カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

育ての母と居なくなった生みの母との葛藤のシェフ

2019-12-14 | 感涙記

 BSで「さすらいのシェフ」というのを観た。韓国の著名なシェフが、山野をさまよい、雑草のような草花を摘んで、独創的な料理に仕上げる。自分のレストランも持っているようで、当然客がたくさんのようだ。映像なので実際の味は分かりようが無いが、人々は驚きの表情でその料理を楽しんでいる様子だ。実際に旨いのは間違いなさそう。そのシェフのイム・ジホさんは、ある里山で知らないお婆さんに野草のスープをごちそうになる。そのお礼に集落の人々を呼んで、その里山で採ってきた雑草(のような)で、素晴らしい料理を作ってふるまう。そうしてお婆さんとすっかり親しくなるのだった。時に通い、母のように慕うのだ。
 実はイムさんは、実の母は知らない。養母とは、若いころに家出のようにして放浪している最中に亡くしてしまった。そのような過去があり、母の思いに特殊なものがあるようだ。老婆を母の面影に重ねてみているということか。そうしてお婆さんが亡くなり、その弔いとして108もの料理を三日三晩掛けて作るのだった。
 「男はつらいよ」の主人公寅次郎も、実の母には捨てられ(というか父の妾だったので、父方の家で育ったということ)、養母は成長過程で亡くす。それが原因というか、少なくとも、何らかの心の傷を負っている様子である。人格形成に母の存在は大きいものと思われる。イムさんと似ているのかどうかは分からないが、そのような境遇というのは、大人になっても、さらにそれなりの年齢になっても、影響が続くものなのだろうか。
 僕にだって母親がいるわけで、母に対する思いというのは分からないではないはずなのだが、居なくなった母ということと、養母という母ということとに、ずっと思いが引きづられるものなのだろうか。まあ、複雑には違いないだろうが…。
 ドキュメンタリーは非常に感動的な物語になっている。素晴らしいものだ。しかし僕には、当然他人であるお婆さんに、母の面影を激しく投影することなど、これからの人生でもまず無いことだろう。そういう意味では誠に不思議で、妙な感慨が残る。しかし人々には、この特殊性に共感のあるものが多いのではないか。それは、想像力だけではないような気もする。そうしてそれは、おそらく僕には欠けている感情のような気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする