津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■京都愛宕山に関する二件の論考

2018-09-22 12:58:41 | 論考

 先に ■愛宕山下坊福寿院と細川家 をご紹介したが二件の論考があることをご紹介していなかった。
ともに2016年に発表されたものだ。抜刷の史料が欲しいと思っていたが、WEBでPDFで紹介されていた。
後だしながらご紹介する。

   1、戦国期における愛宕山五坊・山伏の諸国勧進          工藤克洋氏
          同朋大学文化研究所紀要・第35号掲載
   1、愛宕山信仰と勝軍地蔵ー中世のある軍神信仰についての覚書ー  野崎 準氏
          東北学院大学東北文化研究所紀要・第48号掲載

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■熊本大学・永青文庫センター「永青文庫研究創刊号」

2018-04-12 15:24:14 | 論考

                            熊本大学・永青文庫研究センターにお申し込み下さい。

                                                         参考:http://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20180402

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■資料紹介「岡山藩池田家文庫ー天保五年廻状留」

2018-03-03 20:12:45 | 論考

この資料は岡山藩池田家の大坂留守居が作成したものだが、大坂に蔵屋敷を構える諸藩の役人(留守居組合・18藩)の交流を記した貴重な史料である。
熊本藩においても、人事によると思われる役人の移動などが記されており、藩庁の記録とは別に大変珍しいものである。

                 「岡山藩池田家文庫ー天保五年廻状留」

         (9)梅原善之助            自らが上京するにあたって、福田治左衛門を代役とする挨拶
        (17) 同上              藩内損耗203,679石の報告
        (24) 同上              御鷹の雁拝領について
        (43) 同上              木挽町屋敷類焼の報告
        (46) 同上 外連名          三宅惣兵衛への連名の挨拶
        (76) 同上              藩主に伴い国許へ帰国するにあたり、関素兵衛・福田次郎衛門を跡役にする挨拶
        (99)関素兵衛・福田次郎衛門      実方(宇土)出生の男子・雅之進を嫡子とし白金下屋敷に入ったことの披露
        (125) 同上              福田次左衛門→西村半助交代挨拶
        (137)西村半助・関素兵衛        御鷹の雲雀拝領について
        (160) 同上              西村半助→鎌田甚吉交代挨拶
        (164)鎌田甚吉・関素兵衛        江戸城二ノ丸御修復御普請の御用を受け賜ったことの報告
        (196) 同上              御鷹の雁拝領について

 この様に各藩の大坂留守居が、お互いに情報を交換しあっていることが良くわかる。各藩の損耗高などあからさまに報告されている。
 「たね・まつ」という女性の連名の書状も見え、これは留守居の寄合(懇親会)の世話役ではないかと考えられる。
 大変興味深い。

      

 

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■細川藩関係論考「幕末の熊本藩儒辛島蘭軒について」

2017-11-12 07:54:08 | 論考

   幕末の熊本藩儒辛島蘭軒について

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■NHKアナ武田氏、茶道肥後古流家元武田氏の御先祖様

2017-10-08 09:44:55 | 論考

       市井の郷土史家の手記(一)~本田秀行筆記~ 圭室文雄

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■ガラシャ夫人の御命日に寄せて

2017-07-20 07:08:15 | 論考

 ガラシャ夫人のご命日に寄せてご厚誼をいただいているAN様から一文をお寄せいただいた。ご了解をいただき全文をご紹介する。
ガラシャの父・明智光秀は信長に対する謀反に対し有名な「時は今 雨が下知る五月かな」という歌に心の内を託した。
「時=土岐」だとする考え方は大方が認めているところである。一方ガラシャ夫人は辞世の句に、「散りぬべき時・・」と歌ったが、この「時」も「土岐」だとする識者がある。大いにうなずける事ではある。
AN様はキリスト教の立場から「時」というキーワードに対して、まさに切支丹の信者として死を迎えられたガラシャ夫人の思いを解説された。宗教に対しては全く知識を持ち合わせぬが、高邁な御説として承った。
夫人の死は細川家の家法に沿った避けがたいものであったが、夫人ご自身の思いはそれを乗り越えた深い信心の心が支えたものであり、万人の心に響くのであろう。

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今年2月、明智ガラシャ(1563~1600)最期の地・細川屋敷跡に建つ玉造教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)において「高山右近(1553~1615)列福感謝ミサ」が行われました。玉造教会の大聖堂の正面右側の壁画は「最後の日のガラシア夫人」(堂本印象・画)、大聖堂前には「細川ガラシア像」(阿部正義・作)、隣接地の「越中井」にはガラシャの辞世の歌が刻まれた「ガラシャ夫人顕彰碑」が建っています。

明智ガラシャの死は、400年を超える長きに亘って「夫・細川忠興(1563~1646)の命で、石田三成(1560~1600)の人質になるのを拒んで自害したもの」とされてきました。細川家のみならず徳川将軍家にあっても「明智氏の義死」(徳川吉宗)として称賛されたところです。

しかし、明智憲三郎著「本能寺の変は変だ!」にならえば、「ガラシャの『義死』って変だ!」ということにはなりませんか? 少なくとも私にとっては、これは長年の謎でした。
この春、この長年の謎が氷解した(と思えました。)ので、ご報告いたします。(尤も後述のように、本当は約10年前のことではあったようです。)
その始めは、明智一族とともに滅び去った幻の城=河内の「三箇(さんが)城」です。
三箇城は、「本能寺の変」で明智に与した数少ないキリシタン武将・サンチョ三箇頼照(15??~1595)、マンショ頼連(よりつら;生没年不詳)父子の居城で、本能寺の変の後、羽柴勢に焼き払われた「幻の城」です。明智一族とともに消えた城が、坂本城、安土城の他にもあったことを、私は初めて知りました。
城址とされる処に立つ三箇一族と思われる「四睡軒」という方の墓碑に刻まれた歌は、こう詠っています。

       城は灰 埋れて土となりぬとも 何を此代に思ひ残さん

 昨年夏に亡くなられた野崎キリスト教会(1)の神田宏大(ひろお)牧師によれば、この三箇のキリシタンたちは、オルガンティーノ神父からだけでなく、城主の三箇サンチョ、マンショ父子からもキリシタンの「ドチリナ(=教理問答)」を聞かされていたので、「自分たちの色身(肉体)が、土灰になって滅びても、キリシタンの魂は決して滅びることがなくパライソ(天国)において永遠の生命を与えられ、 ~イエス・キリストが ~ご威光をもってこの地上に再臨される時、 ~栄光の姿に蘇り、イエス・キリストに迎え入れられることを確信していた。」即ち、「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読み、彼らだけが知っている下の句である天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束に励まされていた。」というのです。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、キリスト教の祈りには、祈祷文を音読するほかに「黙想」という祈り方があります。プロテスタントでは特別の場合にしか黙想されないようなので、(プロテスタントの)神田牧師には馴染みがなかったのかも知れませんが、カトリックの場合は、ガラシャの時代も現代も、日々のロザリオの祈りにおいてごく日常的に黙想は行われます。

ですから当時の「キリシタンたちは、この碑文を上の句として読」み、それとは別に「下の句」を置かなくとも、その碑文を読むのと同時に、「~天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想することが出来ました。
実際、後の世(1622年)に三箇サンチョの孫・アントニオは、長崎での殉教に臨んで残した手紙に、こう書いています。
「~福音の使者としてこの牢屋に捕らわれていることについて、我が主に御礼申し上げます。
 敬愛の炎に焼き尽くすべき死を与えて下さった我が主の御為に、生きながら焼き殺される日も遠くないことを喜んでいます。たとえこの世ではイエズス会の修道士として受け入れられなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」

 この春、ふとしたことから、熊本の郷土史家・徳永紀良氏の10年ほど前の講演録を見付けました。そこには、こうあります。
「~のちに徳川八代将軍吉宗は『徳川家の今日あるは関ヶ原の一戦にあるが、その勝利は明智氏(玉子)の義死があずかって力があった』とたたえているが、玉子の死は徳川家繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。 人の世を捨ててハライソ(天国)へ帰っていったのである。
これこそが、ガラシャの死の真相なのでしょう。

私見ですが、明智ガラシャは、今年2月7日に大阪城ホールで列福式が行われた高山右近以上(?)の殉教者でした!! 
今では高山右近は「無血の殉教者」とされるのですから、石田勢のおかげで流血の最期を迎えたガラシャこそ本物の(?)殉教者と言えるのではないでしょうか?
これが何故「私見」かというと、カトリック教会はガラシャを「殉教者」と認定していないからです。ただそれにも拘らず、教会で営まれたガラシャの葬儀、一周忌(以後も年忌ごとに行われた)ミサにおいては、殉教者と同等の扱いがなされました。また、4年前に日本でも上演されたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、ガラシャの死後一世紀のウイーンで初演されたイエズス会音楽劇(4)は、ガラシャの死を「『丹後王国の女王グラツィア』の殉教」として描いています。
だからこそイエズズ会の「1601年の日本年報」にあるように、夫・忠興の強い要請で京の教会で行われたガラシャの一周忌ミサにおいて、「ヴィセンテ修道士(2)が聖ヨハネの言葉『主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(註3)を主題とし~来世における確かな救済~霊魂の不滅を重々しく説いた。 ~説教の最後に、ガラシャの徳と善き死について述べたところ越中殿(忠興)とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた。」のです。
一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた聖ヨハネの言葉には、「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」に続けて「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」とあります。
そう、ガラシャはその最期を迎えて、まさに「その行いが報われ…」「労苦を解かれて、安らぎを得る。」中で「人の世を捨ててハライソへ帰っていった」のです。

そもそもフロイス神父が「日本26聖人殉教記」に「ガラシャは神父達が殺されると聞いて、 ~喜びと勇気をもって神父達と死ぬために相応しい着物を用意しはじめた。」と書いたように、ガラシャは実際の「散りぬべき時」の3年も前から殉教を望み、殉教に備えていたようです。すなわちガラシャの「善き死」は、少なくともご本人にとっては、望んで迎えた殉教だったのではないでしょうか?
彼女もまた、後の福者殉教者・三箇アントニオと同じく「たとえこの世では修道士(ガラシャの場合は「修道女」に読み替えて下さい。)となれなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さることを知っています。」と固く信じつつ、その「善き死」を迎えたものだと思います。「主に結ばれて死ぬ人」として…
キリスト教の主要な祈りの一つで、(カトリックの)ロザリオの祈りでは何十回も唱えられるものに、「アヴェ・マリアの祈り」があります。「アヴェマリア、恵みに満ちた方~」と始まるのですが、ラテン語では「Ave Maria, gratia plena~」となります。「ガラシャ」の名は、この「gratia」をスペイン語にした「Gracia」の当時の日本語表記です。ガラシャは、その最期・「善き死」を、ご自分の名に相応しく「恵みに満ち」て迎えることが出来たのです。
ガラシャの最期を語る時、これまでは、ともすればガラシャがキリシタンとしてその最期に臨んだことが、どういう訳か随分と軽んじられてきたようです。

           散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

このガラシャの辞世の歌に詠まれた「時」についても、聖書に書かれたコヘレトの言葉(5)「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時~」の「死ぬ時」のことなのですが、(キリスト教関係でない方には、)何故かすっかり忘れられていませんか?
そしてまた、ガラシャの辞世の歌は、神田牧師の言われる「上の句」として詠んだものかも知れません。そう言えば、三箇城址の四睡軒墓碑の歌に通ずる趣も感じられますね。きっとガラシャは、三箇のキリシタンたちと同じように、「下の句」である「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を心から信じつつ召天したのでしょう。
さらに言えば、その辞世の歌は、実は「下の句」と別の「上の句」として詠まれたものではなく、辞世の歌と一体のものとして「天国の栄光と、迫害する者への正しい審判、さらにご再臨の時に栄光の体で蘇り主にお会いする聖書の約束」を黙想するものだったのでしょう。そしてそれは、ガラシャの一周忌ミサでヴィセンテ修道士が説いた「来世における確かな救済」と「霊魂の不滅」とも一体のものだったのではないでしょうか?

(1) 大阪府大東市野崎2丁目。 三箇城址(大東市三箇5丁目)の東方約2.5㎞にあるプロテスタント教会。

(2) ヴィセンテ洞院(1540~1609)。 若狭出身。 医師、文学者でもあり、ガラシャの愛読した「こんてむつす・むんぢ」の訳者としても知られる。

(3) ヨハネ黙示録 14:13  

「1601年の日本年報」の日本語訳では、「主において死する者に幸あれ」となっていますが、より分かり易い現行の「新共同訳聖書」から引用しました。

(4) バロックオペラ「強き女、またの名を丹後王国の女王グラツィア」 脚本:ヨハン・バプティスト・アドルフ、 作曲:ヨハン・ベルンハルト・シュタウト

(5) コヘレトの言葉 03:01、03:02

     以下は「註」と直接関係ありませんが、ご参考まで。 

    http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/23408/image.jpg

    http://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm

 

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■「細川家史料」にみる山家藩御家騒動記

2017-06-22 10:09:52 | 論考

この論考は寛永4年12月の末に亡くなった谷衛友の跡目に関わるものである。細川忠興・忠利親子は谷家の遺領相続に大きく関わっている。
衛友の遺言通りの跡目を主張したが、幕府の相入れるところではなかった。砂をかむような思いが残った。
細川家は衛友の息・谷大蔵允を家臣として迎え入れている。
これ等の顛末を「細川家史料」から解明されているが、一時期私も年表を作りながらも途中で頓挫してしまった。
それゆえにこのような論考に出会うと感慨一入である。
         「細川家史料」にみる山家藩御家騒動記

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■杏葉こだわり 美濃口紀子氏の研究ノート

2015-12-01 07:25:36 | 論考

 「杏葉」についていろいろ調べている内に、「熊本県あさぎり町才園古墳出土馬具の組み合わせと装着想定図について」という論考に行きついた。
「研究者ノート」としてWEBで公開されている。研究者は熊本博物館の美濃口紀子氏である。
                  http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/mugiamnews/No25-11kenkyu.pdf 

p56の(2)に杏葉が五つ紹介されているが、あまり欠損も見られない。正式な発掘調査によらず発見されたものの様で有るが、このような記録が残されていることは有難い事で有る。
しかしながら、引用された図書【宮代栄一1999「熊本県才園古墳出土遺物の研究―鍍金鏡と8セットの馬具が出土した小円墳―」『人類 史研究』第11号 人類史研究会】が熊本県立図書館・熊本市立図書館に収蔵されていない。こんなとき地方にいる悲しさを感じる。 

 

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■熊本・福岡県境の二つの「関」

2015-05-15 09:08:05 | 論考

 明日の史談会で「西遊雑記」を取り上げるにあたって下調べをしている。肥後領から筑前領へと向かう古松軒の記述に「南の関に至る 古しへは松風の関といひし所にて當国の名所也」と書いている。

ぐぐってみると「松風の関」は福岡県みやま市の北の関に比定されている。なぜ古松軒は南関と比定したのであろうか? 

 豊前街道の熊本最北部に「南関(なんかん)町」があり、福岡県側みやま市の最南端部に「北の関」がある。
現在のみやま市の大津山一帯は中世期は肥後領臼間荘であり大津山関があったらしい。
臼間荘大津山の北・南に北の関・南の関が設けられ、中世期の為政者によりこの地が筑後領に編入された。慶長六年藩主田中吉政の時代に現在のような境が確定し、北の関は柳川領、南の関は肥後領と確定したらしい。
肥後人は南関をして「松風の関」と考えたらしいことは、三卿家老・松井家に残る南関の図に於いてもそう表現されているという。
古松軒が旅をした天明二年当時においても、そういう考え方があったればこその彼の記録であろう。
定かな説も見受けられないが、次のような論考が見えるのでご紹介しておこう。

             大津山関の比定

 

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■論考・史料翻刻etcいろいろ

2015-02-16 08:46:50 | 論考

  ■ 城下町・熊本の街区要素の一考察

    ■ 近世古文書ハンドブック

  ■ 史料翻刻 木下韡村日記(四)

  ■ 吉田家文書「上京公私控」   (熊本市立熊本博物館・館報№26)

  ■ 荘村助右衛門の慶應三年「崎陽新聞」について   (熊本市立熊本博物館・館報№25)

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■気になる論考・・・三件

2014-11-25 07:33:12 | 論考

萩藩中期藩財政研究序説

「幕末期外様諸大名の上京とその役割--肥後熊本藩細川家を事例として--」

「熊本藩の高瀬、川尻、佐敷の御茶屋について--日奈久、野津原、山鹿の御茶屋と比較して--」

「熊本城櫨方門建物調査報告」


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■吉田如雪家に係る二つの論考

2014-10-13 14:35:53 | 論考

 現在熊本市立博物館では今日までの予定で「鳩太郎がゆく!肥後藩士 吉田鳩太郎が見た幕末維新」が行われていたのだが、最終日の今日は台風の影響で閉館となったようだ。
先に見学に行ったときこの吉田家の文書が多岐にわたり、内容の豊かさに驚いたことであった。
学芸員・木山貴満氏によると、今後館報などでこれらの文書の内容が種々発表が為される予定であることをお聞きした。首を長くして待ちたいと思う。
現在館報に二つの論考が発表されている。御紹介申し上げる。

                   ■吉田家文書・上京公私諸控        木山貴満氏
                   ■熊本博物館所蔵の吉田家文書      大浪和弥氏 

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■史談会を前に・・・一つの論考を読む

2014-09-10 19:55:17 | 論考

 1998年「日本歴史」に「虚実はあざなえる縄--殉死者たちの墓碑から」という論考が発表された。著者のHPでも紹介されその存在はよく承知している。
著者は九州大学の比較社会文化研究院教授で日本中世史がご専門の服部英雄教授である。
内容についても何度か読み、今般「阿部茶事談」を史談会で取り上げるについて再度読み込もうと思い検索してみると、殉死者たちの墓碑から--虚実はあざなえる縄」と天地が逆さまにはなっているが、PDF化された文章が公開されていた。大変読みやすく有難いことではある。

山本博文氏の著作にもよく引用されている。阿部一族の事件を考える上では、欠かせない優れた論考である。

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■肥後名所月の歌

2014-09-08 13:13:08 | 論考

 今日は仲秋の名月、熊本はよい御天気なのでよいお月様が見れる事だろう。
名月にちなんで、熊本大学学術リポジトリから「肥後名所月の歌」を御紹介する。身近な場所で眺めた月を歌ったもので大変興味深い。

                      http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/4915/1/059-009.pdf

残念ながら作者が判らないようだが、御覧になられた方でもし御存知の方が居られたら、ご教示いただきたい。

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 夕方6時半頃から群雲など一つもない見事な月が登りはじめました。何度もベランダへ出て名月鑑賞をしたところですが、乱視の私には100%奇麗なお月様ではないのでしょう。気が付けばデジカメ撮影を忘れてしまっていました。 22:23追記

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■公開資料から「熊本藩の高瀬、川尻、佐敷の御茶屋について」

2014-09-07 11:42:58 | 論考

 今となってはこの資料をどのようにして見つけ出したのか記憶が定かではない。
絵図を眺めるだけでも楽しいが、諸資料と照らし合わせながらだと一層この論考の存在を有り難く思う。

                     https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/680/77_2445/_pdf 

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