津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綱利公闊達なるお振舞いの訳

2007-05-28 11:28:03 | 歴史
 明治42年発行、宇野東風著「細川霊感公(重賢公)」に面白い記述を発見した。いささか長文になるが労を惜しまずに記してみると
 「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」

 綱利には側室に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限りと闊達に振舞われたと、いう訳である。宣紀が養子(36歳)となるのは、確かに綱利晩年(65歳)の事である。細川家の財政は悪化の一途をたどり、宣紀の子重賢(霊感公)による宝暦の改革を待つ事になる。

 「当時養子の法なく・・・」を勉強しなければならなくなった。
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蟹文字

2007-05-26 17:29:57 | 徒然
 横に止まった車のボディに、カタカナで何か書いてあるがよく分からない。別に目が霞んで見えないという類の話ではなく、意味が通じないのだ。よくよく見ると、なんと右から左に向かって書かれてあった。それはないだろうと思いながら「変な蟹文字ですなー」と呟くと、運転席の紳士は「何ですかそれは」とのたまう。作家出久根達郎氏のエッセイの中にあった言葉で、「言い得て妙」と感心したのだが、要するに横書きのことである、「蟹の横ばい」から来ている。但し氏の造語ではない。そんな説明をすると、運転席の紳士は「なるほど」と深くうなずいてご納得の態。
 後日ある資料の訓下文をFAXしていただいたのだが、ワープロの横書き文であった。末尾には手書きで「かっての文明の利器ワープロがそろそろ寿命のようです。パソコンの勉強に励んでいます」とあり「パソコンで縦書きは簡単に出来ますか。やっぱり日本語は蟹文字はいけません」とあった。
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綱利の生母清高院

2007-05-25 13:36:31 | 歴史
 ある人から、「綿考輯録にみる綱利誕生の経緯」とか、綱利や生母清高院についてのあんたのブログ内の発言は、いささか険があると指摘された。そうかなーと思いつつ、又こんなことを書くと「やっぱりそうだ」と再度ご指摘を受けるような気がする。

 承応二年生母清高院は「美麗を好み、不時の遊楽日夜物入多かれば・・・」、松井興長は沢村右衛門と相談して「十三か条之諫言」を認めている。清高院の返書はふてくされ気味で、「六殿(綱利)の御為とあるから、意見をうけ給らぬわけにはいけないだろうから、万事合点する」とし「大方のことはもともとの1/10程にもうしつける。台所向きもそうする。この上はぜひもないことだ」と返事している。今後とも悪しきことがあれば申し付けられたいとある。十八行ほどの短い文章だが、「この上はぜひもない」の一行に、清高院の無念さが窺がわれる。

 後年、興長は綱利に対して痛烈な批判を含め諫言している。
「八代の城地や自分の知行を差しあげ、永々のお暇を頂戴する」と言い切っているのである。しかし綱利の道楽は止まらない。

 
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風邪気味五日目

2007-05-23 22:27:21 | 徒然
 今日は七時起きの約10時間の完全睡眠、(途中咽喉が渇いて二度ほど起きたが・・)、朝のシャワーですっきりすると今日はなんだか頑張れそう・・。昼食後所用で出かける妻を車で送り、Uタ-ンして県立図書館へ直行。ある方にお約束のコピーを取ることがメインだが、掘り出し物はないかと3時間ほどを図書館で過ごした。40枚ほどのコピーを撮って帰宅すると、なんと一枚欠落している・・・あゝ思考力も欠落している。

 
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肥後男子とて夏風邪に往生す

2007-05-22 11:42:09 | 徒然
 「夏風邪は長引く」といわれるが、息子が約1週間、もらい風邪の私も4日目一向完治とまいらぬ。男二人くしゃみや、咳を連発、「うつさないでよ」と大声を出していた妻もついに罹患、家族三人往生と相成った。熱発には強い私だが、眼球を握りつぶすような痛みと、間断ない頭痛にいささか音をあげている。「風邪には睡眠」と連日早めの就寝に相努めているが、咳の為に熟睡できず睡眠不足気味。薬の副作用もあって睡魔が襲ってきている。台所から妻のつらそうな咳が聞える。
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本日は諸般の事情により休業

2007-05-20 14:48:00 | 徒然
 咋19日は熊本史談会の会合に出かけ、「古文書を読む」勉強会で楽しいひと時を過ごした。朝方から少し熱発気味であったが、会の途中頃には最高を極めてふらふら状態となった。息子からのもらい風邪だ。ハンドルにしがみつくように帰宅、夕食をとる気色もなく早々に就寝、10時間ほど睡眠して朝からシャワー、どうやら元気になったが、咽喉は痛いしまだ足元がおぼつかない感じ。図書館に出かけていろいろコピーを予定していたのだが、妻も出かけたことだし、まあ今日は用心の為にお休みとすることにした。
 
 何時もお世話になっている「上妻文庫」や、宮村典太の「盤桓随筆」「吹寄与勢」「雑撰録」などの目録を見ながら、次のコピーの準備をしている。今非常に興味があるのは、城下町のあちこちに書かれたという落書の写である。
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有禄士族基本帳・現況

2007-05-18 21:40:58 | 歴史
 熊本県立図書館が公開している有禄士族基本帳は全三冊、その三冊目の1/3程までタイピングを完了、進捗状況約8割弱まで到達した。残りは又コピーを撮らなければ成らないが、どうやら目途がついた。
あと一息・・・「ご苦労なこったい」
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平尾道雄先生

2007-05-18 20:57:42 | 書籍・読書
 団塊世代の人たちの愛読書の一つが、司馬遼太郎の「龍馬が行く」だそうだが、若干年嵩の私も昭和51年頃全七巻を一気に読破した。いささか草臥れているが、まだ我が本棚に鎮座している。昭和54年の5月17日私は平尾道雄氏の「坂本龍馬・海援隊始末記」という文庫本を購入している。全く偶然のことだが、翌日の新聞で平尾氏が亡くなったことを知った。その文庫本には購入日と共に「翌朝の新聞にて5月17日著者平尾道雄氏死去さるを知る・奇しきこと」と書き込んでいる。そんなこともあって、この著作は思いで深いものがあるし、司馬遼太郎の作品以上の面白さを発見した。

 今日の熊本日々新聞の「言葉のゆりかご」はその平尾道雄氏の事を紹介しているが、なんと氏は熊本の本渡市(現・天草市)のお生まれと有る。知らなかった・・・。改めて先の著作を見てみるが「明治30年高知生まれ」と紹介して有る。本をぱらぱらめくっていたら、なんと氏の死亡記事が出てきた。ベレー帽をかぶられた柔和なお顔の写真があった。ここには間違いなく「本渡市生まれ」とある。・・・何と言うことだ・・・

 司馬遼太郎の「龍馬」は平尾氏の研究によるところが多いし、下母沢寛は「穴があらば入りたい気持ちになった。広く正しい平尾君の研究の前に私の著書(新撰組始末記)は、ただ恥を曝しているやうなものだ」(海援隊始末記解説・松浦玲氏)と云ったと云う。氏の「新撰組史」に対してである。なんと両作品とも1928・9年(昭和4年)が初版だという。
歴史を知る楽しみを教えていただいた平尾先生に感謝・・・合掌
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小須賀覚書

2007-05-17 23:34:57 | 歴史
 迦羅奢夫人の最後を伝えるいわゆる「霜女覚書」と、今ひとつメジャーではない「小須賀覚書」では随分趣を異にしている。最大の違いは介錯に当たったのが、前者は小笠原少齊、後者はなんと河喜多(川北)石見である。忠隆夫人も前者は無断で逃げ退いたとあるが、後者は迦羅奢によって逃げさせられている。其の他にも色々違いが見受けられて、本当は如何と地下の迦羅奢夫人に呼びかけている。

 実は小須賀覚書を皆様にご紹介し様と思い、漸くタイピングを終えた。ご覧になって皆様は如何に思われるだろうか・・・近々UPしようと思っている。
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苦労の始まり

2007-05-16 13:13:10 | 歴史
 三斎公御機嫌能時之御咄として、「幽齊は我より骨折れたれ共小身也、越中は骨折れたる事なけれとも我より大名なり」という話が伝えられている。「綿考輯録」によると肥後入国前の頃の様に思われる。肥後入国後、天草島原の乱が勃発し、越中(忠利)も大いに骨を折ることになるのだが、予想だにしなかったことであろう。愛してやまなかった孫娘(烏丸中納言光賢娘)彌々を、忠利の嫡子光尚に娶わせた頃が、忠興の幸福の絶頂期であった。忠利-忠興-光尚と亡くなり、幼くして襲封した綱利は重石がすっかりとれて自由奔放に振舞って、生母清高院とともに度々重臣松井興長から諫言されている。その内容は大変辛らつである。そんな興長も亡くなり、細川家の大きな借財生活が始まっていく。
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№412

2007-05-14 13:32:07 | 徒然
 どうもPCの動作が重くて仕方がない。サイト内の不要なものを削除しようと思い立ち、古いブログを第一候補としてみた。ばっさりやる訳にもいかんなー、と思って第1号から読み返した。2004・7月から始め411回書き込みをしている。歴史に関するものと、徒然のぼやきの二本立てである。自分で書き込んでおきながら、「へー」と思わせるものがあるし、サイトの「四方山話」の方へ移動させなければと思うものもある。こんなブログにお訪ねいただいた皆様に感謝しながら、さてどうしたものかと思案中の、相変わらず優柔不断な私である。
そんなブログは412回目の書き込みと相成った。
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再開、有禄士族基本帳

2007-05-11 19:33:29 | 徒然
 PCのフリーズで沢山の資料を失ってしまった。その中には、まだUPしていなかった有禄士族基本帳が含まれており、愕然としてしまって、すっかりやる気を失っていたのだが、そうそう放り出しておくわけにもいかず再開することにした。やりだすと苦になるものでもなく、タイピングの調子も上々である。明日いっぱいには、手持ちの資料を終わらせてUPに漕ぎ着けたいと思う。それでようやく全体の2/3ということになる。又図書館に出かけて、数百枚のコピーに挑戦しなければならない。今月中には終わらせたいなー。
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加藤清正家臣貴田孫兵衛顕彰展

2007-05-09 21:34:12 | 歴史
 タイトルの「展覧会」が催されることを新聞で知り、会場が開くのを待ちかねて飛び込んだ。孫兵衛のご子孫の方々が、十年にわたって追跡された足跡である。会場にお出でになった貴田久子様のお話からは、そのご苦労の跡が偲ばれた。

 貴田孫兵衛は加藤清正十将として高名である。その事は誰でも承知していることだが、ご子孫の十年にわたる無からの「孫兵衛様」追跡の旅は、驚くべき結果を導き出して居られた。
    1、孫兵衛の初名が毛谷村六助であること
    1、大分県中津市山国町槻木(英彦山麓)に貴田神社が存在すること
    1、佐賀県唐津市鎮西町            同上
    1、地元の方々に愛され、いまだ手厚く顕彰され続けていること
    1、毛谷村六助を主人公とする歌舞伎演目「彦山権現誓助剣」がある
         こと
    1、太閤秀吉の御前で37人抜きの相撲の試合をしたこと
        其の故をもって加藤清正に仕えたこと

 まだまだあって書ききれないが、驚き入ってしまったし、そのご努力に敬意を表したい。そして、わが「新肥後細川藩侍帳」に追記をしなければ成らないと考えている。

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小須賀なる人

2007-05-08 23:05:48 | 歴史
 迦羅奢夫人の最後に就いては、「霜女覚書」がつとに有名であるが、「小須賀覚書」と云うものが存在している。霜女覚書と比べるといささかの差異が認められる。この「いささかの差異」が興味深い。綿孝輯録等で「霜女覚書」が紹介されて、こちらの説が優位を得ているようだが、真実は闇の中ということか。はたしてこの小須賀なる人はどのような人なのか・・・ご存知の方はご示教いただきたい。
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薄田泣菫

2007-05-06 08:10:25 | 書籍・読書
 私のプロフィール欄の「好きな著作者」項に、ぜひ加えねばならないのが、小説家佐藤愛子氏と文芸評論家秋山駿氏である。佐藤愛子氏のエッセー(2001・第1刷)「不敵雑記」を読んで、相変わらずの舌鋒に思わず頬が緩んでしまった。このような文章に接すると、自分も何とか日頃の身の回りのことなどを書いてみたいと思うのだが、文才のなさとボキャブラリーの欠如は如何ともしがたい。

 秋山氏のエッセー集(?)「片耳の話」を読んでいたら、何でもないことを書く名人として「薄田泣菫(すすきだきゅうきん)」を紹介している。「艸木虫魚」の中から小文を引用して解説がある。わが意を得たりである。これはもう買うしかないと考えた。

 薄田泣菫・・?  アッと思った。
わがサイトのリンク集の中で、「肥後」に関する小説をいくつか紹介しているが、その中に松井佐渡に関連した「小壷狩」というものがある。これが薄田泣菫のものだった。なんと奇遇なことか・・・。これは電子図書館「青空文庫」から見出して紹介したものだ。もしやと思い「青空文庫」を訪ねると何ということか・・・沢山の作品が紹介されている。もちろん「艸木虫魚」もある。感激でうるうるしてしまった。

 「何でもないことを書く」「句読点は妖精のようなもの」秋山氏の示唆に大きく合点している自分がある。有意義なGWの読書であった。
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