カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

発見と評価とポロック

2012-04-11 | culture

 ポロックの絵画はまったく知らなかった訳ではないが、特に興味も無く、そしてむしろ近寄りがたい感じがしていて敬遠していたかもしれない。
 見たままの印象を言うと、単なるむちゃくちゃな絵に過ぎないわけだが、妙にこの絵を評価する人たちが多いというのも、何となく嫌な感じの画家だと思っていた。いわゆる計算されつくして描かれているということらしいのだが、胡散臭い。
 筆で線を描くということをやめて、絵具をキャンパスに落として描く。それはアメリカの先住民の部族の砂絵がルーツにもあるし、また自然を表現するフラクタルという概念にも通じるものがあるらしい。事実そのような模様にもなっており、贋作とも区別がつくのだという。そのパターンを解析すると自然の風景を観るのと同じような心の平安ももたらされるものらしい。
 さらに絵を分解して解析していくと、抽象として形を一切拒否しているかに見えるものにも、人間や動物などの形を描いていたということにも推理が及んでいた。
 ポロック自身はこのような絵を「発明」して名声をほしいままにしておりながら、その後その技法を捨て、さらに絵すら描かなくなり、飲酒運転で事故を起こし死亡している。実際にどうなのかは知らないが、彼の発明と評価が絵画史の革命を起こすことになり、その重みに自分自身が破滅してしまったようにも感じられる。
 一般的にそのような近代絵画の発明については、ピカソがとくに有名ではあるが、しかし彼においても、絵を描くということについては、やはりその常識の範囲内のことだったようにも感じられる。ポロックは人間が絵を描くということすら逸脱した絵を描いたことで(なんだか矛盾がありますね。無視してください)大きく近代絵画にショックを与えたものだが、しかしその後その期待にこたえることはできなくなってしまったのだろう。
 なんだか悲しい出来事だが、彼の描いた絵の世界は現在もなお、大きな衝撃を持ったまま評価され続けている。ある評論家は、芸術がパリからニューヨークに移転したのだとも言っていた。芸術に地域性が残っていることに前近代さを感じさせられるが、実際にそうなってしまったというのは事実らしい。絵画というのも政治的である。
 面白いと言えば、猿の描いた絵やゾウの描いた絵が、高値で取引されるということもトピックとして聞いたことがあるようだ。芸術性というのはそういうものも含んでいるのだろうけど、普通に考えて、やはり何となく行き過ぎという感は否めない。ポロックが原型では無いのかもしれないが、ポロックが評価されるという下地には、そのような考え方があるような気がする。
 大変に面白く勉強になったが、僕には分からなくてもいいというのもよく分かった。一方で僕はカンディンスキーが好きだというのもあって、人間の感情と絵画というものには漠然と興味は残っている。実際にポロックは自然を描くということをしていたというのははっきりしていて、それを読み説かれるということには異存はなかったに違いない。問題はやはり、自然を取り込みながら、人間の思惑という不自然な世界に足を踏みこんでしまったのかもしれない。恐ろしいのは人間のそのような思いこみのようなもので、まさに現代の怪談じみた不気味な現実が彼を取りこんでしまったということなのであろう。
コメント
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