カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

サボり癖

2006-09-06 | 雑記

 なんとなく敬遠していた仕事にめどが立ってきて、精神的に平穏が訪れる。嫌なだけだったんだなと思う。煩わしかったんだと思う。思うけれど、実はまだ全部済んだわけではない。本当はちょっとだけ済んだだけだ。それでもこれだけ嬉しいのだから、いっそのこと全部やってしまえばいいのだが、もう少し別のことをしてからにしたい。あくまで逃げ姿勢なのだ。
 仕事嫌いというか、やりたくないもんは仕方ないのだ。それじゃ駄目じゃないかと叱られるかもしれないけれど、どうしてもやらなければならない仕事であっても、納得がいかないものはある。自分の力ではどうしようもないので、しぶしぶやっているだけで、面白くもクソもない。むしろ自分自身が消耗していくような気がして、つらいのかもしれない。
 まあ、世の中のお父さん(別にお母さんでもいいんだけど、なんとなく共感するという意味で)達は、多かれ少なかれ、こういう哀愁を胸に秘め、仕事をしているに違いない。それだけが、なんとなく精神的な慰めである。つらいことは自分だけじゃないと思うしかつらくなくならない。
 宗教家などはそういう場合にも心の平穏を神様に癒してもらうのだろうな。しかし神は自分に宿っているわけで、自己完結しているところは偉いものである。僕はちっとも自己完結していないということである。
 考えてみると、自分自身でできることが少ない。だいぶ仕事は分散してやるようになっていて、僕自身が手をつけるというような作業がかなり減ってきた。手薄になっている雑用が主だという日も少なくない。「みんな忙しそうだから、僕がやっておきます」というような感じで、他人のやるべき雑用をやるのである。代表で会議に出ているのであっても、職場自体の利益というより、所属団体の雑用のようなものだ。僕の存在なんて、本来的にはどんどん不必要なものになっているのではないか。
 会社の社長など、ポスト的に偉い人ほど、自分自身の生産性は低いのだという話しがある。あれこれ人にやってもらう。運転は他人。資料も他人。コピーですら他人。スケジュールにメモも他人。もちろん自分自身でやれることには限度があろうけれど、段々自分自身でできることが少なくなってゆく。まったく自分で何もできない赤ん坊状態になって、初めて一流の社長になるのかもしれない。偉いって悲しい人のようだ。
 いやいや、まだまだ偉くなっている場合ではない。自分の生産性が落ちるということは、能力が落ちていることに他ならない。体操と一緒で、毎日少しずつ体を曲げていると、何ヵ月後には簡単に体が動くようになる。原理的には同じことで、使わなければできなくなってしまう。当たり前のことなのだ。
 まあ、いつもそこまでは思うには思う。しかし行動は伴わないわけで、人間というものは怠惰なものだ。いつも厳しい環境に自分を置くなんて、マゾっぽくてなんだか嫌だ。薬を飲んで24時間戦うのも、ひたすら恐ろしげだ。自分のペースで集中してやるなんていうのが理想だが、理想というヤツはできないから思うのだろう。
 愚痴も書いたし、やるとすっかな。ブログは少なくとも精神衛生上は役に立っているようである。
コメント
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