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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)
好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。
パワーショベル、川をゆく
2012-04-15
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感涙記
Saigon River (Excavator rowing Boat) Ho Chi Minh City
豪快と言えばそうだし、強引といえばそうだし、しかし妙にのどかで、そしてダンスを見るような、そのような優雅さが無いでは無い。パラソルが何となくおしゃれでもあります。
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おにぎり怖い
2012-04-14
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HORROR
僕はいわゆるゲテモノ食いというのは割合平気で、アジアの国々で食されるキワモノはだいたい何の抵抗も無く食べることが出来るようだ。生の昆虫(幼虫)みたいなものだけは何となく苦手だが、現地の人と一緒だと、その空気感が共有されて、口にするのは大丈夫みたいだ。タイでカナブンやゴキブリを出されたが、はっきり言って美味しく頂いた。福建で蛇やアルマジロ、厦門ではカブトガニなんかも食った。ネタで記念に食べたのではなく、名物的な食事に過ぎない。犬や猫はさらに普通に大丈夫だ。日本でもイナゴなんかがあるが、旨いとは積極的に思わないだけの話である。デマではあるけれど、マクドナルドの肉がミミズであったとしても、それが何か?という気分になるに違いない。
そうではあるんだけど、僕にも苦手な食べ物がある。それは何かというと、おにぎりである。時々握り寿司でも意識してしまうことがある。
先日テレビでインド人の食事風景が流れていたが、これもなんだか苦手だった。それは彼等が直接手でものをつかんで食べるせいだと後で気づいた。
僕は手でつかんだものを口に運ぶというのが苦手らしいと分かった。不潔というかなんというか、気持ちが悪くなるのである。だからそういう場面を見なければぜんぜん平気で、コンビニや座敷に並んでいる食べ物ならそういう気分を忘れて食べることが出来る。
これはたぶん教育のせいで、母から何が不潔で何が清潔かという話をさんざん聞かされたことが大きいような気がする。如何に家庭の料理は清潔に調理されているかということを繰り返し聞かされたせいで、逆に他人の作るものが信用できなくなってしまった。その後実際にレストランでバイトしていて厨房の風景を目の当たりにして、本当に衝撃を受けたことも大きかったかもしれない。ちなみにその店は現在無いのであしからず。
だから不思議なのは自分で食べ物を床に落としてもぜんぜん不潔な気分にならないので、他人を信用できなくなったということがやはり大きいように思う。きれいに手を洗っている場面を実際に見ても、どうにも気分は治まらない。
クリストファー・ノーランの映画に「メメント」というのがあって、短期の記憶しか出来ない男の物語がある。本当に記憶が無くなるのか試すために、彼の飲み物に唾を落としてのませる場面がある。本当に記憶が無くなるので、彼は一定時間過ぎると平気でそれを飲んでしまう訳だ。思い出すだけで実に気持ちが悪い。だが、もちろん映画は傑作なのでぜひ観るべきだが。
最近はビニールの手袋をして調理をする風景が普通になった。これは本当に助かる。僕の心の平穏が、かなり上がった感じがする。
しかしながらたまにだけれど、公民館などで寄り合いがある時がある。集団で食事をすることになって、そして時におにぎりが出されることがあるのだが、これが何より恐ろしい。
僕が大人になって酒飲みになったのは、ひょっとするとこの恐怖から逃れるためかもしれないと思うことがある。アルコールが入ると気分が大きくなって、多少のものは口に運ぶことが出来るようだ。むしろ危険度が高まっているのだから皮肉な話だけれど、嫌なまま食べなければならないよりは、断然ストレスが違うのだろうと思われる。
オープンキッチンは調理場を見せることで、清潔さなどを客にアピールでき信用をさせる効果もあるものとは考えられるが、そういう訳で僕は何となくこれが苦手である。僕は騙されてもいいので、そういう過程をショートカットした方が安心出来るようなのだ。
ちなみにおにぎりは大好物なので家ではバクバク食べる。子供の分まで食べてしまって、怒られるくらいだ。つれあいに毒を盛られたとしても平気で食うに違いなくて、暗殺をするならつれあいと結託した方が早道だと思われる。そして、その場合は致死量を間違わないように。せっかく苦しむのだからちゃんと死なせて欲しいものである。
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夏くらいまでやってみっかな
2012-04-13
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散歩
こういうのは告白しづらいが、正直に言うと現在はダイエットに失敗中である。一応ダイエット宣言のような事をダラダラしているに過ぎなくて、実際にはぜんぜんダイエットしてない中といった感じかもしれない。
ダイエット自体は今までに何度もやっていて、成功したり失敗したりの繰り返しである。一番成功した栄光の歴史をひも解くと、30代中盤のものがあるだろう。8ヶ月くらいかけて、84キロから67キロまで減らした。これは実際に楽しい経験で、この成功体験が後の失敗続きの布石になっているようにも感じる。よく考えてみるとそんなに簡単では無かったはずなのに、いつでも簡単に痩せられるような錯覚を得てしまったような感じなのだ。
事実調子に乗ってしまっていて、その後は増える毎にそれなりに苦悩の悪戦を強いられ、現在はいつの間にか77キロ台にまで増えてしまった。日中飯を食って服を着たままだと、79キロ台という恐ろしげな数値を目にするようになってしまった。一昨年まで70を切るところだったし、年当初は73キロ前後だったはずだから、ダイエットを始めてから確実に増え続けている。やはり仕切り直しのためには計画を見直さなくてはならない。
基本的には計るだけダイエットというやつである。レコーディングも併用すると、それなりの効果が期待できる。これは面白くなるかならないかというのが最大のカギで、面白く感じないうちはぜんぜん効果が出ない。ニワトリと卵の関係みたいだけど、効果が無いと面白くなく、面白くないと効果も出ない。
リバウンドを防ぐためには急に痩せすぎないということも大切である。一日50から100グラムづつくらい減るのが理想で、それでもひと月1.5キロから3キロは落とせる。そういう具合に痩せていくと、時々フィニッシュにラーメン食ったりの無茶食いでも、逆リバウンドですぐに体重は落ちてくれる。要は本当に脂肪を落とすことが肝心で、水分で体重を落とす(いわゆるやつれる状態)急激なものは身が本当に落ちないということなんだろうと思う。本当にそうなのかは確かめようが無いので、少しづつを着実に積み重ねるより無いのである。
運動の方は気休めである。これは効果を期待するというより、気持ちがいいのでやった方がいいという感じかもしれない。それに腹が減ったら外に出て歩いたりすると、不思議と食欲が落ちる。一所懸命運動すると、ご褒美に食べてしまったりするので要注意だ。運動で体重を落とすのは合理的では無くて、しかし意識づけのために併用するということなんだと思われる。なにもしないと精神的なファイトがわかない。そういう意味でも歩きながら計画を確認するということの方が意義深いのかもしれない。
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当たり前すぎる車社会
2012-04-12
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境界線
都市部の若い人が、時々車の免許証を持っていないという話をする場合がある。まあ、それ自体は特段何も思わないが、それが何か?という物言いをする場合に少しばかり不快に思う。思う理由は、何を優越感に浸ってるんだ?という気持ちになるためらしい。車の無い生活の快適さを自分の力でも無いくせに誇っているように聞こえる。さらにそう思う田舎生活者のヒガミのような構図がさらに気に食わない訳だ。車(自家用)は生活に必要だからという構図は、都市だろうと田舎だろうと考えてみると決定的な要素ではないが。
免許証を持っているのは身分証明のためという話も聞く。写真もあるしIDカードの無い日本社会には必要かつ便利であるということらしい。パスポートを持ってるから必要無いという話も聞くが、日本でパスポート持ってなきゃならないというのはかなり不便な印象も受ける。身分証明のために10万程度(免許証って平均どれくらいで取るものなのだろう)経費がかかるというのも考えものだが、考えてみると確かにそのような証明書というのは他にあんまり見当たらない。普段必要性は感じられないが、時々ものすごく面倒なことになりそうだ。
ひとつは免許証は普段携帯していることが多いということもあるだろう。電話は必需品で持ち歩いているが、免許証は無意識で持っているという感じかもしれない。車を運転しないだろうと思われる出張であっても、財布に免許証が入れっぱなしということは自然だ。僕が不慮の事故で死んだとしても、恐らく免許証で身元の確認はされるに違いない。
僕は特に車好きな人間ではないが、車のある生活というのはあまりにも当たり前で、いわば空気のようなもので、意識はしないが、それがあるから自由に空を飛べる鳥としての生き方のようなものを感じる。現代人に生まれてきたしあわせの形でもあろう。都市部の人は必要が無いことに喜びを持つのかもしれないが、恐らくそういう自由の一つを選択してないだけのことだろう。
また車の運転というのはまさに大人である証明ということでもあって、大人と子供を明確に分けている線引きという気がする。加害者になりうる社会的責任を担っているということでもあって、だから秩序の無い運転者は激しく嫌悪されることになるのではなかろうか。以前より飲酒運転に対する厳罰化が進んだのは、そのような大人としての人間像に対する責任への重圧度が増しているという裏返しでもあろう。
しかしながら車というのは、その自由のためにかなりのコストをかけていることは確かで、現代人は同じようにその車によって生活を縛られているということも言えるだろう。車社会のための社会的コストは、普通に舗装された道が縦横に走っている以上のものがありそうだ。地方だけの問題ではなく、むしろそのような都市化というものを作り上げた多くの要因は、自動車の影響力があってのことだろう。車に乗らない人の問題などはむしろ小さく無視できるほどのことだから、免許を取らない自由があるということも言えそうだ。車による物流が無ければ、都市部の自由など崩壊するだろう。
そういう意味では、自動車に乗れなくなる社会になることは、何らかの大きな社会的変換をもたらすものと考えられる。都市は崩壊するだろうし、田舎では自給を余儀なくされるかもしれない。そういう生活を支えているのはエネルギー問題であって、かつて日本はそのために戦争まで起した訳だ。空気のような自由なんて、やはりそれは幻想というべき儚いものなのかもしれない。
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発見と評価とポロック
2012-04-11
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culture
ポロックの絵画はまったく知らなかった訳ではないが、特に興味も無く、そしてむしろ近寄りがたい感じがしていて敬遠していたかもしれない。
見たままの印象を言うと、単なるむちゃくちゃな絵に過ぎないわけだが、妙にこの絵を評価する人たちが多いというのも、何となく嫌な感じの画家だと思っていた。いわゆる計算されつくして描かれているということらしいのだが、胡散臭い。
筆で線を描くということをやめて、絵具をキャンパスに落として描く。それはアメリカの先住民の部族の砂絵がルーツにもあるし、また自然を表現するフラクタルという概念にも通じるものがあるらしい。事実そのような模様にもなっており、贋作とも区別がつくのだという。そのパターンを解析すると自然の風景を観るのと同じような心の平安ももたらされるものらしい。
さらに絵を分解して解析していくと、抽象として形を一切拒否しているかに見えるものにも、人間や動物などの形を描いていたということにも推理が及んでいた。
ポロック自身はこのような絵を「発明」して名声をほしいままにしておりながら、その後その技法を捨て、さらに絵すら描かなくなり、飲酒運転で事故を起こし死亡している。実際にどうなのかは知らないが、彼の発明と評価が絵画史の革命を起こすことになり、その重みに自分自身が破滅してしまったようにも感じられる。
一般的にそのような近代絵画の発明については、ピカソがとくに有名ではあるが、しかし彼においても、絵を描くということについては、やはりその常識の範囲内のことだったようにも感じられる。ポロックは人間が絵を描くということすら逸脱した絵を描いたことで(なんだか矛盾がありますね。無視してください)大きく近代絵画にショックを与えたものだが、しかしその後その期待にこたえることはできなくなってしまったのだろう。
なんだか悲しい出来事だが、彼の描いた絵の世界は現在もなお、大きな衝撃を持ったまま評価され続けている。ある評論家は、芸術がパリからニューヨークに移転したのだとも言っていた。芸術に地域性が残っていることに前近代さを感じさせられるが、実際にそうなってしまったというのは事実らしい。絵画というのも政治的である。
面白いと言えば、猿の描いた絵やゾウの描いた絵が、高値で取引されるということもトピックとして聞いたことがあるようだ。芸術性というのはそういうものも含んでいるのだろうけど、普通に考えて、やはり何となく行き過ぎという感は否めない。ポロックが原型では無いのかもしれないが、ポロックが評価されるという下地には、そのような考え方があるような気がする。
大変に面白く勉強になったが、僕には分からなくてもいいというのもよく分かった。一方で僕はカンディンスキーが好きだというのもあって、人間の感情と絵画というものには漠然と興味は残っている。実際にポロックは自然を描くということをしていたというのははっきりしていて、それを読み説かれるということには異存はなかったに違いない。問題はやはり、自然を取り込みながら、人間の思惑という不自然な世界に足を踏みこんでしまったのかもしれない。恐ろしいのは人間のそのような思いこみのようなもので、まさに現代の怪談じみた不気味な現実が彼を取りこんでしまったということなのであろう。
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足がしびれて考えたこと
2012-04-10
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雑記
法事があって長時間正座をせざるを得なかった。これがまた久しぶりにかなり強烈にしびれてしまって本当に閉口した。住職が早めに来て雑談を始めたのが何となく嫌な予感がしてたんだけど、お経自体もサービス満点で長かった。お経のつなぎの度にもう終わりではないかと期待したが、その期待はことごとく裏切られた。やっと解放された時にはどの様にしびれているのかさえ良く分からなくなっていた。
それにしても足を崩すことは何度も考えたのだが、後ろに座っている子供たちだって正座してるんだしな、というのが抑止力になったように思う。僕は、いわゆる見栄というのを一切しないことを人生の目標にしている訳だが(それがなかなか難しいんだな)、子供の前では見栄を張るものらしいということを改めて発見した訳だ。情けないが人間がまだまだです。教育上も良くないと反省した。
足がしびれているんだけど、せっかくのお経を聞くというつまらない時間なので、いろいろ物思いにふけって自由を謳歌しようと考えたのだが、苦痛というのはそういう自由な思想も縛るということもよくわかった。他のことを考えようにも、いつの間にかそれにつけても足の痛さよ、ということに収斂してしまう。なるほど拷問というのはあんがい有効な手段なのかもしれないと思ったことだった。
正座していて苦しんでいるときに度々思い出すのは、香港人の友人が、日本人は足が短くてうらやましいと言っていたことだ。諸外国の人々は日本人のように足が短くないから正座がつらくてかわいそうなのだとか。正座は日本の文化だという勘違いも変だが、こういう馬鹿に仕方は西洋人と同じだなあと思ったことだった。さすがに英国文化の根付いた土地柄の人である。
夜になっても足の調子が悪くて歩くのにも具合が悪い感じだった。こういうことがあるから日頃からある程度は正座に慣れておく必要もあるかもしれないと考えることはあるんだけど、そういう思いつきはたいして良いものでは無いらしく、実行することはしない。見栄を張らない心の強さが新ためて必要な訳だが、人間は人目を気にすることを進化の途上で身に付けた生き物であるらしい。いわば本能を覆す必要がある訳で、ゆえにその道は険しい。自分をさらに追い込む必要もあるかもしれないということで、そういう修行に正座を用いるということも合理的なのではなかろうか。
さてしかし、そのためには誰かに死んでもらわなければ機会が得られそうにない。苦痛というのはそのように罪深いことのようである。
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射程
2012-04-09
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読書
射程/井上靖著(新潮文庫)
養老さんが夢中になって読んで駅を乗り過ごしたと書いていて、衝動的に手に取った。そういう気分を味わいたかったからで、そして共有したかったからだ。そうして読み始めて、その意味は良く分かった。確かになかなかやめられない。子供に携帯やゲームを叱る気になれない。たぶんこの小説を読んでいるようなものなのだろう。
お話はサクセス・ストーリーだし、恋愛ものなのかもしれない。いや、やはり夢というか人間の感情の不条理のことかもしれない。自分が何に狙いを定めるか、そのターゲットを決めているのは何故なのか。読んでいるときは本の題名が射程である意味なんて分からない。読み終わる頃になって、ああそういうことだったのかと、やっと理解できる。だいたいそういう話なんだということは、最初はちっとも関係なさそうな気がする。むしろこのような終わり方は、話の流れからして何となく唐突で、いや、エピローグに近づいているのは予想できたにせよ、その悲しさのようなものが何故か、非常に冷たいもののように感じられた。生身の女の人を思う気持ちというより、あくまで身勝手な幻想を追い続けていたかのような、落語の夢落ちのお話を聞いた時のような…。
僕は主人公のような判断はとてもできないとも思う。思考の仕方が違うせいだろう。しかしながら仕事においては、多かれ少なかれそのような判断をしなければならないことはあって、立ち回りや実行方法には、そんなに違いはなさそうにも思えた。そういうところが妙にリアルで、坦々とではあるが運よく金を積み上げていくスリリングさが楽しいのかもしれない。楽しいが、しかし金を積むことが本当には目的で無いことも、薄々伝わってくる。金を得ようとする貪欲さは確かにあるのだけれど、しかしその金を得ていることが幸福と直結していないというか、金を得ることで自分をある一定の客観的な立場として、あこがれの女性との釣り合いのために上り詰めるというか。そういうことをする意味は僕には良く分からないのだが、主人公には大変に大切なことなのだ。そうしてそのような人間的にふさわしい人物に上り詰めたように思えてもなお、さらに上を目指そうとすることで、自分の度量を踏み外してしまうことも、また彼の持つ運命的なものだったのだろうか。
小説なのだからエンターテイメントとして素直に楽しめばいい訳なのだが、読み終ってもなお、不思議な余韻に浸っている。面白いだけでなく、何か訳のわからない人間の不思議さのようなものに考えさせられてしまう。主人公が出会った人々は、現代社会にはそんなに沢山は居なくなってしまった人々のようにも思えるが、しかし、同時にやはり今現在もどこかにいるのかもしれない。小説というのはそういう現実を、実際に目の前に生き返らせる技法のことなのかもしれない。それは作りものだからこそ、妙にリアルに心に残るということなのだろう。
電車に持ち込むには、確かに危険な書物として、読み継がれる物語なのだろう。
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口パクすれば…
2012-04-08
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時事
今更感のある話題だけど、君が代斉唱チェック事件というのが関心の高い話題だったらしいと聞いた。確かに反応しやすいというか、なんかいろいろ言いたくなる事件だったらしい。真っ向意見が対立するように見えるのは、事件そのものの是非よりむしろ、誤解されて暴走している世論という気がしないではない。
起立して君が代を斉唱するということ自体は、ごく当たり前だが圧倒的に肯定されている。やらない先生がどんな信念か知らないが、教師という職業を選択したのが最大の誤りだった可能性が高い。教師を選べない大衆にとって、まさに脅威の極悪人といったところなのだろう。教師の信用をガタ落ちさせているだけのテロリストといってもいいかもしれない。それが目的だったのなら、見事に大成功だ。
問題がズレ出すのは、君が代を斉唱しているかどうかチェックを行った校長の行動に、行き過ぎた異常性を感じる人が多いという点にあるようだ。決まりに従わない教師もけしからんことであるにせよ、そこまでするのはいやらしいというか、そんな印象も確かに受ける。
しかしながら実情としては、教育委員会からの指示に従って真面目にチェックした校長が居たにすぎないらしい。校長という名称から権力のありそうな管理職のようにも感じられるが、実態は違うようだ。したがって非難されるべきは校長なのではない。
そうすると普通に異常性があるのは教育委員会のはずなのだが、ここで議論は何故か橋下市制ということになってしまっている。話題の人に絡みたい心情は分からないではないが、ぜんぜん筋違いというところだろう。確かに橋下市長は右翼がかった思想の持ち主のようだが、多少そうだということで右翼ではなさそうだ。むしろ今までが左傾化しすぎているきらいもあって、中道でも右に見えすぎるということもあるのかもしれない。
それにしても、こういう問題を起こす教師って田舎ではとんと聞かない。僕が知らないだけなんだろうか。ともあれ大阪ってところは、やはり大変なところなのかもしれないです。
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ハチドリ・ロボット
2012-04-07
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雑記
AeroVironment/DARPA Nano Hummingbird UAV flying
米軍が支援して開発しているのだとか。ほとんど漫画チックなSFスパイものを想像してしまうが、現実だとやはりどこか可愛い。
萌えるという言葉は、オジサンとしては好きじゃないんだけど、こういうのはそういう気分になる動画なのであります。
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作りたいのは家庭料理
2012-04-06
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食
録画していた今日の料理を見ていたら、マロンさんという人が料理を作っていた。この業界もいろんな人が出てくるね。
それがまあ、簡単そうで、そして旨そうなんである。僕は料理は不得意だけど、一人暮らしでも何とかなりそうな気がしたね。したけど単なる錯覚だということくらいは自覚してますけど。それにひとり暮らしはしたくないし。
僕がマロンさんの料理の手際で感心したのは、なんというか、見た目を大切にするくせに、材料を無駄なく使おうとするというか、少しせこいような、いや、正確には、そつのない要領の良さを感じたからだ。
これは僕の偏見だが、どうもそっち系の人らしいマロンさんは、苦労しながらも自分というものに正直に向き合うことを止めなかったのではなかろうか。笑い方は妙だけれど、料理作りにすっかり心を打たれてしまったのだった。
知らないくせに言わせてもらうと、料理というのは、構成力という気がする。司会者と二人三脚だし陰でスタッフが手配をしているのは分かるのだけど、番組の構成を細かく理解して料理を展開しているのが良く分かった。もちろん多くの料理家がそのようにしている訳だけれど、既にかなり備わっている力強さを感じさせられた。もっとも僕以外の家族は既に彼のことを知っているらしく、そんなことが新鮮なのは僕の無知であるにすぎない訳だが。
僕自身も少しだけだがひとり暮らしの経験がある。誰も信じてくれないが、ちょっとだけ自炊していたこともある。友人を呼んで部屋でパーティだってやったことがあるくらいだ。イカの塩辛を作ってストックしたり、マメだったようなふりだってしてた。料理本は短編小説の代わりによく読んでいたので、何となく料理は出来る自信があったのだけど、結局技術が伴わず、それにやはり煩わしくて、いつの間にかやめてしまっただけのことである。料理が嫌いなのではなく、片付けるのが嫌いだっただけである(誰だってそうかも)。
番組は、一人暮らしを始める人を想定して、簡単料理を紹介するものらしい。誰も喜んでくれないけど、たまには料理を作ってみたいなあ、と思わないではない。以前ならパエリヤだとか鳥の丸焼きだとか大仰なものを作りたがったものだけど、普通のお惣菜のようなものを手早く作れるっていうのが、何よりの憧れだ。男の料理のようなものじゃなくてぜんぜんいい。
つれあいから怪訝がられるのは確実そうだけど、料理教室に行ってみたい気分であります。
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猫の戦い方
2012-04-05
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時事
タレントの猫ひろしがカンボジア代表でマラソン競技に出ることになったそうで、そうするとちょっと前からカンボジアに帰化してたんだろうな、というくらいにしか関心が無かった。雑談でその話題になって驚いたのは、結構批判的なことをいう人が多いことだった。いったい何故なんだろうと怪訝に思ったが、どうも狡猾な行動のように思えるものらしい。
僕は猫ひろしという人をよく知らないのだが、足の速い人がタレントにでもなったものかと思っていたら、何とかいう番組で走ったら速かったので走りだした人だという。それじゃまるで天才みたいじゃないか。ますます頭のいい人のように思えてきた。オリンピックに出るという目標に向かって、それなりに計画的に体を鍛えていったのだろう。それで標準記録まで満たすような事が、実際に出来たという実績も残せたらしい。なかなか凄いではないか。
ところがやはりそういうことがさらに批判の対象でもあるようで、実はカンボジアには有力な選手がいたのだが、猫ひろしが金で出場枠を買った疑惑なんかもあるらしい。ふーん。出場のためになりふり構わないというのは、人間的に汚いということなのかもしれない。
カンボジアの国の事情があって出場枠を買った(ようなことをした)というのであれば、確かに何となくはグレーな感じも無いではないが、カンボジアとしては日本人の猫ひろしに価値を認めているということでもあるんだろう。実際にオリンピックで活躍しそうなケニアなどのアフリカ勢の人を連れてこないことを考えると、あり得る話ということではありそうだ。もちろんケニアの選手が自ら国を変えないのは、やはり金銭的な問題もあるのかもしれないし、猫ひろしがタレントとして金銭的な余力をもった上で国をまたげるというのは、才能以上の能力を持っている証拠でもあるのだろう。
しかしながら逆に言うと国を変えて出場する選手は世界中にいる訳で(特に米国など。日本にもそれなりにいるはずだ)、もともとオリンピックの国別対抗というのは、最初からだいたいにおいて胡散臭いものではなかったろうか。世論の人々は、何をいまさらカマトトぶったことをいうものなのかとさらに不思議である。中には日本人としてどうだとかいうような、ちょっとアレな人もいるそうだ。日本人としては微塵も関係の無い問題だし、それを持ち出す考え方は倫理的に卑怯である。卑怯なのはルール違反をした人であるべきで、倫理問題で個人を縛るのは虐待や暴力と同じだ。
どうもそこのあたりが、またしても僕が猫ひろし同様外れ者になる理由らしい。もっともカンボジアの世論の大勢が、猫ひろしに出場するなということを言うのであれば、少しは理解できないではないが、そうであってもそういうことを出来てしまうルールの方を変えるべきことで、出場を辞退すべきだとかいう議論はやはり、由々しき問題のようにかえって思える。
夢に向かって努力をすることを奨励しておきながら、その個人の夢をつぶそうと考える精神的な貧しさは、どこからくるものなのだろうか。僕は猫ひろしの合理性を面白いと思うが、そのような発見をした人にこそチャレンジの機会があってしかるべきだと思うからだ。
本来公平というのはそういうことのような気がするのだが、やはり少しばかり文化的な違いのある問題ということなのかもしれない。まったく僕には、不思議なことの多い国である。
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便利になるのは愉快だが良くない
2012-04-04
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食
鹿児島から帰ってきたら2キロほど体重が違う。もちろん増えている。原因ははっきりしてて、よく食べたからだ。
鹿児島では黒豚を食うべしということわざもあるが(あるのか?)、何故か今回は地鶏の丸万に行った。焼き鳥としてあるが、普通の焼鳥屋では無い。実は二度目で、最初からここになるだろうという予感があった。何故ならべらぼうに旨いから。メニューは鳥皮と腿焼きしかない。キュウリもあるがそもそもメニューが見当たらない。赤塚不二夫が書いた絵が飾ってあって、店のマークもそうであるらしい。有名であるとは知らなかったが、名店で無いはずは無かろう。基本的に親父さんが切り盛りしてて、タイミングは難しいが、単純にあわてず飲むということにすればいいと思う。小汚い店だし、普通に灰皿もテーブルに置いてあるし、難しい人は近付いてはいけない。それがお互いの平和のためだろう。味は書く必要も無かろう。普通に夢中に食えばいいだけのことである。
ビール飲んで一杯だけ日本酒飲んで、あとは焼酎。鹿児島らしく最初からお燗がしてある焼酎。コップになみなみついでもらってガブガブ飲んだ。
今回はご年配の人と一緒だったのだが、何故かラーメンまで食おうということになった。一度入ったことはあったが、前回はあまりの行列に断念した豚とろに行くことになった。ちょうど満員という感じだったが、いつもより時間が早かったせいだろう。これも久しぶりに素晴らしい味で、ラーメンなんて美味しくなくていい論者である僕も、やはり旨いものには唸るしかない。とろけるチャーシューも又良し。漬物があるのは少しミステリーだけど。
朝飯は何故か天ぷらやらカレーを食べて、新幹線に乗る前にはチキン南蛮を食べた。特にもたれるということは無いから、調子に乗ってよくないことだ。僕には自覚が足りな過ぎる。反省も足りない。サルでもできることが僕には出来ていないということらしい。情けないが、鹿児島というのはそういうところという気がしないではない。近くなって大変に困ったことだ。また知覧に行こうなどと意気投合したりしたので、行先は崇高であっても、人間的に問題がある場合には、困ったことにしかならないようである。秋にも用事があるんだよな、困った困った。
そう言えばおみやげも明石屋のかるかんを買って帰ったら、つれあいが困ると言っていた。近いと迷惑な人は、やはり多いのかもしれない。
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桜祭り開催中です
2012-04-03
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掲示板
大村公園で一日販売しておりました。桜嫌い(ソメイヨシノ限定ですが)の僕でも、仕事なら仕方ありません。まあしかし、天気もよくてなかなか気持ちのいい一日ではありました。思わぬ友人知人とも会ったりして(そしてお買い上げいただいたりして)、皆さんの花見を楽しんでいる雰囲気に、ほのぼの致しました。噂によると天気も崩れそうだということで、何とかして馳せ参じたという人もいて、なるほど日本人は桜がつくづく好きなんだなあと感慨深かったです。僕の桜嫌いは繰り返し書いたのでもういいでしょうけど、特に寒いのが嫌いというのがあるので、今日のように暖かければ、実はそんなに嫌いでもないのかなとも思います。一気に咲き誇る花々は壮観といえばそうで、好きな人には見ごろなのだと思われます。それにお弁当広げて家族で眺めている風景は、悪いものではありません。自分から進んで見に行くことは、やはり無いでしょうけど。
お客は多かったのだけど、それほど売れもしないので、いろいろ人間観察して遊んで居りましいた。この少年が大きくなるとこのおやじになるんだな、とか。月曜というのがあるのか、圧倒的に親子連れが多くて、子供の成長が予想できるのが楽しいのでした。中にはなかなか複雑な似具合というのもあって、言っちゃ悪いけど悪い部分だけ受け継いだような子もいて、気の毒というか、なんというか。もちろんそうでないのはそんなに面白くも無いので、実に勝手な感想に過ぎない訳ですが。
という訳で、しばらく出店する予定らしいです。子供の入学式まで咲いていてくれると良い(僕の子もそうでした)という声もけっこう聞かれており、さて、来週まで持つもんでしょうかね。例年より遅かったということで、桜というのは妙な期待まで背負う花なんだと気の毒な感じも致します。だったらもう少し長い期間咲き誇るという手もありそうなので、植木屋さんはそのあたりの陰謀を抱いているに違いないと僕は踏んでおります。
追伸:それにしても風強く、まさしく荒天となってしまった。桜の見所は儚いです。
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僕らのミライへ逆回転
2012-04-02
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映画
僕らのミライへ逆回転/ミシェル・ゴンドリー監督
古い建物にあるマニアックなレンタルビデオ店は、立ち退きを迫られている。そうした中、電子的な事故(?)によってビデオの中身がすべて失われてしまい、仕方なくその内容のものを自分たちでリメイクして、いわばごまかして自主製作することになる。ところがそのチープな作りがかえって話題を呼び、噂が噂を呼んで客が殺到する。しかしメジャー映画をそのままリメイクしているために不法コピーということになってしまい、かえって巨額の負債を抱えることになってしまうのだった。起死回生をかけて、オリジナルの映画製作に乗り出すことになるのだが…。
相変わらずのジャック・ブラックの激しいテンションの高さにウンザリしながらも、出演者はそこそこ豪華ながら物語はどんどんチープになっていって、なかなか楽しめる。何となくお説教くさくなりそうな感じもしそうで、そこそこで踏みとどまる自制も効いていて、これでいいのかどうか疑問が満載になりながらも、だんだん気分が温かくなるという不思議な感覚に捉われる。
そういう映画なんだということに納得できれば、これはなかなか良くできたファンタジーだと思った。実際の法律がどうなのかは知らんけど、このようなパロディをみんなで作るというのは、本当に楽しそうだ。チープだからアイディア勝負するしかないのだけど、似てるが似てないという変な映画になるところが、人気の出た秘密というところだろう。もちろんそんなセンスのいい客がそんなにいるとは思えないのだが…。
メジャー作品なのに非常にチープで馬鹿馬鹿しいのだけど、こういう作品がほのぼのと作られるという需要が、逆に大きな懐の深さを感じさせられる。いや、案外日本の方がこのような映画を好きだという人も多いような気がしないではない。もう少し厳密に法律を守るべきだという考えの人もいるのかもしれないが、何しろ適当に自由で、そしてなんだか公民館を中心とする身近なコミュニティのような感覚がある。
もちろん日本においても、多くのまちでは、そのようなコミュニティは崩壊してしまったような気がしないではないが、田舎では当たり前のようにいまだにちゃんと存在している。そういう社会をドキュメンタリーにしたら、このような映画になってしまうのではなかろうかと思ったのだった。
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春も散歩
2012-04-01
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散歩
決まったところを散歩するのに気分が乗らないというのはある。目新しさが足りない。
しかし春は違う。明らかに違う。同じ道が同じでなくなる季節。
花が咲き誇る美しさもさることながら、土や枝からモコモコとした活力が感じられる。太陽って偉大だなあと改めて感じさせられる。
理想的なのはぽかぽか暖かいよりも、風が冷たいくらいがちょうどいい。日の当る所よりも、日陰を選んで歩く。汗をかいて歩くのはちょっとめんどくさい。ブラブラ歩いていても、距離が出てしまうので、つい暑くなってしまう。暑いの苦手なんだよね。寒いのも苦手だけど…。
いつもの道の劇的な変化に、杏月ちゃんもいつになく興奮しているようにも見える。しかし彼女も毛が黒いので、アスファルトの道は苦手みたいだ。暑いのはお互い嫌なんだろうね。
今から初夏までは本当に散歩が気持ちいい。いろいろやることがたくさんあるんなら、とりあえず外に出て散歩しようと思う。やりたいことのほとんどは、散歩してたら終わったも同然なのではないか(違うけど)。
そういう訳で、仕事は後回しにしたいと思います(ほんとにそうしたい!)。
しかし春はいろいろと新しいことをしたい人も多くなって、迷惑なんだよね。もう少し落ち着いてから、せめて暑くなって誰も気分が乗らなくなってからの方が冷静になっていいんじゃないかと思うんだけど、そういう共感はなかなか伝わらないものらしい。まあ僕の言葉なんていつだって独り言のようなものだから、そういう確認のために会話があるという気もするな。
仕方ないんで、杏月ちゃんとお話をして精神安定を保っている毎日であります。
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自己流とかオレ流なんてうへえと思っているくせに、我流しか通せない人間です。他人の後をついていってるつもりで迷子になるような…。
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