カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

射程

2012-04-09 | 読書
射程/井上靖著(新潮文庫)

 養老さんが夢中になって読んで駅を乗り過ごしたと書いていて、衝動的に手に取った。そういう気分を味わいたかったからで、そして共有したかったからだ。そうして読み始めて、その意味は良く分かった。確かになかなかやめられない。子供に携帯やゲームを叱る気になれない。たぶんこの小説を読んでいるようなものなのだろう。
 お話はサクセス・ストーリーだし、恋愛ものなのかもしれない。いや、やはり夢というか人間の感情の不条理のことかもしれない。自分が何に狙いを定めるか、そのターゲットを決めているのは何故なのか。読んでいるときは本の題名が射程である意味なんて分からない。読み終わる頃になって、ああそういうことだったのかと、やっと理解できる。だいたいそういう話なんだということは、最初はちっとも関係なさそうな気がする。むしろこのような終わり方は、話の流れからして何となく唐突で、いや、エピローグに近づいているのは予想できたにせよ、その悲しさのようなものが何故か、非常に冷たいもののように感じられた。生身の女の人を思う気持ちというより、あくまで身勝手な幻想を追い続けていたかのような、落語の夢落ちのお話を聞いた時のような…。
 僕は主人公のような判断はとてもできないとも思う。思考の仕方が違うせいだろう。しかしながら仕事においては、多かれ少なかれそのような判断をしなければならないことはあって、立ち回りや実行方法には、そんなに違いはなさそうにも思えた。そういうところが妙にリアルで、坦々とではあるが運よく金を積み上げていくスリリングさが楽しいのかもしれない。楽しいが、しかし金を積むことが本当には目的で無いことも、薄々伝わってくる。金を得ようとする貪欲さは確かにあるのだけれど、しかしその金を得ていることが幸福と直結していないというか、金を得ることで自分をある一定の客観的な立場として、あこがれの女性との釣り合いのために上り詰めるというか。そういうことをする意味は僕には良く分からないのだが、主人公には大変に大切なことなのだ。そうしてそのような人間的にふさわしい人物に上り詰めたように思えてもなお、さらに上を目指そうとすることで、自分の度量を踏み外してしまうことも、また彼の持つ運命的なものだったのだろうか。
 小説なのだからエンターテイメントとして素直に楽しめばいい訳なのだが、読み終ってもなお、不思議な余韻に浸っている。面白いだけでなく、何か訳のわからない人間の不思議さのようなものに考えさせられてしまう。主人公が出会った人々は、現代社会にはそんなに沢山は居なくなってしまった人々のようにも思えるが、しかし、同時にやはり今現在もどこかにいるのかもしれない。小説というのはそういう現実を、実際に目の前に生き返らせる技法のことなのかもしれない。それは作りものだからこそ、妙にリアルに心に残るということなのだろう。
 電車に持ち込むには、確かに危険な書物として、読み継がれる物語なのだろう。
コメント
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