り、約九時間ほどの睡眠をとっていますが、からだのだるさがとれず、毎日椅子にもたれかかってウトウトする有様です。

pm2,5とやらのせいで、空はどんよりしていますし、雨も4月13日以来降っておらず空気は乾燥しきっていて、そろそろ雨が待たれる所です。
しかしあと二週間か20日もすれば又うっとうしい梅雨に入るのですけれども・・・・・・

なんだか今年は夏バテしそうな感じがします。つくづく齢を重ねたことを実感させられます。ブログの方も「石垣原の戦い」が最終に至りましたので、これからは少々ペースダウンしようと思っています。

皆様もどうぞ体調を崩さないようにご注意ください。
 

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上天草市史・大矢野町編2 「大矢野氏の活躍」

2013-05-26 10:50:12 | 熊本史談会

上天草市史大矢野町編2 中世

御紹介が遅れもう一週間もたってしまったが、熊本史談会5月例会に於いて購入した。
「蒙古襲来から戦国期にかけて活躍した大矢野氏の足跡をたどる」佳書である。

お問い合わせ   上天草市役所 教育部(教育委員会) 社会教育課 生涯学習係 TEL:0969-28-3361
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幕末の玉名で西洋銃製造 詳細な古文書見つかる

2013-05-26 08:14:51 | 新聞

昨年10月24日、平田稔様から御著「幕末熊本の軍制と鉄砲」をご恵贈いただいた。

                                        

南関・玉名地方での熊本藩の鉄炮製造について、並々ならぬ熱意を以て研究にあたられていた。その一部はこの著の中にも紹介されているが、玉名亀甲の名刀・胴田貫の技術集団が銃の製造にあたっていたことに確信を持っておられたようだが、その確たる証拠が得られないでいた。今般その事を裏付ける資料が発見された事が新聞に報じられた。

今日の熊本日々新聞のWEB版の記事である。http://kumanichi.com/news/local/main/20130526001.shtml

私事で恐縮であるが、私の姉が亀甲の小山家に嫁いでいる。西洋銃製造の総責任者として小山寿太郎の名前が見受けられるが、その家系を詳らかに承知していない。今は亡い姉夫婦の話では、広い屋敷内にある畑を耕していると、鉄滓が地中から見つかるという話をしていた。
今般の古文書の発見で、平田様の更なる研究に拍車がかかると思われるが、小山家についてもいささかの情報が得られるものと期待している。


きのうのブログで、三宅家七代当主の鉄炮の破裂による事故死について記した。この事故は天明元年の事である。鉄炮製造が未だ完成されたものでないことを伺わせている。今般のこの洋式銃の製造は、古文書から安政年間であることが判る。約80年程経過しているとはいえ、技術の進歩と技術者たちのあくなきチャレンジに驚かされる。平田様のレポートが待たれる。 

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石垣原の戦い・16

2013-05-26 07:15:50 | 熊本史談会

 立石表於鑓下
   討捕首注文
首二  松井     やり下蒙手疵
首一  有吉     やり下
首一  魚住右衛門兵衛   同
     丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節之御加増千七百石都合弐千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄炮五十挺御預被成候、其後病死、
     其子与右衛門別禄三百石被下加賀果候以後弐百石御加増、於豊前病死、其子武右衛門当御国にて忠利君より新知百五十石被下候、今の
     辰之允祖也、加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候、其子源右衛門与八郎様御供ニて御国へ罷越候処、光尚
     君より御知行三百石被下、今の源次兵衛祖なり、右与右衛門二男市郎右衛門有馬御陳にも罷越候、御帰陳の上御中小姓与ニ被召加、貞享
     二年新知二百石被下、今の市大夫祖なり
首一  桑原才蔵  同
     初才助、後加賀、又改主殿、丹後にて百石豊前ニて千五百石、一ニ加賀子とあり
首一  可児清左衛門  同
     丹後ニて百石、豊前にて弐百石、今の清左衛門祖なり
   松井者
首一   松井加兵衛   同
   
首一  坂本三郎右衛門  同
   
首一  田中清三   同      盛重後号松井角兵衛
   
首一  中川五兵衛  同     中川伊与 子有重
   
首一  平位助大夫  同
   
首一  近藤弥十郎  同     正元、後加兵衛、又八兵衛
   松井者
首一  上原長三郎  同     後号九郎右衛門、於原城討死、貞久
   
首一  吉六
   
首一  孫七
   有吉内
首一  岸助之允   鑓下    一ニ後号谷村左兵衛と有ハ誤也、谷村左兵衛ハ始長次郎と云、中比助兵衛と云岸助之允とハ別人也
   
首一  八坂又助   鎗下    後号角兵衛
   
首一  葛西彦四郎  同
     翌年惣兵衛と改、其後惣右衛門と改、岐阜・関ヶ原に出たる九兵衛弟なり、九兵衛ハ翌年九左衛門と改

   以上拾九
 

  義統之衆討死分

吉弘加兵衛     宗像掃部     木辺左近     竹田津志摩     豊饒弾正     清田味左衛門(イ唯右衛門)
豊饒新助       上野六部     原田舎人     深津七右衛門     下部治部     今村喜助
今村弾助       冨来兵内     吉良伝右衛門     原田勘右衛門     田尾(尻)吉蔵     伴覚右衛門
小田原又左衛門     市川次郎作     永富九郎     原田勝六     橋本加右衛門     原田休伝
深津かに(蟹)助     野上平助     柴田次右衛門     平林津助(運ノ天助也)     秋岡式部     久光道有
山下豊前      大津か主馬        胡摩津か(駒塚)与七     久我流治     しょうこノ(城後)覚内     中村左京
中村三郎      長松(橋)新左(右)衛門     小木(堀)兵庫     坂井五右衛門     石懸(辺)半助  胡摩津か(駒塚)左近     
覚蔵坊        甲斐新八     石懸(辺)六助     かすや(糟屋)内助     臼杵九兵衛     市川喜助
臼杵忠右衛門      川(河)野兵助     川(河)野伝兵衛     曽我衆右衛門(藤蔵)   坂井宗(半)助     上田七内
    都合五十四人かしらぶん、右之外かしらふんのもの手負八十人計御座候由候

       考ニ、此目録之内平林津助ハ十日夜明て今井惣兵衛木付城下にて射殺と前にあり、名有士ゆへ態と書入るか
       九州記に、細川手に士の首十九、雑兵の首六十余討取と有 

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石垣原の戦い・15

2013-05-25 11:08:31 | 史料

今度立石表にて敵方に柏の紋の旗まじはり立けるゆへ、中川修理大夫可成も大伴に助勢あるやと疑ひたるも有之、是ハ田原紹忍・宗像掃部両人は中川の旗下なる故、兼而預り置たる旗を持出候となり、此事に付松井・有吉、中川可成に書通あり、両人江可成よりの書簡
   昨日御報具ニ令拝見候、扨々度々御手柄之儀不珍候へとも、無比類仕立無是非次第ニ候
一、拙者事、此節何とそと存候儀、度々如申候数多大坂ニ于今在ニ付、一日々々と打越、無念至極生々無之為体、筆ニも紙ニも難尽事候
一、田原紹忍・宗像掃部事、御不審尤ニ候、右両人事、最前より方々才覚共在之由ニ候間、拙者かたより人質出候様ニと申懸候へとも、色色理屈ニて今
    日之明日のと申候而相延候、折節吉(義)統不日其地江相被下之由候間、さしつめ人質之事申候て置候、然処当国之者はだヘハ上下共見きりかた
  きと存、同は妻子共ニ引越候ヘハ、此間不残差越候間、心安存候つる、然は其後両人より申越候ハ、吉統下国之事候久敷なしミニて候間、一夜帰ニ
  見廻度候、殊更如水へ申談子細候間、吉統江参候而左様之儀共をも入魂申度由ニ候間、先此方へ被越候ハゝ談合可申と申遣候得ハ、返事ニも不及
  一夜帰ニ参罷帰候と申置、浜沖へ被参候様子、口上申含候間、可申達候

一、掃部・吉弘を始、歴々被打果候由、手間入申間敷候、殊更上辺大津各 内府様江一味被申由候、如是候ヘハ、急度可為平均候、御手柄中々御羨計
  ニ候、猶以面可申入候、恐惶謹言

                                中修理
     九月十六日                       可成
          松佐様
          有四郎右様
                人々御中
    考ニ、関ヶ原軍記大成に、中川修理大夫秀成(ママ)始め石田方にて黒田・加藤より内談ニも同心なく、大伴に加勢として紹忍・掃部鉄炮の者相添被
    差越候、義統降参の上紹忍は馳帰候、しかる処関原の様子池田輝政より知せ来降参を勧められ候間、力なく其旨にまかせ、九月廿八日太田飛騨
    守か臼杵の城を攻らると云々、可成・秀成不同、其上松井・有吉へ之書状と前後相違なり、考見るへきなり

如水ハ大伴を中津に送り、其威強大に有之候間、府内城主早川主馬留守居も人質を出し相従ひ、玖珠の郡主毛利民部大輔持の両城も渡し、留守居人質を出して相済、十七日ニハ立石表引払ひ木付迄被打入との処に、清正よりの加勢坂川忠兵衛 一ニ坂井日下部与助着仕候間、如水よりくわしく被申
述、清正の参陳をも被留候、松井・有吉も熊本の加勢に対面し礼謝して返し候也、如此熊本より遠路早々加勢到着の事は、去ル十一日朝松井・有吉よ
り敵木付へ夜込の次第等注進せし使者を、清正呼出し直に委細を聞届宇土出陳を先さし置、木付へ後詰の為坂川・日下部組の鉄炮各五十挺、都合百
五拾人艮刻熊本を打立せ、自身も無程出陳有へきとの事を承て、木付の使者ハ走帰り候なり、十五日清正熊本を立て、十六日小国迄着せらる処に、立
石合戦の次第注進有けれハ其時の返書
   従如水之為便宜御状拝見申候
一、十三日吉(義)統陳所江如水被取懸候処ニ、其先勢より以前ニ被及一戦之由、如水より被仰越候、御粉骨可申様無之候、御注進承かけニ昨日熊本
  を罷立、今日小国迄着陳候、先勢之者是より弐三里さきに陳取之由ニ候、存之外路次悪候て、込合申候条、明日は其許へ参着候事ハ不可成、明後
  日は未明ニ其へ着陳可申候、如水可被仰談候間、無心元事も無之候へとも、必御人数なと毀候やうニ被仰付間敷候、はや参候間万事可申談候
一、吉統事ハ不及是非候、紹忍・掃部首を我々ものに討取せ申度候、さりとてハ此中之表裏重々之誓紙在之事不及是非候、御手前機遣ニ存聞かけニ
  出陳候所、右之仕合先以令安堵候
一、如水衆手柄を被仕候由候、何も御粉骨無申計候、恐々謹言
                                   加主計
      九月十六日                         清正判
           松井佐渡殿
           有吉四郎右衛門殿
                      御返報 
同日如水立石表引払ひ木付に来られ候、松井・有吉等も一同ニ帰城、如水を饗応し軍議をなして、翌十八日熊谷内蔵允直陳か安岐の城を攻られ候間、両人も攻口を受取、南の方に向ひ陳頭に有て竹把を付寄候に、噯(アツカイ)に成て廿二日 一ニ廿一日 城を開渡す
    一書ニ、十六日立石表引払ひ、木付へ帰り、十七日より如水と共に安岐の城を攻、十九日に敵城を開渡と云々

右在陳の内如水関東へ使者を献せらる、松井・有吉よりも忠興君へ注進之状
   如水より人を御上候上、致言上候、先度も雖申上候、通路不自由ニ候条、重而申上候
一、速水郡之儀、可相渡之旨、輝元・備前中納言殿・奉行衆・石治・大形少より太田美作を指下、松井かたへ書状共被越候、不及返答なけ返、重而使被
  越候ハゝ首を可切由申遣候、其通美作方より大坂へ申登候ニ付、失手大友被遣当月八日晩、熊谷城懸樋城之間へ船をつけ、其夜木付之沖を通、高
  崎表ニ舟懸仕、九日之朝立石にあかり陳取申候、
一、当郡庄屋共人質丈夫ニ相示、とかわに小屋をかけさせ置候処ニ、面々持口へ吉統者引入町を焼申候、松井は中川下野・井口六兵衛・下津半左衛門
  ・坂本三郎右衛門・杉崎作左衛門取合せ、煙下ニて鑓を入、左右之者共討取、町之高ミに追上、四郎右衛門大筒を放し、其外魚住組各鉄炮ニて打立
  申候条、手負共之首を我と取候て敗軍仕、其日立石迄引入申候
一、如水懸樋城を取巻て御座候処ニ、右之注進ニて彼表被引払、同十三日立石表江御働先手久野次右衛門・曽我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平
  大夫此四組千余一備、二たんめ井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤又兵衛息此三頭千余木付之者先を仕、立石より三十町イ三町計北鶴見之内実
  相寺山へ打あけ候処ニ、敵少鉄炮之者を出し候ヘハ、先そなへ四人之衆かふかれ九郎右衛門組一里も跡ニ候て人数不続候処ニ、馬を乗出しのほり
  迄引おろし被遂一戦候、此方より無了簡打おろし申内ニ、はやかゝり申候条、馬よりおりあひかゝりに鑓を入、数刻相戦、千本ニて切あひつきあひ討取
  申候、首注文御披見として進上候事
一、右かふぃきゝ衆遂ニ馬よりおりす候て、此方鑓ニつき勝候てから馬を入申候処ニ立石きわニて取て返し、久次右衛門・曽我部五右衛門討死、四人之
  大将之内二人相果候条、惣敗軍ニ成、もとの実相寺山を過候てにけ申候、両人馬よりおり討死ニ相極踏こたへ申志之者共あつまり、敵追しらミこたへ
  あひ申候処ニ、二番備へ井上九郎右衛門・野村市右衛門被参鑓を入、数刻相たゝかいつき勝、又立石迄追籠申候、二ノめ之衆無比類働ニて御座候
  両度之合戦ニ宗像掃部・吉弘加兵へ(衛)其外歴々八十余討取、鑓をも指出程之者は相果申候条、可被責殺ニ相極候処ニ、義統・母里太兵衛陳所
  へ走入へく候条、諸卒たすけられ候様ニと懇望ニ付、小者一人ニ而中津へ送被遣候事
一、府内之儀内右衛門息、人質ニ出し相済人数も被立申候事
一、毛民太持分ハ人数を被遣、玖珠郡両城も是ハはや請取申候、民太居城も留守衆質出由候事
一、竹伊豆母弟女房衆息右衛門次郎ぬすミ出しする/\と下着、父子共に如水と被相働候事
一、去十七日木付迄陳かへ候て、昨日十八日熊谷城被取巻候、城中より懇望申候、頓而相済可申候、各在陳仕攻口も分限程請取申候事
一、主計殿より義統下着之さた在之ニ付、先加勢として鉄炮五十丁上下百五十之着到ニ而被差越候、義統中津へ被遣候日、被着候間返し申候事
一、熊本へ大友下着之注進十四日ニ参着、十五日被打立玖珠郡迄御着陳候処ニ、立石落去之注進在之ニ付、御帰陳候事
一、如水御事ハ不及申、主計殿御情入候段、中々難申尽候、便宜次第御礼状様々被遊候て可被進候、御両所御心付ならてハ不被申尽候事
一、田辺御堅固之由目出度奉存候事
一、濃州表御手柄共之由珍重ニ存候、御吉左右追々奉待候、此旨宜預御披露候、恐々謹言
                                           有吉四郎右衛門
      九月十九日                                     立行
                                           松井佐渡主
                                                   康之
           米田助右衛門殿
           加々山少右衛門殿
    私ニ曰、本書にハ右ヶ条之内ニ墨引たるも有之由ニ候へとも略之、濃州表御手柄と有之ハ岐阜の事なるへし、是もあら/\に知候歟
    米田助右衛門と当所有之 

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七代・三宅藤右衛門の死

2013-05-25 06:31:27 | memo

明智一族三宅藤兵衛の男子三人が細川家に召しだされた折の記録と思われるものが、(綿考輯録・巻60-P242)に次の様にある。

              (寛永拾九年)十二月九日三宅藤右衛門・新兵衛・左京ニ御合力米被下候留書
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石    三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           
考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし

その嫡家・藤右衛門家の七代目藤右衛門亀傳の死についての記録を見出した。元々の出典は寺本見聞雑記らしいが、宮村典太の書写記録「吹奇与勢」以下にさらに書写、記録されている。名乗りを藤兵衛と書かれているが、由緒ある名乗りでありそうであったのかもしれない。
天明元年霜月(十一月)六日、藤兵衛は御許しを得て宇土支藩の御鷹場(宇土・益城之境辺南田尻村)で鉄炮を打ったところ、これが破裂(吹破り)「面躰半分吹切ウテ(腕)打居即死と云々」という事故にあっている。狩場には「弟の弓削氏并嫡子十三四同道之由」とあり、「早速駕にて宿に帰りし由」ともあって、藩庁には翌日届出がなされている。嫡子の年齢からすると、御目見は済まされていたのかと心配されるが、無事に家督している。
亀傳の死は公式には病死とされている。嫡子・英蔵が御留守居番頭に就くのは寛政九年閏七月であり、父親の不幸なる事故死から16年を経ている。

 

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