カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

リトル・ランボーズ

2012-04-21 | 映画
リトル・ランボーズ/ガース・ジェニングス監督

 シルベスタ・スタローンのランボーの衝撃というのは確かにあったような気がする。学校でランボーのような格好している男の子も当然のように居たみたいだった。僕がランボーになりたかったかどうかは既に良く覚えていないが、当時さまざまにあったベトナム反戦映画より、僕らはこの映画で改めてベトナムの悲劇を考えたようにも思う。今となってみると他の映画の方が映画的には優れているものが多いようなのだけど、娯楽映画とセットになってなんだか考えさせられる映画としては、ランボーの役割は大きかったのではあるまいか。
 社会的には不器用で不適応な男であっても、戦闘能力とサバイバルする能力はけた外れというのも、ある意味でさまざまなサブカル文化を刺激したようにも感じる。ランボー以降の少年漫画のアウトロー的ヒーローの亜流も、大変に多く出現した。もちろんこの映画の監督も、そのような影響下にあってこの映画のアイディアを掴んだに違いないのである。僕らの共感の映画として、そしてそういう背景を通して成長する少年映画として、実に良くできた作品なのではなかろうか。
 子供の友情物語なのだけど、冴えないひ弱な男の子であっても、ある種の才能を認められることによって、逆転のヒーローになれるというお話でもある。そういう要素は少年の憧れでもあって、実際にはそう簡単ではないのだけれど、いわゆるお話的にはよくあるものである。そういう空想めいたものが上手く行くことで、実際にある生活や立場の閉塞感を打開したいと願っているのが、多かれ少なかれ男の子という存在という気がしないではない。ある種の魔法めいたものなのだが、それが自分自身の力である必要が、何より大切な気がする。
 ドラえもんのような共感は、ある意味で他力本願なので、何となく潔い感じがしない。ドラえもんは友人としてより、道具として欲しい夢なんだけど、そういう道具を使いこなせる人間としての憧れの方が、もっと重要な気がするのである。結局のび太が本当に重要なのは、あやとりが得意だったり拳銃の腕前が凄いところにあるような気がする。ぜんぜんだめなだけでは、共感が続かないのだ。
 ランボーのような超人的な力にあやかりたいのは確かだが、ランボーのようなヒーローものを映像化できる才能があるからこそ、少年は他の才能のある少年たちから一目置かれている。自分の何かを磨くことは、自分の持っている欲求の最大のものだということを、改めて思い出させてもらったような気がしたのだった。
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