カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

既に得体が知れなくなりつつある

2012-04-22 | net & 社会

 日常やタイムリーさが重要であったり楽しかったりするのは皆さん理解しているところだろうけれど、考えてみると自分のそのような言葉というのは、恐らくずっと長い間ネット上にはアーカイブされているというのがなんだか不思議な気がする。残されているに違いないとは理解するものの、その言葉を検索するのはものすごく大変そうだ。そういう過去はよっぽど根気よく探す必要があるために、恐らくそんなことをする人はめったにいないだろう。しかしどんどんそのような情報は積み上がっていき、パンクしたりしないのだろうかと思うのだ。あるいはそのような保存機関の大手のものは、いわゆる民間の企業であったりする訳で、公共のものより信用できるとはいえ、可能性として倒産なんかしたりすると、そのような情報というのはどうなってしまうのだろうか。
 いわゆる膨大すぎる量になると、そういう情報そのものを溜めておいても、検索できなくなって、どんどん埋もれていくようなイメージがあるのかもしれない。ある程度リテラシーのある人ならば、そのような埋もれたものであっても探し出すことが出来るのかもしれないけれど、むしろ無料で便利に使っているだけの人が、有料で過去のことを調べたりする時代もやってくるかもしれない。
 検索というのは誰でもできるようでいて、かなりその技術に差があるらしいこともあって、情報を探したり編集したりすることが、特殊な技能として重宝がられるということは十分に考えられる。または過去のものは、案外既に情報として劣化しているものがあるような気もするし、そうすると、そういう劣化したものを、金属の錆を落とすように、再生させるという技術者だって存在するのかもしれない。情報は新しいから必要ということでは無くて、実際にはそのように積み上がったものをどのように再生させうるか、ということの方にも大きな比重があって、例えば数十年後にわれわれのつぶやいた言葉の貴重さというものが発掘されるということも起こりうるのではあるまいか。
 現在は既に大海の中に紛れ込んでしまってどうにもならないものであっても、その中の成分を抽出するように情報を取り出すということが、将来的には必要になる可能性もあるのではないか。
 これまでの文献などを読みこんだり発掘したりする作業であっても、膨大で気の遠くなるような情報量であったと思われるのだけれど、これからのネット上に埋もれている情報を検索発掘編集したりする作業においても、未来の人間は大変な苦労をすることになるのではあるまいか。より正確なものを知ろうとするあまり、大変な時間の徒労を味わうことになる人間が現れるに違いないと思うのである。ただでさえものを捨てられないという人も多いだろうと思われる中で、ネット上であるからという理由で溜めこんでいくものというのは、なんだか恐ろしげな塊がどんどん増殖していくような気がしてならないのである。
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