カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

揺り戻しの材料にすべきではない

2012-04-20 | 時事

 木嶋裁判の死刑判決は予想されていたことではあるものの、そのことについて逆に反動的な報道が多かったように感じた。しかしながらその反応を見るにつけ、何を今更という気分になるのだった。たしかに被告人が事件を否認している中での状況証拠のみの判断というのは、もともと非常に難しいものがあるだろう。まっさらで物事を判断するというのはよく考えなくても不可能な話で、ある程度のパーソナリティから勘案せざるを得ないだろう。そうした判断を素人ができるのかという主張がある訳だが、そもそもの話から言えば、玄人が判断することで世論は納得しなかった歴史があったのだと思われる。そうであるならば、このような結果になることの方が必然という感じがする。
 このようなもともと極めて難しいと思われていた裁判について、玄人はあえて積極的な判断からは逃げているように見えていたことが、今までの最大の不満だったことは間違いなかろう。たとえ魔女狩りになる危険性があるとしても、裁判員裁判の利点は踏み込んで判断できるという期待が大きかったからだと思われる(僕はもともとそういうものでいいとは思っていなけれど)。そういう意味ではこのような結果には大変に意味があって、やはり報道時点でかなりの疑わしき人物は、相当な確率で有罪に持ち込めるということが分かってきたのではあるまいか。ひいてはそれが、今までないがしろにされてきたように思われる被害者の救済への視点も含んでいるのだとしたら、本来の意義深い制度移行への手ごたえが大きいということも、また考慮すべきであると思う。
 しかしながら確かにまだまだ問題点や改善されるべき点はいろいろあって、焦点はむしろそのようなものに踏み込んでいくことの方にシフトすべきという感じがした。その最大のものは裁判の事態の可視化問題という気がする。素人問題を本当に問題視するのならば、密室での取り調べはもちろん、裁判の守秘義務自体をもう少し明確化し、事件そのものを当事者が普通に経緯として語られるようにすべきだと思われる。その場だけでの判断ではなく、自分自身がいかに客観視して判断しているのかという抑止にもなるし、より証拠を細かく吟味する意識づけにもつながるのではないか。もちろん今でも慎重にそのような作業を行っているのであろうが、そのような場面を一般の人があまりに知らな過ぎていることが、今回のような不安の連鎖にもつながっているのではなかろうか。問題の本質は素人の負担がどうだというより、本当により充実した裁判を実行できるかということの方が大切なのだと思う。そういうものは誰か専門がやればいいし、自分には関係の無いことだという世論が一方にあって、その反省が大きく現在にいたっているということなのであろうから。
 判決を決めた後でも、出来れば被告には控訴して欲しいと思ったと、裁判員に選ばれたひとりは語った。実に素直な感想だと思うが、そうであるからこそ、玄人にまかせっきりにしてきた我々の責任はより重かったというべきなのだろうと思う。難しい判断だからこそ素人がより世論的な人間感覚を頼りに線を引くことをする。まちづくりや政治もそうなのだが、基本的にはそのようなものを考えることこそ、裁判員制度の本来の意義というべきものだろう。
 もともとこの制度は、焚き火をしていたら火事になったと言われる制度であった訳だが、思わぬ波及が期待できるような気もしている。当初は日本という社会にはなじまないと思われていたものではあるが、日本の市民というのは想像以上に熟成されてきているのではなかろうか。むしろそのような力を活かせていないことにこそ問題が大きくて、やりようによっては十分に力を発揮できているという証明にもなっているようにさえ思われる。既に裁判員制度にかかわっている人々もかなり多くなってきた現在、そのような経験を本当に活かしていく時期に入っているのではなかろうか。
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