カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

これが才能のある人のものなのだろう   火花

2021-10-16 | 映画

火花/板尾創路監督

 僕は又吉直樹の原作を、ずっと「花火」だとばかり思っていた。さかさまになるだけでずいぶん意味が違う。
 新人のお笑い芸人の徳永は、ある営業先で先輩芸人の神谷に惹かれるものを感じ、勝手に弟子にしてもらう。今の芸人は必ずしも師匠について芸を磨くようではなく、いわゆる養成所育ちということなんだろう。徳永自身も自分の芸を磨くために、日々苦悩しているが、神谷は女のヒモ生活をつづけながら、何か独特の光を持った芸風を持っている。何しろお互いに売れてはいないが、卑下していない感じもあり、自分なりに芸を追求している風でもある。そういう中、あまり面白いと思っていない芸人仲間は売れて有名になったりする。猛烈に嫉妬しながら鬱積した毎日を送り、人間として壊れていくような思いを重ねていくのだった。
 芸人がなんなのかは僕にはわかりえないが、こんなにも人に嫉妬して暴力的なことばかり考えている連中なんだろうか。おもろい、というより、激しく痛い毎日だ。そうしてそれは、自分のうちだけでなく、いつも外に向けられて牙をむいていく。そんなんで本当におもろいものができるんだろうか。まあ、できるのかもしれないけど。
 売れたいというのも分かるし、自分らが認められない情けなさというのも分かる。それにまともには食っていけない。仲間は恋人や子供ができる人もいる。自分も悪いんだろうが、何か本当に割の悪い思いをしなければならないものなのか。そういうものが積み重なって、自分の中の何かを破壊し続けていく。そうしておもろいと尊敬していた神谷も、何かとんでもない外れ方をしていくように見えるのだった。
 お笑いものなのに、何が面白いのかまったくよく分からない。今のお笑いというのは、そういうものなんだろうか。芸能の世界というのは、人の道を外れたヤクザなものであるのは当たり前だとして、しかしいつも客に攻撃的であるというのは、どういうものなのか。二人の役者はお笑い芸人ではないけれど、演技としての芸人としては、何か板についたものが感じられはする。実際話には迫力があって、おそらくほかの芸人などもいるだろうなかにあって、いい味を出している感覚はある。この映画は苦しい映画だから、そういう中に面白さが眠っているらしいことと、必死にその面白さを拾い出そうとしていることも分かる。しかし売れることは非常なまでに厳しくむつかしい。
 ご存じのように原作者の又吉は、この小説がベストセラーで売れまくり、芸人としても人気が高い。僕は彼をよくテレビで見はするけれど、漫才ネタを見た記憶はない。小説は作り物だけれど、そういう又吉の内面が垣間見えるような雰囲気があって、この作品のそのままの魅力にもなっているのでは無かろうか。確かにすさまじさの片鱗があって、名作めいた余韻が残る。才能というのは、いったい何なんでしょうね。ほんとに。
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読んでなんだか燃えてくる本   読む・打つ・書く

2021-10-15 | 読書

読む・打つ・書く/三中信弘著(東京大学出版会)

 副題「読書・書評・執筆をめぐる理系研修者の日々」。書名から受けるだろう印象のとおり、研究者の世界をヤクザなものと同じだというとらえ方をして、多少自虐的に読者に伝えた内容と言えるだろう。そういうひとも確かにいるだろうとは考えたことがあったが、実際に本当に赤裸々にこの世界のヤクザな実態をあらわしたものは、これまでそんなに無かったのではないか。それというのも自分の頭がいいと考えているだろう学者に多いのは、ついあふれ出てしまう我が事自慢のようなものがあって、周りの人に実際に凄いのがいるものだから、ついつい対抗心のようなものに火がついて、自分でおこなった小さなことであってもすごく過剰に表現したり、時には努力をしたことは隠す癖に、実績めいたことはあれもこれもと出し惜しみしきれない人がいるのである。もちろん本著者がそんなことをしてないという保証は無いが、ふつうに自分のことを開示しているだけの内容であっても、それなりに他を圧倒している感があるので、必要ない邪念であることだろう。読むために多量の本を買って、そうして積読はもちろんされているうえに、しかしやっぱり内容を読んでもいて、さらにそれを吟味して調べまくり、頼まれてもいない(頼まれもするが)書評を書き連ね、それもそれだけでなく媒体によっては書き分け書き足したりもする。そうして自分で本の執筆もする。翻訳もするし、当たり前だが論文も書くだろう。文中にもあるが、まともにやればいくつもの人生だが、いやいや、ふつうの人から見ると、これらの著者の個人の歴史そのものが、すでにいくつかの人生であるばかりか、ちょっとそれが深すぎるのである。
 とにかく理系の研修者であるから、物事をできる限り正確に、そうして足跡もしっかり残そうとする執着心が凄いのである。研究者の態度ということから考えると、当たり前すぎるほど当たり前なのかもしれないが、僕からすると、これは何かにとりつかれた怨念のようにしか見えない。しかしながらそうであるからこそ研究というものがなされていくのだということも同時に理解される訳で、他の研究者であっても、やはりそうであって欲しいと願うことにもなる。いやひょっとするとそうでない人もいるかもしれないと、これを読んで改めて考えさせられるわけで、ちょっと恐ろしいことかもしれないとも思った。それというのも僕がふだん読んでいるものの多くは、特に研究書というわけではない。読んで目から鱗が落ちたり、改めて目覚めさせてくれたものもたくさんあるのだけれど、中にはそれなりにいい加減な内容であったとしても、それと気づかないままそうなってしまった自分がいるのではないか、と考えてしまったからである。これだけの信念でもって研究のなされた上に書かれたものを読むような経験というものを、実は読書人の少なからぬ人は、知らぬままに読んでいるのではあるまいか。
 しかしながらこの本は、普通からすると深淵なる迷宮世界であるが、それはやはりローマは一日にしてはならずであって、日々の仕事のやり方に関してのハウツーにもなっている。下手なビジネス書を読んでやる気にだけなって三日坊主で終わるより、かなり実用的なのである。要はつべこべ言わずに毎日がんばれの記録と実践が、あっけらかんと開示してある。そうして理系関係に関して精神的にちょっととっつきにくい人にとっても、読むのに苦労せずとも面白く読める文章になっている。くだけすぎてオタクっぽいところもあるが、まあ、愛嬌である。気が付いたらどんどん読み進んでいるはずで、本文の文字総数は気にならなくなるだろう。さらに資料としてのリファレンスにもなるはずで、これはもう一家に一冊、ということになるんではなかろうか。
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前半我慢する価値はあるかも   魔女the witch

2021-10-14 | 映画

魔女the witch/パク・フンジョン監督

 何か国家的な人体実験をやっているらしく、そこで養成された子供たちは、恐るべき能力を備えた殺人兵器になっているらしい。そこから逃れてきて、ある酪農の夫婦に育てられてきた少女がいる。彼女はテレビのスター誕生のような番組に出て、有名になりつつあった。ところがこれがきっかけで組織の目に留まってしまい、誘拐されてしまうのだった……。
 まあ最初の方は、だるいホームドラマという感じである。しかしながら何か殺人の匂いがずっとしていて、不穏である。組織の力は強大で、さらにその組織内でも訳の分からない内紛のようなものがありそうだ。謎の子供たちは力が強く、残忍に大人たちを殺していく。そういう恐怖の手が記憶をなくした女子高生に迫ってくる、というのが前半の大きな筋だ。そうして後半は一気にアクションの連続と、どんでん返しの物語に変貌する。
 韓国特有のオーバーアクトが気持ち悪いが、それが後半一気に効いてくる。凄い人々が、その凄いをさらに体現していくのだ。なるほど、そう来たか。という感じだろうか。きわめて漫画的な設定ながら、その漫画的なものを怖がらずに映画化しているともいえる。いくら何でも大人の鑑賞にはどうなのか、という疑問があまりない。そういう意味ではハリウッド的でもあって、韓国映画が日本とは違うところだろう。
 最初は主人公の女の子があまりに普通めいた雰囲気なので、まさか主役ではないのではないかと思ってもいたのだが、そのまま主役なので驚いた。それもたぶん演出の一つで、敵役の男の子や感じ悪い女の子の方が、主役っぽいキャラの魅力を備えている。そういうのを乗り越えて凄い、というのがまた魅力なのだろう。
 ただし、やはり漫画は漫画である。物語は、いい収束を見せてはいない。これだけの頭脳と能力の持ち主が、最終解決を人にゆだねるようなことをしていいのだろうか。もうひとひねりあると、そこらあたりも満足できそうだ。もっともこの映画、続編もにおわせてあり、これはこれで伏線なのかもしれないが……(※実際パート2が作られるらしい。続編を見るかどうか、今のところ予定はありません)。
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偉いという話じゃないが、シロさんもケンジも偉い

2021-10-13 | ドラマ

 料理番組をよく見る件は以前にも書いた。さらに料理にまつわるドラマもよく見ているとも過去に書いた。その中でも、なんだかちょっと違う視点なのは、「きのう何食べた?」だったかもしれない。ゲイ・カップルの物語なので、基本的には純愛を描いているドラマだけれど、そこでの料理の使い方が非常に上手い。最初はシロさんと言われるイケメンで几帳面で主婦的な視点の持ち主が、料理を担当する役割の人だと思われたのだが、いわゆる所作が女性っぽくて、しかし髭面のケンジだってふつうに料理は作るのである。同棲している関係もあり、どちらかというと几帳面で家に比較的早く帰って来るシロさんの方が、確かに多くの場合料理は担当しているが、それは絶対的な役割というわけではない。
 この物語を見た方が話は早いが、そんな風に書くと、男だって料理だってするさ、って感じる人もいるだろう。ところがこれが上手く言えないのだが、この二人の描き方においては、何かそういう当たり前にどっちがすべき感というのが上手く抜けていて、合理的に普段はやってるけど、やっぱりふつうにどっちだったってスキルはあるんだよ、って感じかもしれない。
 もちろんケンジには、キャラクターとして自由に不経済に(たまにはいいじゃん、みたいな感じ)料理を作るわけだが、だから普段はシロさんが買い物も含めて、栄養のバランスやその他もろもろの総合的なものとして二人の生活の基盤の料理を作っているに過ぎなくて、結局食べたいものがあれば、どちらともなく料理は作れるのだ。一人飯でも作れるし、二人分でも大丈夫で、客が来ても、それに対応するだろう。それぞれにできて、しかしその選択は自由に順位づけられていて、そうして自然ということだ。やっぱり説明すると厄介だな。
 僕は食事を作らない方の性として生まれてきてしまったんだな、とこれを観て改めて感じることが多かった。先のことは分からないから絶対ではないけれど、おそらく僕はゲイの道は歩まないことだろうけど、だからなのかもわからないけど、自然に料理に向かうような姿勢が、そもそも身についていなかったんだな、という感じだろうか。期待をされるということも無かったし、自分で自発的にということも無かった。インスタントラーメンを作るというのとは全然違うレベルで、自分のためだったりお互いのためだったりする食事を作るという意識が、まったくなかったんだな、という感じである。でもそれって、そもそも損なわれている「何か」なのかもしれない。
 僕は家に帰ってもまず冷蔵庫の中身を見ることはないし、ましてや何の肉があるのかとか、野菜の種類がいくつあるのかなんて見当もつかない。おそらく氷はあるんじゃないか、という程度だし、お茶くらいは自分で取って飲むこともあるかもしれない。
 しかし家にいると、しかるべき時間になると食事を当たり前にしているわけだ。これって考えてみると、かごの中で飼われている鳥とか、水槽で泳いでいるメダカ程度のものかもしれない。彼らは軟監禁されているのだから、僕は自主的にそうなっているわけで、厳密には同じなんて失礼な話だが、まあ、生きているレベルとしては僕の方が下なんだろうな。
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確かに何かがやって来ます   来る

2021-10-12 | 映画

来る/中島哲也監督

 途中から、いったいこれはなんじゃ? と驚いてしまった。それで中島監督作品だったと知った。そうだったのか。やっぱりぶっ飛んでますね。
 イクメン・ブログで人気があることが自慢のパパである田原だったが、マンションに何か憑き物がやってくる予兆を感じている。身の危険を感じるものの、このような場合どうしてよいかわからない。そこで民俗学者をやっている友人に相談すると、今度は怪しいライターの彼女らしいと思われるキャバ嬢を紹介されるのだった。しかしキャバ嬢には本当に霊感があるらしく、異変には気づいてくれる。けれど田原は、本心では真実をわかってくれている彼女が気に食わない。キャバ嬢にはさらに姉がいて、この姉の霊媒師が異常に能力が高いのだった。そうではあるが、この憑き物は、これまた想像以上に邪悪で強大な力があるらしく、物語はそれらの力に伴い壮大なことになっていく……。
 時間軸もあるが、物語は重層的で、なおかつ前半と後半ではまるで違うお話めいてくる。主人公だって変わってしまう。一つの筋の物語のはずではあるし、憑き物自体は同じものだろう。しかし人間ドラマは軸足が変わっていき、その見方によって事実も変わってしまう印象だ。それぞれ楽しめるが、最後はなんだかよく分からないほどにスケールがでかくなって、文字通り大爆発を起こしてしまうかの印象であった。まあ、呆れるやら凄いやら、大変です。
 基本的にはホラー映画だから、恐怖描写もあるんだけど、実際のところそんなに怖い映画ではない。ホラー映画の苦手な僕が、全く平気なレベルである。そういう意味では、本当に怖いホラー映画の好きな人には的外れなところがあるかもしれない。怖い描写があっても、それは一瞬の驚きであり、基本的にはサスペンスと人間ドラマである。まあ最後はちょっとアレですけど。
 まあしかし、変だけど、このブレ幅の広いところが中島監督の面白いところである。いわゆる名作映画にはならないのだろうが、その変な印象が、ある種の感動を含んでいるような気もする。やりすぎて笑ってしまうこともあるんだけど、人間の感情を表に出そうとすると、こうなってしまう場合もあるのではないか。演じている妻夫木にはイラつく気分が付きまとったけれど、そういう人間がいるのも確かで、その後黒木華や青木崇高もいいんじゃないか。ものすごく邪悪だけど。でも主人公は岡田准一になっていったりする。お話についていくのは大変だけど、変な映画ながら楽しめたかもしれない。一緒に観ていた家族には呆れられたけど(ということは、一般的には呆れる映画なのだろうか?)。
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女で生きることの苦難   阪急電車

2021-10-11 | 映画

阪急電車/三宅喜重監督

 「片道奇跡の15分」ともある。原作に短編集小説があるらしい。映画の方も阪急電車の今頭線という短い区画に乗る乗客の群像劇になっている。
 結婚の約束をしていたが寝とられてしまい、その彼氏と彼女の結婚式にドレスを着て出席する。嫌がらせ目的だったが途中で退席し、むなしくなり電車で帰っているところを年配の子供連れの女性に声を掛けられるのだった。また、イケメンだが暴力をふるうわがままな彼氏に振り回される女や、軍事オタクと田舎出で道端野草採集女との付き合いであるとか、子供社会で仲間外れにされても頑なに強く生きようとする女の子の話などが重層的に語られていく。年上で社会人だけど女子高生の自分になかなか手を出さない話もあったな。まあ、そういう感じなんである。
 関西の路線図は最初からよくわからないが、阪急線は大きな地下鉄の路線図には載ってない枝の方に、少しの伸ばした沿線がいくつもあるようだ。ほぼ駅名は聞き覚えがないし、簡単な漢字でも読めなかったりする(小林駅と書いて、オバヤシ駅)だったりする)。東京でいえば下町風情のある場所のように考えていいのかもしれない。もっとも関西というのは、神戸方面に行ったり京都方面に行くと、ずいぶん様相が変わる。これは関東や九州の人間からすると、かなり戸惑う文化である。だから面白い訳だが。
 話の主流は現代に生きる女性にスポットを当てている感じはする。女であることの生きにくさというのが社会的にあるようで、そういうものと戦いながら、女は強くなっていく。その前に泣かされるようなことが、そもそも多すぎるんじゃないか、という疑問はあるにせよ、ある程度自分なりの生き方を通そうとすると、目の前には困難が立ちはだかっているという感じなのかもしれない。
 いい雰囲気で納得できるものもあるが、まあ、だからどうなんだろう、というのもある。気に入った話が見つかれば、それでいいんじゃないでしょうか。

※ この映画で改めて芦田愛菜ちゃんの子役の凄さを思い知った。大きくなってきた今も美人だけど、この子の小さい女の子としての成熟さは奇跡的である。
※ 普段電車には習慣的に乗るわけではないが、乗車マナーにおいて一言いいたい人、というのはたくさんいるんだろうな、とも感じた。しかしそういうことに注意できる大きな力って、結局世の中のためにならないと思うけどな。それはいずれ別の機会に、ブログテーマで書きたいと思います。
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因果応報である   ドクタースリープ

2021-10-10 | 映画

ドクタースリープ/マイク・フラナガン監督

 原作はスティーブン・キングの小説。シャイニングの40年後を描いた作品の映画化。もちろんスタンリー・キューブリックの映画の続編という事にもなる。そういうわけで、作品のオマージュ的な映像も楽しめる。
 大人になったダニーは、過去の亡霊の記憶とアル中による生活破壊に苦しんでいる。住んでいる街を変え、心機一転断酒を始める。一方、ダニーのようにシャイニングの能力を持つ人間の精気を吸いながら生きている邪悪な集団がいて、獲物になる能力の少年少女を探している。そういう中にあって並外れた力を持つ女の子がいるのだった。それぞれが同時進行的にお話が進む中、交わっていくことになるのだったが……。
 ホラー映画は苦手なので、なんとなく後回しにして観ていなかったけど、netflixで配信停止になる様子だったのでクリックしたら、そのまま面白くて観てしまった。そんなに怖くはないスリラー作品で、もっと早く観るべきだった。今年観た中では一番の出来栄えではないだろうか。構成もいいし、ちょっと残酷なところはあるけれど、映像もうまいこと撮れている。演技も良くて、人間の嫌なところも良く描けている。映画の面白さが詰まっている感じで、観るものを最後まで飽きさせないのである。
 いわゆるつきものの世界ではなく、そのような生き物としての人間がいるという想定でのスケール感がある。皆それぞれの事情で苦しんでいるものの、その能力を使って、ある意味目的を果たそうとしている。強いものが勝つということもあろうが、頓智のあるものが、それを出し抜くことができる。そういうと、なんだか一休さんみたいだが、実際そのトリックを仕掛ける者同士の後半の戦いは、見どころである。その前にこの世界を説明するエピソードがたくさんあるのだが、そういう仕掛けもまたよく出来ている。まったくの作り物の世界でありながら、なるほどこういう風にリアルは形作られるのかもしれないと思った。あまり合理的ではないことでありながら、そういう変なやり方があるからこそ、このような妙な能力の人間たちがいるんだ、と思わせられるわけだ。こういうのを考えつくというのは、やっぱり一種の天才なのではなかろうか。
 シャイニングの続編なので、当然前作とどうなのか、という比較もできるだろうけれど、後半そのオマージュ的な映像が出てきたところで、やっぱり別作品かな、という印象も受けた。そういう意味ではやっぱりキューブリックは天才だったわけで、凄いと言えば凄さが際立っている。しかし原作者からは不評だったというのは、やはり芸術的過ぎるのだろう。キングの物語は、あんまり芸術ではなく、このように人間的で邪悪な方がいいのかもしれない。
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豊かな自然とスナメリの関係

2021-10-09 | Science & nature

 テレビでスナメリのことをやっていた。僕の住むまちの面前には大村湾という海が広がっており、そこにスナメリが生息していることが知られている。そうだけれど、スナメリというのは日本の沿岸部ではどこでも見られる生き物らしい。ただし、北端は松島湾と言われているので、あんまり北すぎると居ない。比較的暖かい水深の浅い沿岸部に好んで住む習性があると考えられている。
 そういう訳でなじみがあって知られた存在ではあるけど、あんがい警戒心が強くて、そんなに頻繁に目にすることができない。琵琶湖より少し小さい湾内に300程度の個体数がいると言われているが、それくらいなので、特に絶滅が危惧されている地域ともいわれている。体は白っぽいので水面近くにいると気配は分かるが、息継ぎなどをするとすぐに潜ってしまう。さらにイルカなどとは違って背びれがない。ツルンとした体つきをしていて、一瞬見えるかどうかというタイミングでしか姿を見せない。僕は沿岸沿いの小高いところでボーッと海を見ていて数度見たことがあるくらいで、それもあれがそうだったんだよな、という程度である。頑張って注意して見ていても、そうそう拝めるものではない。
 僕の子供のころにはそんなに話題にはなっていなくて、むしろ大村湾では昔クジラ漁が盛んだったという歴史を習っている程度だった。それがいつの間にか、スナメリという小さいクジラがいるんだという話が、持ち上がるようになっていった。クジラといってもクジラもイルカも同じ仲間で、単に大きさで区別しているに過ぎない。それにスナメリはネズミイルカの仲間とされている。大きくなっても1.5メートルくらい。くちばしはほとんどなく、おでこにメロンと言われる脂肪の塊がある。ここから超音波を出して、地底の海老やイカなどを見つけることができるのだそうだ。そういうことで顔が丸まっており、そういう特徴がネズミの顔に似ている種類とされているのだろう。
 しかしながらそういうスナメリが、頻繁に目撃される場所があるという。それも名古屋や銚子など、船が頻繁に出入りする港や、工場が立ち並ぶ沿岸部にこそ個体数が多いのだという。テレビではドローンを使って撮影していたが、上空から見ると、それなりに確認が容易であった。これまで群れを作らないとされていたが、場所によっては100を超える群れを作って泳いでいた。さらに魚を狩る能力も高く、湾内にいるボラなどの群れを追って獲っていた。集団で挟み撃ちにするなど、共同しての狩りをすることなどが新たにわかった、と言っていた。沿岸部に住みながら、警戒心が強いために(または背びれがないので気づかれにくい)、生態については謎の多い生き物のようだ。
 大村湾では絶滅が危惧されるほど個体数が少ないが、そもそも沿岸部の温暖な海を好むことから、人間の生態系と近い環境で生きていきやすい生き物かもしれない。工場の暖かい排水であるとか、運搬船などが行きかう環境で、人間の漁船が漁をしにくいところだから魚を狙いやすいなど、うまく適応して暮らしている様子だった。
 地元では、自然豊かな海が残っているからそこスナメリが生息できるという趣旨で、スナメリが環境問題を考えるための動物、という位置づけで語られることが多い。もちろんきれいな海である方が望ましいには違いないだろうけれど、人間が暮らすうえで静かになりすぎた海では、かえってスナメリが過ごしやすい環境であるとは言えない可能性があるようだ。田舎の海だからこそ、スナメリは生体数を減らしているかもしれない。そうでない方が、ロマンはあるかもしれないけれど……。
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失われた何かを求めて……   ある船頭の話

2021-10-08 | 映画

ある船頭の話/オダギリジョー監督

 新潟のどこか、らしいが時代は何時のことだろう。明治か大正か、はたまた昭和の初めなのか。そういう時代の川の渡し舟の船頭の話ということになっている。上流には立派な橋の建造が進んでおり、事実上その後は失業する運命にありそうだ。年も年だし。しかしぼちぼち渡しの客はあり、その客らとの会話の中で、船頭の立ち位置のようなことが分かっていく。そういうある日、上流から何か流れてきて船に当たる。それは怪我をした少女だった。上流の村では大量虐殺事件が起こり、その生き残りらしい。怪我が治ると徐々に少女は船頭とも打ち解けていくのだったが……。
 一応筋はあるけど、基本的には山深い場所に流れる川岸の船頭の質素な暮らしぶりと、その美しい風景を眺めるためのような映像世界である。そういう素晴らしい自然や生業のようなものが、静かに、しかし着実に失われていく悲しみを謳った物語と言えるだろう。
 そういう訳で、映像美はいいとして、なんとなく説教臭いのが玉に瑕という感じだ。謎めいたエピソードの流れは悪くないが、だからと言ってこれで良かったのかはよく分からない。良くは無いのだが、こうなってしまって滅びてしまうのみ、ということなんだろう。
 それにしても橋ができると一気に人々の行き来は盛んになって、とても船頭が渡していけるような人流や物流ではない様子である。またそれなりに大きな川なのに、雨が降っても静かな様子だ。ちょっとあり得ない感じがするし、あの小屋で生活し続けることは不可能に思える。それって温暖化以前の話だから目をつぶってしまえ、ってことなんだろうか。そういうところはなんとなく惜しいという感じ。
 それにしてもやたらにキャストは豪華で、資金がふんだんにあったのか、監督のオダギリジョーの人望が厚かったのか。とてもヒットするような内容ではないが、オダギリがこんな映画を撮りたかったのだな、という雰囲気は伝わってきて、ふーん、って感じかもしれない。科白廻しがこなれてない感じもあるが、架空の場所だし、客に伝わらない言語を話してもしょうがないので、割り引くしかないのだろう。しかしながら、僕らはいったい何を守ってこれから生きていかなくてはならないのだろうか……。
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英語の話ではなく、家族の在り方なのである   マダム・イン・ニューヨーク

2021-10-07 | 映画

マダム・イン・ニューヨーク/ガウリ・シンデー監督

 ヒンディー語しか知らない料理上手のインドの主婦シャシだったが、夫は外資系なのか英語が堪能で、子供たちは英語教育の学校に通っている。よく分からないが、インドは仕事や教育は英語で(おそらく収入に違いがあるためだろうけど。もともと英国植民地だったわけだし)、というのが多いのかもしれない。旧世代の伝統で子育て世代の女性は、家庭に閉じ込められているような環境にあるらしい。そういう中、ニューヨークで暮らしている姉の娘(シャシにとっては姪ですね)が結婚することになり、手伝ってほしいと連絡がある。そもそも英語ができない上に家族と離れることで、大変なプレッシャーと不安を抱えていたが、夫からは無理やりに一人で行くように言われてしまう。そうしてニューヨークに着くが、やはり英語圏なので英語を話さないことにはどうにもならない。大変につらい思いをして、一念奮起して英語教室に通うことになるのだった。
 インドにいるときは、主婦としての仕事をまっとうして、その才能も高い人だったにもかかわらず、その仕事について、夫は当然のように思っているうえに、何か蔑んでさえいる。子供も母親の英語由来の単語の発音の悪さをあげつらって馬鹿にしている。そうして英語ができない母親を恥ずかしいとさえ考えている。コンプレックスはあるが、日々の生活の中、英語を使うようなことをしないでも済むには済む。勉強する必要が無いのである。しかしいざニューヨークである。それはもう言葉無くして街に出ることすらできないのである。
 そうして少しづつでも勉強して言葉を覚えていくことで、まさに自分自身の世界が切り拓かれていくことになる。
 主演女優さんはすでに死んでいるらしい。何でも子役時代から伝説の女優さんだったが、結婚子育てで15年ぶりにカンバックして話題をさらった作品であるという。しかしその後浴室で事故のような死に方をしている。確かにものすごい美人で、撮影当時50近い年齢のはずなのに、その年齢なのだから少しは老けているはずなのに、その美貌は漫画の世界のように凄まじい美人ぶりである。これだけでも観る価値があるのではあるまいか。
 またこの作品は、海外でたまたまこの映画を観た一般人が、この映画の上映権を買い付けて日本での公開にこぎつけたといういわくつきである。日本の配給会社はいったい何をやっているんだ、という話である。まあ、日本ではまったく無名の俳優しか出ない作品を買い付ける勇気なんて、営利会社にはないのかもしれないが。しかしながらそういう奇跡的なことがない限りこの作品を観ることができなかった可能性を考えると、本当に人生にはもったいないことがたくさんあるんだろうな、という感慨を抱いてしまう。とにかく、なかなか楽しいだけでなく、単にジェンダー問題を糾弾するような作品を観るよりも何倍もその意味を理解するのに役立つ作品だと思う。デフォルメしてあるけど、これは日本人には必見作品なのではないだろうか。
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田舎の生活は退屈か   溺れるナイフ

2021-10-06 | 映画

溺れるナイフ/山戸結希監督

 雑誌のモデルとしてカリスマ的に人気のあった中学生の夏芽だったが、父の郷里へ転校することになった。田舎町で何の刺激もないところなのだが、そこで不思議な金髪の不良少年コウと知り合い、そのまま付き合うようになる。コウは何を考えているのかよく分からない人間だが、夏芽は振り回されて付き合うのが楽しいようだ。そういう中夏祭りがあり、夏芽はある男に騙されて連れ出され襲われる。不審に思っていたコウや村の青年たちに救われるが、その後二人の関係は疎遠になってしまうのだった。
 若い人間の感情の激しさは伝わるけれど、何が何だかよく分からないというのが正直な感想かもしれない。途中で付き合うことになる大友君という青年の一途さというのは、観ていてよく分かるし、いい話だと思うが、カメラマンだとかレイプ魔だとか、仲間外れにする女友達とか、その行動がよく分からない。そうして大人たちもなんだかよく分からない。この年頃の周りにいる大人というのは、子供の視点からは消えてしまうものなのだろうか。
 そうではあるが、なんだかそれなりに引き込まれて観てしまうのは、そのキャラクターを演じている青少年たちが、それなりに輝きを保っているからだ。いや、むしろそういうところを前面に出した演出ということが言えて、ストーリーはともかく、場面場面においての詩的な情動の動きがいいのかもしれない。それは確かに絵画や音楽的なものと通じるようなところがあって、この映画はそういう映画、ということなんだろう。
 でもまあ、そうではあっても、いわゆるいい人・良い青年である大友君とのエピソードが、僕としては結局よかったけどね。かわいそうだったけれど……。青春というのはそういうものじゃないか、ということで、大友君の将来に期待しましょう。
 ところでこの映画を観ている途中、つれあいから菅田将暉と小松菜奈が付き合っていると教えてもらった。他にも共演している作品もあるようで、本作品がきっかけなのかどうか定かではないのだが、それはそれでお似合いだな、と改めて感じさせられるところはあった。二人ともちょっと不思議なオーラがあるので、実際にも合うのではあるまいか。今後がどうなるのかまでは、分かりえない問題だけれど……。
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素直な自分になれるかもしれない   願いをかなえる私になる!

2021-10-05 | 読書

願いをかなえる私になる!/都築まきこ著(ディスカバー)

 副題は「ワクワク28日間引き寄せレッスン」。引き寄せというのは、いわゆるそういう自分の運のようなものを引き込む力のようなことと考えていいかもしれない。自己啓発本には違いないが、しかし、いわゆるオカルトではない。ちょっと女性向け(というくくりではよろしくないのは分かるが、しかしおそらくそういう読者層を想定しているはずである)の文章という感じもするけれど、それだけ分かりやすく書かれていて、人によっては納得しやすい文法かもしれない。正直に言って、僕自身はこういう感じには抵抗をもつのも確かなのだが、しかし、ものの考え方のようなことは、そんなに間違ったことを言っているわけではない。本当は必ずしもそうならないことがあるはずだが、だからあきらめているような人がほとんどであると仮定するならば、これくらいのことというか、考え方の癖のようなものを形成することが、いかに大切かということは分かる。
 最近になって、遅ればせながら目標設定の大切さを改めて感じるようになり、おそらくそのつながりで買ったのだろうと思う。アマゾンから送られてきて、最初は自分の本では無いと思ったくらいだから、その時なんでクリックしたのかは記憶がない。でもどうも自分で注文したようだから、とりあえずパラパラ読んでみて、とにかくすぐ読んでしまえる内容だったので、本当は28日間という期間を想定してレッスンしながら進む工程のようだけれど、読んでしまったものは仕方がない。だから文字数はそんなに多くない。その上に、読みやすいように区切りが明確だったり、各章のおさらいが設けられたりしていて、実用的なのかもしれない。繰り返すが、中年男性が手に取り上げる感じの本では無いのだけど、そうやって出会ったのは、悪くない出来事であったとも思う。あまのじゃくの傾向のある僕自身が、なんとなく素直な気持ちになったのは、まあ、そうかもしれないな、と思うところもあるからである。目標設定は、本当はもう少し具体性を持たせたり、工程的なことも考えた方がいいのかもしれないけど、勢いという点と、実際に行動に移すという点を考えると、この考え方には悪くないものを感じる。素直なポジティブさを呼び起こすために、読んでみてはどうかと思う。その自由さと素直さという力強さが、今の自分自身を奮い立たせることになるかもしれない。
 ともかく僕自身のことを言うと、自分でやりたいことであっても結局は後回しにしているので、時間を確保して地道にやるしかないな、と改めて思った次第。ほんとにそれすらも案外できないのが、人間のサガのような気もする。ポジティブと実行、そしてそのための切り替えた心の持ちようと確認、これ大事です。
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ほんとに勘弁してほしい   冷たい熱帯魚

2021-10-04 | 映画

冷たい熱帯魚/園子温監督

 小さい熱帯魚屋を営んでいる社本の家庭は、後妻と娘との関係があまりうまくいってない様子。そんな折娘は万引きをする。お店に謝りに行き引き取ろうとすると、スーパーの店長と懇意にしているらしい村田という男が間を取り持ったうえに、娘を自分の大型熱帯魚店で働かせるために引き取るという。なんだかすべて円満にいきそうにはなるが、同時に村田の怪しい商売の仲間にずるずると引きずり込まれることになるのだった。
 最初からなんとなく怪しい雰囲気で、出てくる女性は不必要にやたらとセクシーな格好をしているし、村田を演じるでんでんの演技もじわじわと恐ろしい。そうしてついにはエログロとスプラッタ・ホラーの世界にどっぷりとつかっていく。そういえば園子温監督作品だったな、とは思ったもののもう遅かった。こんな変な作品、とても家族と一緒に観ることはできないよ。
 そういう訳で、途中からぼちぼち残りを断片的に観て、なんとか最後までたどり着けた。もう気持ち悪かったり頭がおかしくなりそうだったりして、観ている時間が本当に苦痛だった。エロもすごいけど、グロも気持ち悪いし、とてもそんなものは楽しめない。もう心の中で、グエーッとか、勘弁してくれーっとか、うめきながら苦しんだ。もうこんな映画撮らないでくれよな、頼むから。
 でもまあ、それだけ凄い映画だけど……。評価が高いのは、これほどの変態映画は、そうそうまじめに撮られることは無いだろうからだろう。いろいろ規制されるだろうし、まともに地上波で放映されることも無いだろうし、ふつうの人が見たところで、ショックを受けるだけのことで、意味なんてほとんどわからないだろう。観る間はとにかく苦痛だけど、嵐が過ぎ去った後には、凄いもの見たな、という感慨だけは残るかもしれない。いくら仕事とはいえ、俳優さんたちもよく出演したもんだ。これに出たからと言って、家族に紹介する気にもなれないだろうしね。自分の子供に見せられるんだろうか?
 とにかくそういう訳で、万人にお勧めするわけにはいかない作品。凄いけど、それは凄く良いとかいう意味ではない。本当にできれば観ない方がいいとさえ思う。でもほかの作品も気になるんだよね、こんなの見せられると。
 まったく困ったもんだ。
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「ごはんですよ」の思い出

2021-10-03 | 

 子供のころはテレビっ子だったはずなんだが、テレビCMなどはあまり覚えていない。今でもそうだけど、せっかちな性分があって、CMが流れている時間がまどろっこしい。見ていることは見ているはずだが、その時間にトイレに行ったり、何か雑誌を拾い読みしたりしたくなる。ただ待っている感じが嫌なのかもしれない。
 しかし、妙に印象に残っているのが、桃屋の「ごはんですよ!」のCMなのである。当時は、三木のり平のアニメで流れていたあれである。なんでだろうと考えてみると、これにはいろいろとあることが自分なりに思い出された。
 それというのも、このCMのことで友達に馬鹿にされたのがきっかけだったのだ。その友達が、「ごはんですよ」をかけて食べないと御飯はおいしくないというのだ。しかし僕は、その「ごはんですよ」がピンと来ない。お前はそんなことも知らないのか! という訳である。その時に周りにいた数人であると思われるが、その全員が「ごはんですよ」のファンであるという(当時はそんな言葉ではなかったが、要するにみんなそういう風にしてご飯を食べるものだという常識があったのかもしれない)。僕だけがのけ者にされたような気がして、ひどく恥ずかしく悔しかった。そうして家に帰って、母に「ごはんですよ」が食べたいと懇願した。ところが母も、「ごはんですよ」がなんであるのかピンときていないようだった。お互いが知らないものの話をしてもしょうがない。ついでがあれば買ってくると約束したはずなのに、どういう訳か母は毎回買い物をしているときに「ごはんですよ」を買い忘れてくるのだ。そういう訳でしばらくの間だろうが、何か家で食事をするたびに、悔しいようなもどかしいような気がしていた。
 そうやってウジウジしていたのだろうと思うが、その当時何故かこれを父が聞き及んで、じゃあ買いに行こう、ということになった。父が家で飲んだくれていないことなんてあんまりなかったはずだが、その時は車の運転ができたらしい。それでまだ開いている商店を探して(当時は夜に開いている店は少なかった)、「ごはんですよ」を買いに行った。いったいどの商品棚にそんなものが売ってあるのか、僕には見当もつかなかったが、とにかく「ごはんですよ」のビンは見つけ出した。買い物だから母もついでに何か物色していた様子だが、僕は早く家に帰ってこの「ごはんですよ」を開けてみたい。もう手に入れたのに、ものすごくまどろっこしいのである。
 そうやってやっとの思いで家に帰って白いご飯に「ごはんですよ」を載せて食べたのだ。で、「あ」っと思った。食べたことがあるのだ。だって「ごはんですよ」は岩ノリである。旅館か何かの朝ごはんで、これのようなものを食べたことがある。でもそれが「ごはんですよ」と同種のものだとは、知らなかったのだ。ということは、父も母も「ごはんですよ」が岩ノリだということを知らなかった可能性がある。だって何にも僕には説明してくれなかったから。
 かなりがっかりしたのだが、しかしこの岩ノリのおかげで、僕はなんとなく目が覚めた。友達が知っているようなもので僕の知らないものなんて、そんなにたくさんあるものではないのではないか。またテレビCMでやっているようなものは、落ち着いて確かめてみると、中身がなんであるのか分かりそうなものではないか。父も母もあんまりまじめにCMを見ていなかったらしいことと、僕も同じように気にしていなかったらしいことがこれで判明した。
 しかしこのことがあってから、CMが流れるたびにすぐに目がテレビに集中するようになった。あれがあの「ごはんですよ」事件の原因である。三木のり平は、あまり清潔感のあるような喜劇役者ではなかったはずだが、このあんまりゲラゲラ笑うようなネタでもないはずのCMが、憎らしくもそれなりに面白いのだった。
 しかしながらその後も、「ごはんですよ」としての岩ノリは、僕のうちの定番にはならなかった。時々この商品でない岩ノリが朝食に出ることがあって、それは「ごはんですよ」ほど甘く濃ゆい味ではなく、しかしそれは僕好みだった。岩ノリはあんなに味が濃くなくて、しかし磯の風味豊かなものの方がいい。しかしそういうのって、母はいったいどこで買ってきたのだろうか。
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やっぱり若い恋愛ってのがいいのかも   君と100回目の恋

2021-10-02 | 映画

君と100回目の恋/月川翔監督

 同じバンドメンバーで幼馴染の陸と葵海(あおい)は、お互い好きあっていながら、なんとなくすれ違いをしている。そうして葵海は他のメンバーから暗に告白されるに至ると、それがもとで親友との中もおかしくなり、精神不安定になり交通事故でおそらく死んでしまう。ところがそこから意識は過去に戻って、居眠りして注意された教室の場面からになっている。見覚えあることが続いていくが、微妙に以前とは違う内容のことが起こるようになって……。
 いわゆるタイム・ループもの。葵海がタイム・ループに陥ったものと考えていると、実はそのループは、陸のものと連動していることがわかることから、本当に濃密な恋愛劇に展開していく。それは何度も繰り返される理由がある、というお話。
 なんとなく恋愛の精神的なポルノという感じもしないではないが、まあ、そういう目的で見る人が大半だろうから、それでいいのである。しかしながら、女の子は天然なんだろうが、そういう自分に酔っているということも言える。彼女が彼を思ってやる行動の選択が、究極の愛でもあるということなんだろう。僕はもう少し努力して、なんとかならないかな、とは思ったけど、これが美しい選択ということなんだろう。しかしながら、何しろループすることで、いわゆる歴史は塗り替えられているわけで、だとすると、ふつうは未来は塗り替えられるんじゃないか、と考えられないだろうか。まあ、それではお話にならないのかもしれないけれど、うまいアイディアがあれば、本当にハッピーじゃないだろうか。誰かそういう脚本書いてください。
 Miwaは本当のミュージシャンだし、演出がかったバンドの演奏だけれど、ちょっとした臨場感があって、割合そういうのはいい感じではある。他のベースやドラムを演奏している俳優さんも、なんとなく本当にやっている感じがある。そういうドライブ感が物語のすがすがしさのようなものを演出できている。まあそういうのは、僕が過去にバンドやってた懐かしい気分と相まってそう感じたのかもしれないけど、実際僕の体験したものはこういうバンドでは全然違ったのに、いいものはいいんですよね、はい。
 もう僕らの時代以降の学生さんというのは、苦学のかけらも感じさせられるものはなく、お金もそこそこあって、何か将来の期待や不安に押しつぶされる風でもない。そういうのってアメリカ映画の世界だけの話だと漠然と思っていたけど、これも日本で自然になった。やっぱり時代は変わったんだな、と改めて思ったのだった。
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