カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

長く残る恐怖感   向日葵の咲かない夏

2014-12-02 | 読書

向日葵の咲かない夏/道尾秀介著(新潮文庫)

 最初は子供にしては不自然な感じはある。そうして家庭環境を含め、主人公の病的な雰囲気に戸惑うこともある。そこにトリックが含まれているらしいことは分かる。ただし、そのような病的なトリックで本当にいいものかという不安があるわけだ。もちろん個人的な感覚にもよるのだろうが、僕の場合はその期待はそれなりに裏切られた。それは逆説的に期待通り楽しめたことを意味する。さすがに人気作で、まったくよくできた見事な構成力に脱帽という感じである。
 ということで、おそらく多くの人は、このトリックにはそれなりに驚くことになるだろうし、どんでん返しの意外性の破壊力もなかなかのものだ。読後感のある種の後味の悪さも、人によっては満足感に変わるだろう。してやられたし、末恐ろしい。まったくなんて少年なんだろう。そうしてこんなに恐ろしい結末で困っちまったぜ、という感じか。
 僕は素直にミステリとして読んでいたので困ったが、これが結構怖いお話でもある。ジワリ怖いというのもあるが、臨場感のある怖さもある。いきなりそういう展開になって困ってしまったりしたわけで、まったく意地の悪い文章である。それだけ文章が巧みだということもあって、洗練された書き手さんだということが言えるだろう。イライラするような人物もいるし、外で起こっている大人たちとのやり取りのまどろっこしさもそうかもしれない。終わってみると病的な人がこの地区に一度に多く居すぎる気もしないではないが、まあ、それがこの小説世界を構成している要素なんだから仕方がない。まさにそうでなければこのような世界は構築されえないわけで、驚かされる楽しみとして許容することにしよう。
 まあ、それにしても、やはり人間にはそれなりに狂気が内在しているのは当然ではある。だから猟奇殺人があって当然とまでは言えないわけだが、人間の中のドロドロしたものというのは、やはりあって当然なのだろう。だからこそ、本当に同化するような共感でないにせよ、なんとなく感情移入が出来て、狂気の理由もそれなりに理解できる気がするのかもしれない。同じような症状になるとは個人的に思えないまでも、狂気の理由は様々で、あるいはだから様々な症状に悩まされる個人が存在するのかもしれない。実行してしまうと社会的には困ったことになってしまうが、そういう素質を持った人が、それなりに世の中で暮らしているだろうことは、事実としてありうることである。重層的にそのようなホラーの覚醒があるわけで、自覚的になれる人にとっては、読後も長く恐怖が続くお話ではないだろうか。
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名刺は便利ではあるけれど

2014-12-01 | culture

 業界によってもかなり違うものだとは思うが、日常的に名刺交換はやる。というか、名刺をくださいというような人が多くて、ノルマ達成の証明もあるんだろうが、大変なことだな、と思う。そういう人の為に名刺を持っているわけではないが、まあ、便利だし面倒だからこのような商慣行に乗っかって仕事をしているということになろう。
 若い頃には先輩から、とにかく多くの人と名刺を交換して来い、と言われた。人脈というのは、確かに仕事をするうえで何よりの財産だから、意味としてはよく分かる。特に駆け出しの頃には、まだ人間として何者でもない。知っているだけの脆弱なものであろうとも、そういう知っている人を増やすことに意味が無いわけではない。
 そういうことは理解できたのでせっせと交換に励んだ時期もあるのだが、ふと、しかしやはり内容が大切ということに改めて気づくことになる。やはり交換すべきものを自分が持つか、相手にしてもそのようなものを持っていない限り名刺にはそんなに意味は無い。会議や面会の席で名前を間違わないためのツールで終わるだけのことである。そんなことが瞬時にわかりえるはずはないので、資産として名刺を持っておくということもあろうが、やはり、覚えておくということが無ければ、たいして意味は無かろう。
 名刺を持たなくてもよい仕事をしている、もしくはしていない人があっても当然いいわけだが、名刺を持っている立場の人というのは、自分のことをてっとり早く認めてもらおうということもある。いつまでも不明のまま目の前に居られても迷惑だろうから、これこれしかじかの者ですよ、と相手に安心してもらう。その後忘れられても、名刺を無くされなければ、思い出してももらえるかもしれない。
 面倒なのは、最近の商慣行の上で、名刺の扱いにうるさい人が増えたような気のすることかもしれない。どういう教育か知らないが、名刺を差し出すと自分の方が遅く出したクセに、とってもらうまで平身低頭の構えを見せて、取れという人が多くなった。セールスマンに多いが、こんなことに時間をかけるような人間はとても信用できないと思ってしまう。どっちが先に取ろうと交換出来たらそれでいいわけで、ここに上下関係が見え隠れする卑屈さも見えてきて、本当に気分が悪くなる。
 さらに飲んでいるときに名刺の扱いをうんぬんする人がいて、名刺の扱いがぞんざいな人は人に対してもぞんざいだ、などとのたまう。たかがカードを敬って人をぞんざいに言っている矛盾に気づかないほど鈍感らしい。まあ、その名詞の持ち主の前で名刺を破るような行動(そんな人は居ないだろうが)を取れば、それなりに失礼だろうけど、その人がいないところで覚書を記したり、自分なりに工夫するのは、やりたいようにやればいいのだ。むしろ役に立てることだから、名刺としても本望だろう。
 まあそういうことだが、もう付き合いの無くなった人の名刺はそれなりにたまっていく。大方は管理しているが、たまりにたまりすぎると、さてどうしたものかな、と年末などにはよく考える。十年くらいしたら捨てることにしようかと思う。また、何枚もくれる人がいて、仕方がないから付箋代わりに使ったりしている。知られなければそれでいいことだけど、書いてしまった。そういう態度が良くないと、気分を悪くされる人もいるのだろうな。どうも子供ですいません。
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