カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

一重まぶた炎上とは何か

2019-12-30 | net & 社会

 一重まぶた炎上というのがあるらしい。見た目として、二重まぶたを好む傾向と、その見た目にこだわる(ルッキズムというらしい)人々との間で、軋轢が生まれる。激しく罵倒する人もいる。面白がっているだけなのだが、その攻撃性は異常だ。
 容姿というのは、確かに避けられない事実めいている。そのことを言うのは、何かをさらけ出すようなものを含んでいるのかもしれない。例えばブスという言葉があるが、そうであるかないかにかかわらず言うことは可能だ。単なる攻撃的な卑劣なものだが、浴びせられる、受ける側のダメージと否定が難しい言葉かもしれない。きょとんと分からないふりをするくらいしか、思い浮かばない。否定すると言葉のループにはまり込みそうだ。
 料理に対する「まずい」というのも、単なる判断なのに、非常に攻撃的だ。客観性のある味に対して、主観的な断定判断が可能だ。多少クレージーでも、一瞬で全否定が可能である。
 要するに、容姿である。それが批評の対象になるとき、人々はそれなりに大胆な判断をするようになるのではないか。そうしてこれの象徴的な言葉に、一重まぶた、または二重まぶたがあるのだろう。
 確かにこれは呪いめいている。僕は男であるけれど、母から繰り返し二重まぶたのことを言われたものである。関心が無いので受け流していたが(それは男である僕ができる環境にあった幸福だろう)、この言葉を繰り返し言う価値観に、母の世代的なものを感じていた。僕は女の人を恐れているので、容易に容姿に対する批評はしないが、母以外の者にも、そのような価値観があるらしいことくらいは、肌感覚として分かる。だから何だというのは考えたことが無かったが、この言葉で炎上したという流れが、とても意外に思えたからだ。
 それというのも、最初は「一重まぶたはかわいい。みんなもっと自信を持て」というようなつぶやきに対して、何の関係も無い赤の他人が「自分は二重にしたいと思っているだけだ。二度と口に出すな(大意)」という返答があり、炎上していったのだという。まあ、他にもパターンはあるだろうが、これが延々とループして言葉が重ねられていくというのだ。
 一重まぶたがかわいいという価値観は、実は何の問題も無い感想だろう。しかしそれは事実としてより、何か別の意味を持つ逆説的な批評性を帯びてしまうということだろう。あえて一重まぶたをかわいいとすることに、何かの価値観を壊すような攻撃性をみて、反応があるということなのだろう。それもかなり攻撃的に、そうして過剰である。
 人のどうありたいという願望にとやかく言っても仕方がない。ましてや容姿のようなものに対してどう思うというのは、そう思うことに何か言っても始まらない。しかし何か言ってしまって始まってしまうと、取り返しがつかなくなって炎上してしまうのかもしれない。
 ここまで書いてきて、段々と分かってきたが、やはり人は容姿に囚われているということのようだ。避けられないし逃げられないから、匿名の世界などになると、言わずにいられない人が居るのだろう。これが日本人の特徴なのかどうかまでは分からないが、少なくとも日本社会の中の、何か閉塞した共通の価値観に対する人々の鬱憤だろう。壊したいが、すでに共通価値観として確立している何か、なのだ。ある時に一瞬で壊れてしまわない限り、個人の力では崩せるものではないのかもしれない。そこに、憤りが生まれるのかもしれない。

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