カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

坂東眞砂子を支持する

2006-09-23 | 時事
 毎日新聞の朝刊を読んでいたら坂東眞砂子の弁明文が載っていた。なんとなく気になっていたら「きっこのブログ」などでもやっぱり非難囂々である。これはファシズムなんだからほとぼりが冷めるまで沈黙していたほうが無難だけれど、坂東という人はまじめなのかもしれないと思う。
 問題の坂東の文章を見たのは「きっこ」がきっかけではある。ものすごい非難の仕方なので、精神的にどうかしてしまってこういうことをしているのだろうかといぶかっていた。しかし、原文というものを読んでみると、別におかしなことを書いているようには思えない。確かに猫を殺すまではすることないんじゃないかとは思うけれど、そういう状況にいたった哲学はよく理解できる。生き方としてつらいだろうとは思うけれど、むしろ人間として正直であるし、自分のエゴを自覚しているという点では、無自覚なペット愛好家とは一線をおいて崇高ですらあると思う。世の中には物事を深く考え、不器用に生きている真摯な姿勢の人がいるものである。こういう不幸を背負いながら生きるのは大変だろうけれど、僕も犬を飼っているエゴ人間なので、大いに啓蒙されるところがあった。いや、そういう自覚は小学生のころに一度徹底的に悩んで獲得したのだが、話が長くなるので割愛する。僕は普段はそこまで深刻にはこの問題は捉えていない。一種の逃避なのであろうと思う。
 論理的には坂東の文章は問題がないことは、今月号の文藝春秋の呉智英の文章を読んでもらいたい。どう考えてもよく考えずに一方的に非難して騒いでいるほうが短絡的である。タヒチの法律にのっとって裁くべきだという理屈を言う人は、日本の法律の基本になっている憲法9条をまともに解釈して自衛隊を解体すべきだといっているようなものであろう。よその国まで働きかけていじめようという考え方は、完全にファシズムであろう。そういう流れに坂東はさらに苦言を呈しているのだと思う。
 それにしてもひどいと非難する人たちは、せめて殺さないで自分に子猫をくれないかと何故言えないのだろう。かわいそうだとかひどいという時点で思考が止まってしまうのはまことに残念である。坂東の罪は、そういう表面的にしか読み取れないほどの行動の衝撃性であろう。しかし、こういう不幸を告白したから糾弾されるのは、また別の話ではないだろうか。
 僕は快楽でむやみに動物を殺す行為は嫌悪するが、動物に人間のような人格(仮にそういう感じのもの)があるという考え方には反対である。人間は動物の犠牲の罪を背負いながら文明社会を生きている宿命があるのだと思う。そういう罪の部分に目を覆ったまま無自覚に生きている人に警鐘をならしているのが坂東なのである。
 実験として殺される動物はよくてペットでは駄目だという線引きは、人間のエゴである。家畜だから殺してよいという牛をペットとして飼っている人だって、広い地球にはいるに違いない。彼がいくら嘆いても、人間は牛を殺し続け食うのであろう。
 僕は普段から長いものには巻かれて生きている。こういう問題はいわなければ済むことなのかもしれない。何しろ臆病だしわずらわしいので黙っていようと思ったが、ファシズムだけは戦うなどと以前言っていたのを思い出した。少なくとも一方的に非難の側に回って石をぶつける人間にだけはなりたくない。坂東のような変人であるが深く物事を考える役割の人がいなければ、人間はただ暴走するだけなのではないかとさえ思う。言いにくい状況だからこそ発言ができるという環境にないのなら、それはファシズムの証明になろう。せめて本当に偏見を捨てて、坂東の文章をもう一度読んでみてはどうだろうか。

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