火花/板尾創路監督
僕は又吉直樹の原作を、ずっと「花火」だとばかり思っていた。さかさまになるだけでずいぶん意味が違う。
新人のお笑い芸人の徳永は、ある営業先で先輩芸人の神谷に惹かれるものを感じ、勝手に弟子にしてもらう。今の芸人は必ずしも師匠について芸を磨くようではなく、いわゆる養成所育ちということなんだろう。徳永自身も自分の芸を磨くために、日々苦悩しているが、神谷は女のヒモ生活をつづけながら、何か独特の光を持った芸風を持っている。何しろお互いに売れてはいないが、卑下していない感じもあり、自分なりに芸を追求している風でもある。そういう中、あまり面白いと思っていない芸人仲間は売れて有名になったりする。猛烈に嫉妬しながら鬱積した毎日を送り、人間として壊れていくような思いを重ねていくのだった。
芸人がなんなのかは僕にはわかりえないが、こんなにも人に嫉妬して暴力的なことばかり考えている連中なんだろうか。おもろい、というより、激しく痛い毎日だ。そうしてそれは、自分のうちだけでなく、いつも外に向けられて牙をむいていく。そんなんで本当におもろいものができるんだろうか。まあ、できるのかもしれないけど。
売れたいというのも分かるし、自分らが認められない情けなさというのも分かる。それにまともには食っていけない。仲間は恋人や子供ができる人もいる。自分も悪いんだろうが、何か本当に割の悪い思いをしなければならないものなのか。そういうものが積み重なって、自分の中の何かを破壊し続けていく。そうしておもろいと尊敬していた神谷も、何かとんでもない外れ方をしていくように見えるのだった。
お笑いものなのに、何が面白いのかまったくよく分からない。今のお笑いというのは、そういうものなんだろうか。芸能の世界というのは、人の道を外れたヤクザなものであるのは当たり前だとして、しかしいつも客に攻撃的であるというのは、どういうものなのか。二人の役者はお笑い芸人ではないけれど、演技としての芸人としては、何か板についたものが感じられはする。実際話には迫力があって、おそらくほかの芸人などもいるだろうなかにあって、いい味を出している感覚はある。この映画は苦しい映画だから、そういう中に面白さが眠っているらしいことと、必死にその面白さを拾い出そうとしていることも分かる。しかし売れることは非常なまでに厳しくむつかしい。
ご存じのように原作者の又吉は、この小説がベストセラーで売れまくり、芸人としても人気が高い。僕は彼をよくテレビで見はするけれど、漫才ネタを見た記憶はない。小説は作り物だけれど、そういう又吉の内面が垣間見えるような雰囲気があって、この作品のそのままの魅力にもなっているのでは無かろうか。確かにすさまじさの片鱗があって、名作めいた余韻が残る。才能というのは、いったい何なんでしょうね。ほんとに。