カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

猫の戦い方

2012-04-05 | 時事

 タレントの猫ひろしがカンボジア代表でマラソン競技に出ることになったそうで、そうするとちょっと前からカンボジアに帰化してたんだろうな、というくらいにしか関心が無かった。雑談でその話題になって驚いたのは、結構批判的なことをいう人が多いことだった。いったい何故なんだろうと怪訝に思ったが、どうも狡猾な行動のように思えるものらしい。
 僕は猫ひろしという人をよく知らないのだが、足の速い人がタレントにでもなったものかと思っていたら、何とかいう番組で走ったら速かったので走りだした人だという。それじゃまるで天才みたいじゃないか。ますます頭のいい人のように思えてきた。オリンピックに出るという目標に向かって、それなりに計画的に体を鍛えていったのだろう。それで標準記録まで満たすような事が、実際に出来たという実績も残せたらしい。なかなか凄いではないか。
 ところがやはりそういうことがさらに批判の対象でもあるようで、実はカンボジアには有力な選手がいたのだが、猫ひろしが金で出場枠を買った疑惑なんかもあるらしい。ふーん。出場のためになりふり構わないというのは、人間的に汚いということなのかもしれない。
 カンボジアの国の事情があって出場枠を買った(ようなことをした)というのであれば、確かに何となくはグレーな感じも無いではないが、カンボジアとしては日本人の猫ひろしに価値を認めているということでもあるんだろう。実際にオリンピックで活躍しそうなケニアなどのアフリカ勢の人を連れてこないことを考えると、あり得る話ということではありそうだ。もちろんケニアの選手が自ら国を変えないのは、やはり金銭的な問題もあるのかもしれないし、猫ひろしがタレントとして金銭的な余力をもった上で国をまたげるというのは、才能以上の能力を持っている証拠でもあるのだろう。
 しかしながら逆に言うと国を変えて出場する選手は世界中にいる訳で(特に米国など。日本にもそれなりにいるはずだ)、もともとオリンピックの国別対抗というのは、最初からだいたいにおいて胡散臭いものではなかったろうか。世論の人々は、何をいまさらカマトトぶったことをいうものなのかとさらに不思議である。中には日本人としてどうだとかいうような、ちょっとアレな人もいるそうだ。日本人としては微塵も関係の無い問題だし、それを持ち出す考え方は倫理的に卑怯である。卑怯なのはルール違反をした人であるべきで、倫理問題で個人を縛るのは虐待や暴力と同じだ。
 どうもそこのあたりが、またしても僕が猫ひろし同様外れ者になる理由らしい。もっともカンボジアの世論の大勢が、猫ひろしに出場するなということを言うのであれば、少しは理解できないではないが、そうであってもそういうことを出来てしまうルールの方を変えるべきことで、出場を辞退すべきだとかいう議論はやはり、由々しき問題のようにかえって思える。
 夢に向かって努力をすることを奨励しておきながら、その個人の夢をつぶそうと考える精神的な貧しさは、どこからくるものなのだろうか。僕は猫ひろしの合理性を面白いと思うが、そのような発見をした人にこそチャレンジの機会があってしかるべきだと思うからだ。
 本来公平というのはそういうことのような気がするのだが、やはり少しばかり文化的な違いのある問題ということなのかもしれない。まったく僕には、不思議なことの多い国である。
コメント (2)
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