人間社会で生きていくうえで大切なのは、他人を騙してはいけないという社会規範であるといわれる。人々は信用の上に社会を構築しているわけだから、嘘つきが混ざると相手を信用できなくなり、混乱に陥り、不安定になる。皆騙されるのが嫌だから、自分から相手を信用しなくなり、閉鎖的になり、人間関係が上手くいかなくなる、というわけだ。
そのような考えはおおむね正しいとは思うが、信用社会とは、実際には嘘つきが混ざっていても機能する。日本人は正直だといわれることもあるが、社会が閉鎖的で、その内側のルールとしては正直でも、いわゆるその外側社会にまで正直であるかは疑わしい。あくまで狭い仲間内でのことを一般化して語ることはできない。信号を守っている国民が、正直であるかは別問題だ。
特に日本人の場合は、オモテとウラ問題ということをよく指摘される。心のうちでは違うことを考えているように見えて、信用されていない。実際に約束を守るかどうかということもあいまいで、国際社会では何度となく約束を守らないとみられている。米国が方便で言っているわけではなく、そういう部分を指摘して、話を優位にするような方策を取る国がそれなりあるということでもある。実際にそのように見えるようだというのは確かそうで、日本人のうすら笑顔は信用できないということの象徴として語られることも多いようだ。
まあ、外に向けて残念な国民であるというのは、実際には誤解だと思うのだけれど、国際社会というのは、まったく厄介なものである。日本人が特に嘘つきである可能性は特にありはしないが、そう思われがちあるだけでずいぶんに損しているらしい。まあ、儲かるばかりでは申し訳ないからそれでもいいのかもしれないが、単に損なら馬鹿みたいだ。
しかしながら日本人だって本当は嘘が上手なんじゃなかろうかと思うことがある。僕自身は嘘が嫌いだから特にそう思うのかもしれないけれど、普段から同胞日本人から、いつも嘘ばかりつかれる経験があるからだろうと思う。それは何だといぶかる向きもあろうかと思うが、それは外でもなくお世辞や社交辞令である。そういうものは他国にも当然あることだけれど、日本人のそれは、なかなか巧妙かつ狡猾で、生活のあらゆる部分に浸透している。これを避けて生活することはほぼ不可能で、要するにこれを応用すると、国際社会でもそれなりに通用するんではないかと思うのである。要するに国際人というのは正直に見えるフリが上手いだけのことなんだから、本来的に嘘つきなのだ。日本人はそれに合わせて嘘がつけるようになればそれでよろしいという訳だ。
本当に正直に生きるというのは、実は馬鹿である表明に過ぎない。日本人の狡猾そうに見える姿は、要するに馬鹿に見えるという比喩のことだろうと思われる。堂々と嘘の言える国際人の為に、日本の普段の姿を外でも見られるようにすることである。それはおそらく英語を含めた外国語問題よりもさらに重要である。しかしながら一点だけ正直に言うと、実に馬鹿げたことに過ぎないのだけれど…。