カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

けっこう降ったようだ

2006-09-01 | 雑記
 二日酔をおして朝から役員会。車から降りて会場に入るまでで既にびっしょりと雨に濡れる。よく降るもんだ。傘を持ってたのだけど、車に乗るときに忘れてきてしまった。頭がさらに痛くなる。
 要望書を提出するにあたり、アンケート調査を行ったり、他県のデータなどを収集している。予想よりは少ない気もするが、差異は見られる。むしろ死活問題なので何とか持ちこたえていると考えるべきか。
 障害者の施設抱え込み問題などといわれているけれど、自宅に帰って何をしているかの調査はないがしろだ。単に一日テレビを見てすごすのが自立という現実だ。隠された虐待問題。風呂にだって入らない幽閉生活。そういう自活を奨励して、数値の上で目的達成に胸を張る行政担当者がいるわけで、頭が痛いというより、怒りを通り越して悲しくなる。
 こういうところで書くべきか躊躇するが、春からグループホーム利用者の妊娠が増えているとも聞く。もちろん当事者どうしで今後の見通しは立てられそうにない。爺さん臭いことをいうようだが、就職して自立して生活して家庭を持つというのは、個人の行いとはいえ、ある種の社会的な事業のようなものである。人が一人前というのは、実はものすごいことなのだ。いままでは家族単位で何とかそういう事業を行ってきたわけであるが、そういう風習的体制は事実上崩壊している。それに変わる社会体制を整えることが優先であって、個人還元を期待するだけで物事は解決しない。障害を持つ人が個人レベルで自活することは、本人にスーパーマンになれといっているようなものだ。結局無理に出して具体的な問題で破綻するまで続けるつもりなのだろう。
 午後からも引き続き作業と話し合い。いろいろと文章案でもめる。K又君がいると便利なんだけど、と個人的に思う。ああだこうだという割に、ちっとも修正がはかどらない。自分のいいたいことをそれぞれいうだけ言って、具体的に文章に還元しましょうという段になって、そういう趣旨をみなさんで何とかならないか、では、何とかなるわけないんじゃないか。個人的には最初の案で問題なかったんじゃないかとも思ったのだが、それじゃ、いままでの時間がなんだったのかということにもなってしまうのだろう。会長も呆れているのか何にもいわなくなった。僕は最初から何にもいう気はない。出すことが重要なのであり、美文が重要なのではない。
 やっと終わってかえろうと思ったら、高速道路は雨のため封鎖。既に小降りになっており、不条理にも思え、無念にも思う。
 渋滞の道を戻って、ジョニー・キャッシュを聞きながら帰るのであった。諦めてみると、この渋さはかえって心地よかった。
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タイムリーじゃない仕込み 9条どうでしょう/内田樹他共著

2006-09-01 | 読書
9条どうでしょう/内田樹他共著(毎日新聞社)0605
 普通は少し前のタイミングでタイムリーな本として紹介すべきなんだろうが、そういう時期だとやっぱりきな臭い感じがして躊躇していた。こういう問題を論じる時、みんな一所懸命になりすぎちゃって、ちゃんと考える前に疲れてしまう。僕にだって考えたいこともあるんだけれど、まともに聞いてくれない気がする。僕はある程度は聞いているつもりなので、そうするとなんとなく負けているようにも思われる。そういうのって、なんとなく不公平で損しているように思えてしまう。
 こういう題名なのは、憲法改正論について書かれているということを如実に表している。もちろん関心のある人を想定して読んでもらいたいためであろう。どのようなつもりでこの本を手に取ったのかという状況によって、上手く納得させられるものだろうかという単純な疑問もないではないが、普通の議論となっている論法とはちょっと違うことは確かである。人によってははぐらかされているような印象を持つ人もあるかもしれない。しかしながら、あんがいまっとうなのだから、混乱するのではないだろうか。
 あんがいまっとうだということは、今の代表的な憲法論議は、そんなにまっとうなのではないのではないか。僕の感覚では、そんな気もする。まともに話そうとするとたん、きな臭くなって感情的になって、ちっともまっとうな話にならない。
日本が戦争をするとかしないとかそういうことは、憲法の所為で制限されることなのかどうかも僕にはわからない。いや、理屈の上では戦争を放棄しているのだから戦争を制限しているわけだが、戦争という手段が時として必要なのではないかという疑問のある人もあるのだろう。戦争できる状態であるからこそ戦争を防げるという話も、当然のように聞こえるのである。
 戦争をするかしないかは自主的な問題なのだから、殴られたって殴り返さない人がいるように、自分がするかしないかの問題である。そんな意気地なしじゃ嫌だという人がいることはわかるけれど(僕だって、殴られることは嫌だけど…)そういう話は、やはり戦争してもいいという肯定ということと基本的には同じである。第一、そうなるかどうか、本当には誰もわからないくせに、ああだこうだいっているということについては、結局のところ不毛でしかないのだと思う。
 ああ、だから具体的にしたいのだ。という意見もよくわかる。しかし、本当のところ戦争をしたくないというホンネがあるのであるならば、やはり行動の問題なのではないかと思う。個人が集団として形成している国家の問題であるのだから、誰もが一致して話が統一できるはずもない。
 外交手段として、戦争という方法があるというのは、国家があるためであると思う。国家の単位として、軍備があるのはそのためであろう。9条がある国であっても、矛盾としてちゃんとした世界屈指の軍隊を持っている国があるように、条文と現実は元から違うのである。つまり、具体的問題は現実であり、条文なのではない。
 条文を具体的にすることは、今の矛盾を更に混乱させることになるのではないか。正しいことを行おうとして、せっかくの現実を損なおうとしているのではないか。戦争を行う正当な理由は、どこの国であろうと正義であろう。まともな国はろくなことをしないということの証明である。矛盾を抱えて後ろめたい国家が現実に半世紀以上もの長いあいだ戦争をすることはなかった。単にそういう時期だったということもいえなくはないが、誰がどう見ようと現実のことだったのではないか。現実を無視できるほど、人間は愚かなのであろうか。
 いつの間にか僕の憲法論議になったけれど、改憲論者に対しては、僕は何故か護憲論みたいになってしまう。しかしながら、日本国憲法のことだけを考えると、僕はひどいものだと思ってしまう。ああいう憲法が自分の国のものであるということが恥ずかしく情けない。何しろ日本語がきれいでない。センスとしてかっこ悪い。
 またまた混乱してしまうのでやめるけれど、落ち着いたときこそ憲法論ではないか。ちっともタイムリーでないからこそ、ゆっくり憲法のことを考えてみるといいんじゃないかと思う。どうせ先ではやかましい憲法論をぶつ連中が跋扈することが予想される。ちょっと先の未来にクールでいられる保険ということで、あえて今頃読んでおくことをお勧めするのである。
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