カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ドラフト肯定できますか?

2006-09-26 | 時事
 高校生のドラフトが行われた。注目度として盛り上がるのはよく分かるが、なんとなく好きではない。これで人生のすべてが決まってしまうとまでは思わないけれど、ある意味では就職先を勝手に決められるようなものなのではないか。師匠などが、どこに行けというのなら、まあそれも仕方がないと思う。そういう封建的な選択をして師匠を選んだ(野球の強い高校などを選択するなど)ということもあろうからだ。しかしながらドラフトはちょっと違う。今では逆指名などもできるようではあるが、完全にその意思が尊重されるとは限らない。最終的には球団側が当日になって手をあげさえすれば、複数の球団による競争抽選(というんだっけ)されるというのがなんとも納得できない。
 ドラフト制度は人気球団に選手が偏らない公平な処置であると考えられているようだ。特に日本の場合、巨人軍の人気が飛びぬけている。以前にやっぱりドラフトはおかしいと愚痴っていたら、実際に野球部出身のヤツが解説してくれたことがある。日本の野球界は、見ているファンの状況よりさらに巨人軍優位なのであるということだった。高校野球の指導者などは、関西なら少しは違う可能性もあるが、圧倒的に巨人ファンなのだという。プロ野球というシステムは、巨人軍対その他なのであって、見ている人はアンチなどという存在があるが、もし巨人軍のユニフォームを着せられることができるのなら、私財をなげうっても教え子を送り込みたいというような指導者は少なくないという。日本の野球そのものが、巨人軍人気によって成り立っているのであって、ドラフトがなければ大変なことになるだろうというのである。
 僕は小学生の低学年の頃からアンチ巨人軍なのでびっくりしてしまったが、業界というのは外からは分からないものである。確かに見方として、ドラフトの成り立ちは認めてやろう。いまだにそれだけ強い影響力があるとは信じがたいが、日本というのはそれぐらい偏っている可能性は確かにあるのだろう。
 しかし、それでもいいんじゃないかという気もするのである。偏った人気で選手が集まってもかまわないのではないか。高校生の有望選手がまとめて巨人軍を目指すというのは、確かに由々しき問題だ。しかし、当然限度があって、誰でも入れるものでもあるまい。そういうことでも巨人は優位に違いないが、球団が強くなるというのはそういう要因だけではないような気がする。実際に試合をするのは選手なんだけれど、監督がかわったり、フロントの方針が変わると、当然チームの強さが激変するではないか。ボールゲームという複雑なスポーツにおいては、未知数の素材のみで将来が決定するとは考えにくいのではないか。
 それよりも何よりも、可能性としての思惑ということだけで、個人の将来が決められるということに最大の疑問がある。江川問題や桑田問題があったように、個人の反乱は繰り返されている。できる人のゴリ押しは通って、控えめな人の正直は通らないというのがなにより残念だ。今回も沖縄の大嶺の動向が不透明だが、一年棒に振るより選択がないというのは、不条理である。もしこのままドラフトに従わないとすると、選手の側の単なる選択にもかかわらず、恐らくロッテファンは複雑な心境のまま将来どこかの球団で活躍するかもしれない大嶺のことを受け入れることは難しいだろう。
 こういう罪作りな制度ならば、巨人軍以外の他球団のほうから、ドラフトはやめようと提案するべきなのではないか。逆に自分の卑屈な立場を正当化してしまって、恥ずかしくならないのか。正々堂々と実力をつけて巨人軍を倒すという気概がないから、益々巨人軍にバカにされるのである。
 僕としてはそう思うのだが、そういえば以前受験戦争を止めてしまおうということで、誰でも東大に入れるということにすると少しは受験戦争緩和になるんじゃないかという話があったことを思い出した。なるほどそれなら東大の価値も相対的に低下し、競争する必要がなくなる可能性はある。しかしすんなりその案は却下された。自由になっても東大希望者は減らないというのである。自由になったからこそ全員東大生となりかねないのか日本人なんだというのである。まあ、この話はジョークなんだろうけれど、工藤なんかも給料が下がってもゴネて巨人に入ったくらいである。高校生のみならず、日本人の趣向性というのはそういうものなのかもしれない。僕には理解できないが、だから世論はドラフトを肯定しているのかもしれない。
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宮崎あおいの完成度/好きだ、

2006-09-26 | 映画
好きだ、/石川寛監督0609
 宮崎あおいに熱中しているように思われるかもしれないが、その通りである。その通りではあるが、昔から知っていたとはあまり意識的ではなかった。この映画を観ていてなんとなく思い出したが、確かに以前から見ている。「ユリイカ」に出ていたのだとは聞いていて、そうだったかなという程度にしか認識していなかった。この映画を観て思い出したのは、ゆるさがなんとなく似ているからかもしれない。
 「ユリイカ」は非常に評価の高かった作品だが、正直言ってかなり退屈だ。西洋人は日本のことをよく知らないので、勘違いして高い評価をしてしまったのだろうと疑っている。僕はためしに後半部分を早送りしてみてみたが、それでも動きが遅かったぐらいだ。ひどすぎる。芸術だといっているヤツは、このつらさを多くの人に共有してもらいたかっただけなのではないか。自分だけではずるい、ということで…。
 さて、「好きだ、」も映画館でみた人がいるのだろうと思うと、お気の毒であった。カップルで期待を持ってみた人も、困ったなあなどと思いながら観たのではないか。まあ、悪い話ではないような雰囲気は持っているんだけど、この映画をほめるのもなんとなくかっこつけているみたいでかっこ悪い。そういう人は誰か他に友達でも作ってみたらどうか、と言いたくなる。付き合うのがつらいのである。
 まあ、僕は変人だから、退屈な映画が必ずしも嫌いなわけではない。もう少し失敗作だと、僕は知っている、という感じがして満足できるのだが、適当に狙ったコマーシャルさが鼻につくのかもしれない。どうだ、よくできているだろう、という優等生っぽい感じが癪に障るのだろう。そうまでして賞を取りたいのね、といいたくなってしまう。賞さえ取れなかったら、まさに悲惨だったのではないか。
 「普通っぽい感じが見事な演出」というのは、外国人が好きな傾向だ。このよくワケの分からない日本の日常っぽい感じが、たぶん評価されているのである。しかしながら、僕たち日本の青年達は、こういうたるい日常を喜んでいる場合ではない。突拍子もない事件もおこるが、説明として説得力がない。こんなことは、普通はおこらない。ちっとも本当の日本の日常と違うじゃん。嘘をついて日本っぽさを演出しては駄目ではないか。

 翌朝当たり前のように連ドラで宮崎あおいを観る。最初からこれをまじめに見るべきなのかもしれない。ほとんど出づっぱりで、ちょっと大人になってしまっていることが不満なぐらいで、少年のような声をたくさん聞けるだけでも幸せだ。もっと不満だとか小言だとか強がりをたくさん言って欲しい。最後に声を出さずに笑うだけで、宮崎あおいは完成するのである。
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