いつの間にやらすごい時代になっていて、
普段顔を合わせなくなった人でも、いまどこで誰が何をしているのか、
ネットだけで結構わかってしまうようになった。
顔を合わせなきゃいけないわけじゃないので、つながり方も色々で、
僕の場合はメッセージを交わすこともない程度の人とでも、
割と薄く幅広く受け容れている。
とりあえずなんとなくつながっているような人もいる。
現代の年賀状的なつながりというべきだろうか。
さて、なんとなくSNSのタイムラインを眺めていると、
そんなうっすらとしたつながりの人々の近況が眼に入る。
あれは面白いもので、投稿からはその人の頭の中がよくわかる。
何が好きで、嫌いで、何を考えていて、どんな語彙をもっているか。
語弊を恐れずに言えば思考レベルが丸わかりでもある。
そこに集うコメントをみると、
どういう人々と付き合っているのかもよくわかる。
例えば話題はアニメやゲーム、昔のマンガ、最近のテレビばかり、
そこにうすっぺらい言葉だけの共感コメントが並ぶ。
嬉しそうにそんな話題を交換しているところを見ると、
ああ、これくらいのマインドとか関係性が心地よい人だったのか、
と発見したり再認識したり。
かつて同じチームの中にいた人であれば尚更だ。
僕がかつてあれほどに熱弁を振るって伝えようとしたことも、
果たして消費税率ほども理解してもらえたかどうか。
僕とこれだけ頭の中身も友人関係も違えば、
そりゃあ同じチームで仲良くしてられるわけないよなぁ…と実感する。
お互い、無理してたんだなあ(笑)。
念のため断っておくけれど、どちらがレベルが高いとかアホだとか、
そういうところに言及するつもりはないんだよ。
ただ、僕が関心を持ち、
普段よく話題にするところとはまったく重ならないし、
彼らが嬉しそうに語る話題の面白さが僕には理解できないというだけで。
見るからに無難で、否定言辞がなく、
見た目の調和を偏重するやりとりにも、
僕の感覚では薄っぺらくて不安に映ってしまうけれど、
彼らはそれが心地いいんだろう。
当時から話題や意見、
興味関心のツボが噛み合わないなとは感じていたし、
「そんなのそれぞれが書いたコメントなんかを見てれば違いは明らかですよ、合うわけない」
と言ってくれた人もいた。
その時はさほど自覚してなかったというか、
自分がおかしいのかなとさえ思っていたが、
チームもなくなり10年以上も時が経ったいまや、
そりゃあ無理だよなあと思うことしきり。
僕がもっと大人であればよかった?
うーん、短期的にはしのげても、
あの密度で関係性を築かなければならないとなると、難しいなあ。
何より求心力たるお金を生んでなかったし(笑)。
チームがなくなって、業務の必要上から、
義務的に顔を合わせなければならない機会から解放されると、
そういうことがよくわかってくる。
それはもう見事に連絡もとらなくなるしね(笑)。
チーム維持のために、無理して合わない人とも付き合おうとすることが、
お互いどれほどのストレスであっただろうか。
多数派を形成できた方は敵意を共有して悪口で盛り上がれるからいいが、
孤立した側は自分の姿までもが歪んで見えて、疑わしく思えてきてしまう。
考えてみれば、
僕はこういう所属組織との不調和からくる衝突や孤立を、
少なくとも小学校・大学・音楽・前職と4度は繰り返している。
これだけ見るとまるで僕が社会不適合者のようだ(笑)。
でもその一方で、多様性を前提として個を尊重してくれた環境、
具体的に言えば中高時代の友人とは今でも親交がある。
つまり、誰しも環境さえ間違わなければ歪まずに済むのだ。
同調圧力の強い日本型の組織では、
異端を徹底的に否定し陰湿に排除する。
やられた側はあまりに周りが異口同音に自分の欠点をあげつらうので、
本当に自分がおかしいのかと思えてしまう。
絶望的な孤立の中では、せっかくの個性も殺されてしまう。
自分をいたずらに卑下・否定する前に、
とりあえず環境を思い切って変えてみること。
それこそは僕がお勧めしたい「生きるコツ」のようなもの。
僕にも経験があるが、
いまいる組織を離れたらどこにも行き場がなくなるんじゃないか、
という不安に囚われて動けないでいる人は多いだろう。
でも、それは錯覚だ。
「〜でなければいけない」「〜なんてできるわけない」は、
殆どが動かない自分を正当化する言い訳で、
恵まれない自分を慰める思い込み。
思い切って抜け出して棄ててみよう。
何を棄てたって、
時が経てば意外なくらいなんでも平気になるもんだ。
だいたい組織の中で嫌いにならないように
気を遣って無理に付き合ってた人って、
組織を出てみると大嫌いな人だったことに気付くよね。
そしてそれはたぶん、僕を追い出した人々も同じかもしれない。
合わない人とは付き合わないに限る。
百人の気を遣う知人より、一人の迷惑をかけ合える親友がいればいい。
僕のいた数々の組織についても、
いまさら誰が悪いなんて言うつもりもないけど、
相性というのは間違いなくあって、
僕はそれが合わないと我慢できないというだけ。
我慢するのが大人だみたいな価値観とは相容れない。
とにかく僕の場合で言えば、
自分に軸がなく周囲に合わせることだけを気にして頭を使いたがらない人や、
勝手な「常識」を振りかざす人、
なんでも馬鹿みたいにシンプルにすればいいと思っている乱暴な論法の人とは、
まったく合わない。
合わせようとも思わない。
僕の嫌いな三大因子、「思考停止・予定調和・同調圧力」。
そんな中でもしなやかに自分のやりたいことをできる人が、
大きなことを成し遂げられるのかも知れないけれど、
あいにく僕はその器じゃなかった。
窒息してしまいそうになる前に、抜け出すので精一杯だった。
ただ、例えばバンドを長続きさせるために、
あるいは安定的な収入を得るために、
そしてどこにおいても孤立しなくて済むために、
もっと自分が鈍感でものを考えない人間であったらなあなどとは、
夢にも思ったことはないし、微塵も感じたことはない。
僕にとって最優先すべきは、
サクセスよりもストレスフリーだ。
イヤだなと思ったことには黙ってないし、
ここはダメだなと思ったら、
後ろ指を指されながらでも抜け出した。
そうして環境を変えるたびに、
僕は確実に自由に、幸せになれた。
つまり僕は間違ってなかった。
そして、こういう風に肯定的に振り返れるのも、
少ないながらも理解してくれる人々がいてくれたおかげだと思う。
本当にワガママで尖って生意気な人間だったと思うけれど、
自分なりの誠意を携え、筋を通していれば、必ず認めてくれる人はいる。
お追従を言ったり、嘘をつかない分、信頼感は深いかもしれない。
僕はそういう人々を大切に生きてきた。
辛いとき、苦しいとき、孤立したときに、
そういった人々がどれほど自分の救いになってくれたか。
甘っちょろい慰めや安易な共感のフリじゃない。
自分の足りないところ、間違っているところは遠慮なく指摘もしてくれる。
おかげで修正もできる。
繰り返すけれど、百人の知人より一人の親友だ。
SNSは普段忙しくてなかなか会えない、
こういった貴重な知己達との絆を再確認させてくれる。
僕もまた、彼らに恥じない人間でありたいと思う。
…一方で、道を違えた人々の行く末を、成れの果てを、
可視化させてしまうのがSNSの怖いところでもある。
おかげで何年か経って冷静に振り返っても、
自分の感覚や選択は間違っていなかったと再確認できるのはいいが、
悪趣味な醍醐味と言うべきかもしれない。
我ながら低俗だなと思うけれど、
僕の主動力は反骨精神なのだからしょうがない。