外国にはビーガンというのがいるらしいとは聞いたことがある。いや日本にもいるだろうが。詳しくは知らないが、要するに肉食の文化があり、その反発のようなものか。肉は命を殺さなくてはならないという犠牲がある。そういうことに嫌気がある人が居るのだろう。ある種の正直さと潔癖さが、そのような主義的なものを生んでいるのではないか。
もちろん、単に肉類が食べられない、という人が居る。アレルギーなのかどうか、病気の問題がそうさせる人もいるかもしれない。そういうことも個性の一つで、尊重する対象で、そうなる、というのがあるのか。イスラム的な戒律で、肉を口にしないということと分けている人もいそうだ。宗教ではないと言いながら、菜食主義者は宗教的なにおいがする。しかしそれは人々が認めるべき権利であるという考え方や、イデオロギーを内包している。結果的に個性の問題としている態度も見えている。
しかし食事である。卵やミルクは許容している菜食主義者と、それらを含んだビーガンは区別される。実際問題としては、厳格化すると、集団の中で埋没できない。孤立がありながら、それをいつも主張するようなことになる。それ自体が、価値のあるものであるかのようだ。
日本の、あるいはアジアの、精進料理を歓迎するビーガンもいるという。確かに受け入れやすい食文化ともいえる。しかし厳密にいうと、仏教的な精進料理は、野菜においても生命を殺すことに、罪のようなものを背負っている。そういう考え方は知らないわけではなかろうが、しかし西洋的な菜食主義者には、そもそもとしてのそういう考え方は、持っていなかった疑いがある。何故ならそれは肉食に対するアンチテーゼだからだ。精進料理は、いわゆる修行のようなものを含んでおり、それは肉食に対してのアンチテーゼではありえない。肉食に関して関与をしないのである。
野菜を美味しく食べようという考えは、楽しみがある。食事自体は楽しいもので、特に戒律の中にある場合、それは大きな快楽だ。栄養を取るだけの食事ではないものが、生きるということの喜びというものが、食事にはある。精進料理というのは、そのような娯楽のようなものなのではないか。ビーガンの野菜料理にそれが無いわけではなかろうが、何かそこには、必ずしも楽しまなくてもよいような、そんな印象も受ける。制限はあるが、生き方としての芯の強さの上に、犠牲にしていいものがちゃんとあるというか。
要するに誤解もあるのだろうが、考え方のアヤの中に、ちょっと闇を感じる。それは人生の深みであるかもしれないが、落とし穴かもしれない。少なくとも不合理の中に身を投じているような、そのような戦いめいたものを感じる。嫌悪というのではないけれど、そういう非合理を追及する誠実さのようなものに、何か諦めめいたものを思うのかもしれない。