カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

なりゆきで、正義の味方になれるか ホテル・ルワンダ

2006-09-20 | 映画
ホテル・ルワンダ/テリー・ジョージ監督
 ジェノサイド(大量虐殺)を考えるということになると、正直に言ってよくわからない。どうしてこんなに殺してしまわなければならなかったのか。
なんとなく思うのは、後ろめたさではないかとも思う。いちど踏み越えてしまって歯止めがきかなくなる。やめてしまったら、悪いことを認めたことにならないか。正当化するためさらに殺すしかない。
 不平等感もあったのだろう。もともとがどうかは議論があるだろうが、加害者側のフツ族は下等な種族とされていたようである。政権が逆転したが、すぐには相対的に好転しなかった。戦後すぐの日本を見てもわかるが、皆が貧乏なうちは何とかなったが、格差がつくにつれ凶悪犯罪も多くなった。今の米国なども同じようなものだ。テロの問題も経済格差だということが需要な要素である。
 純粋な種族というヤツも危ない。すぐに思い起こすのはナチスだろうが、歴史は繰り返すらしい。ということは、そういう考え方は人間の特性らしいともわかる。だからこういう側面は、実はどこの国でもあるようだ。米国であってもインディアンの大虐殺を経験している。日本でも議論はあるにせよ、やっているのは間違いなかろう。その上今でも純粋な日本人という幻想を時々聞いたりする。馬鹿げているが、いっている人たちは純粋に真剣らしい。民族のよって民度が高いだの低いだの、真剣に言うほど無頓着な神経に容易になるようなのだ。だからといって物事が解決するはずがないではないか。絶滅させると気が済むように見えるが、ただ取り返しがつかなくなるだけである。
 この映画はそういう虐殺の恐ろしさがまずある。ゴキブリの臭いがするという表現に、言いようのない嫌悪と恐ろしさを感じる。首に掛けているIDカード(なんだろうか)以外に、民族の違いを見分けられないくせにである。はっきりいってむちゃくちゃだ。そういう感覚がなにより恐ろしい。男や子供は殴られたり耳をそがれたりの拷問の上殺され、選ばれた女は監禁され性の慰みものにされてしまう。圧倒的な暴力の前になす術はないように見える。少なくとも、個人の力ではどうしようもない。
 ひとつの見方は、ある意味で西側社会への批判だ。見殺しにする事実を見つめるべきだ。そのことはこの映画を見た多くの人に十分に伝わったことだろう。内戦に他国が干渉するのは問題も多いが、人命をどうするかという問題は緊急性がある。こういう現実があったということを正視する人間は、自分に何ができるか、考えずにいられないだろう。
 しかし、やはりそのためにさらに相手側を殺していいかというのは、難しいが、本当には正当化はできない。相手を殺さず助けることができないにしろである。正当化しなければ介入できないのだろうが、殺してしまうことの責任を感じる必要はあるのではないか。また、ある程度の期間の監視まで含めて考えると、介入の難しさは語りがたい。そうして時期を逃して、結果的にジェノサイドを許してしまったのかもしれない。
 主人公は結婚した妻がツチ族である。民族意識がまったく無いようには見えないが、最初は家族さえ守ればよいという感覚であったようだ。虐殺が始まって精神的葛藤はあるようだけれど、成り行き上守る立場になっていくという感じにリアリティがある。これだけのリスクを背負いながら、不条理を呪いながらも正義感を奮い立たせようとしている。ホテルの支配人という経験を活かして、社会と人間を知っているからこそ、狡猾に立ち回っている。銃のような武器を持たずに果敢に立ち向かう姿に、並々ならぬ勇気を感じる。処世術に長けるということは、生きる術に長けているということなのであろう。それは、精神的に自由だからこそ成し遂げられるのではないだろうか。
 虐殺する側は、なんどもなんどもやってくる。まるでゾンビ映画だ。ホテルは牙城だが、城壁で守られているわけではない。もともと客を自由に受け入れる役割のホテルなのだ。主人公はあらゆるコネを使って逆境を切り抜けていく。それでもいつまでも賄賂の原資があるわけではない。あくまで、その場しのぎに過ぎないのである。
 結局は反乱軍が隆起したようだ。フツ族がナタで虐殺したように、もともと豊かな環境なのではなかったのではないか。弱い立場が凶暴化する。そういう気がしてならない。だからといって暴力で口火を切ると歯止めがきかなくなる。平たく言うとキレてしまうのだろう。たとえそれが一過性であっても、亡くなった人は元には戻らない。生命は壊れると元に戻らないはかないものだ。そういうことは、多くの犠牲の上に理解されるものなのだろうか。人間はこれだけの歴史を重ねながら、いまだに学ぶことが困難だ。アフリカの問題が人間の叡智で守れないのは、人間の現在の叡智そのものが、いまだに未熟な所為なのではないだろうか。
 いや、こういう映画を見て、何を考えるか。僕らにできることは、これからのことなのである。未見の人は、つらくても見て欲しいと思う。子供でも見ることができるように、直接の残酷場面は極力少なくしているようである。そういう意味でも、大変にすぐれた映画ではないだろうか。
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