カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

偉いという話じゃないが、シロさんもケンジも偉い

2021-10-13 | ドラマ

 料理番組をよく見る件は以前にも書いた。さらに料理にまつわるドラマもよく見ているとも過去に書いた。その中でも、なんだかちょっと違う視点なのは、「きのう何食べた?」だったかもしれない。ゲイ・カップルの物語なので、基本的には純愛を描いているドラマだけれど、そこでの料理の使い方が非常に上手い。最初はシロさんと言われるイケメンで几帳面で主婦的な視点の持ち主が、料理を担当する役割の人だと思われたのだが、いわゆる所作が女性っぽくて、しかし髭面のケンジだってふつうに料理は作るのである。同棲している関係もあり、どちらかというと几帳面で家に比較的早く帰って来るシロさんの方が、確かに多くの場合料理は担当しているが、それは絶対的な役割というわけではない。
 この物語を見た方が話は早いが、そんな風に書くと、男だって料理だってするさ、って感じる人もいるだろう。ところがこれが上手く言えないのだが、この二人の描き方においては、何かそういう当たり前にどっちがすべき感というのが上手く抜けていて、合理的に普段はやってるけど、やっぱりふつうにどっちだったってスキルはあるんだよ、って感じかもしれない。
 もちろんケンジには、キャラクターとして自由に不経済に(たまにはいいじゃん、みたいな感じ)料理を作るわけだが、だから普段はシロさんが買い物も含めて、栄養のバランスやその他もろもろの総合的なものとして二人の生活の基盤の料理を作っているに過ぎなくて、結局食べたいものがあれば、どちらともなく料理は作れるのだ。一人飯でも作れるし、二人分でも大丈夫で、客が来ても、それに対応するだろう。それぞれにできて、しかしその選択は自由に順位づけられていて、そうして自然ということだ。やっぱり説明すると厄介だな。
 僕は食事を作らない方の性として生まれてきてしまったんだな、とこれを観て改めて感じることが多かった。先のことは分からないから絶対ではないけれど、おそらく僕はゲイの道は歩まないことだろうけど、だからなのかもわからないけど、自然に料理に向かうような姿勢が、そもそも身についていなかったんだな、という感じだろうか。期待をされるということも無かったし、自分で自発的にということも無かった。インスタントラーメンを作るというのとは全然違うレベルで、自分のためだったりお互いのためだったりする食事を作るという意識が、まったくなかったんだな、という感じである。でもそれって、そもそも損なわれている「何か」なのかもしれない。
 僕は家に帰ってもまず冷蔵庫の中身を見ることはないし、ましてや何の肉があるのかとか、野菜の種類がいくつあるのかなんて見当もつかない。おそらく氷はあるんじゃないか、という程度だし、お茶くらいは自分で取って飲むこともあるかもしれない。
 しかし家にいると、しかるべき時間になると食事を当たり前にしているわけだ。これって考えてみると、かごの中で飼われている鳥とか、水槽で泳いでいるメダカ程度のものかもしれない。彼らは軟監禁されているのだから、僕は自主的にそうなっているわけで、厳密には同じなんて失礼な話だが、まあ、生きているレベルとしては僕の方が下なんだろうな。
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