…という主語に続けて、あなたならどんな言葉を続けるだろう?
…すばらしい。
…聡明だ。
…身勝手だ。
…罪深い。
…欲深い。
色々考えてみたんだけども、どうもネガティブな言葉ばかりが思い浮かぶ。
僕の人間観自体がネガティブなせいもあるのだろうけど(笑)。
人間は、進歩する、進化する。
しかし争いごとはやめられない。
人間は知恵を持つ。
しかし欲望の延長線上に自己破壊の結末が見えていても止まれない。
人間は、希望を持てる。
しかし絶望もする。
人間は調和する。
しかし裏切りもする。
人間は愛を語る。
しかし嘘もつく。
逆立ちしたって僕には性善説なんて一生とれそうにない。
だから僕がただひとつ言葉を続けるとしたら、
「信じられない」だろうか。
いや、ちがうな。
この言葉は「信じられるだろうか?」という問いかけに対する答だ。
僕に言わせればその問いかけ自体、ナンセンスだ。
「信じちゃいけない」だな。
何も、世の中を悲観して言ってるワケじゃない。
何か辛いことがあったわけでもないよ(笑)。
いつかここで語ったとおり、僕は悲観でも楽観でもない、「達観主義者」だ。
事実をありのままに認識し、
「しょーがねーじゃんよー」と受け容れる。
その前提となるべき事実として、「人間を信じちゃいけない」を挙げたいのだ。
ではなぜ人間を信じちゃいけないか。
信じられる人だっているじゃないか、
現に私にはそういう人がいるぞ、
単にお前の周りにロクデナシが多いだけじゃないのか、
予想される反論はこんなとこだろうか。
性善説の、正義派の、甘ちゃんの、世間知らずの、
きわめて思慮の浅い意見だと斬って捨てさせてもらう、すまん。
そういう人は、非常に限定的な条件下にあるということを自覚すべきだ。
すなわち、人間には理性と感情とがあり、
前者が後者を完全に制御しているか、
後者の発露が他者の心証を害さないという前提においてのみ、
信頼関係というやつが辛うじて成立するのだ。
自分はこういうことをしたいけど、
実際に行動に移したら、顰蹙を買う、罰せられる、嫌われる。
そういった客観的な自己判断に基づくコントロールが出来なければいけない。
そのためには自分の「ライフ」がある程度満たされていることが必要だ。
衣食住に事欠くことなく(生命・生活)、
適度に愛されている実感があり、
仕事や社会における自分のポジションで自分の存在意義を確認でき(人生)、
自己を省み、他者を思いやる余裕がなければ、それは生まれない。
評価で、恋愛で、学業で、就職で、収入で、
明確な差がついてしまったために壊れる人間関係なんて枚挙に暇がない。
あるいは、この人のこういう言動は嫌いだけれど、
我慢して関係を保持していれば自分に利益がある。
お金だったり、試験前のノートだったり、容姿だったり、肉体であったり。
他者に対する我慢の度合いと、もたらされる利益や便宜とを秤にかけ、
後者に傾いている間は良好な関係を築こうとするが、
逆に転じた時にはいとも簡単に断ち切ってしまう。
こういう人間もまた、数多い。
そして人間は変節する。
どれだけ言葉を重ねようと、すべては「その時その場での気持ち」に過ぎない。
時が経てばどうにでも変わりうるものなのだ。
あえて、それをウソだとは言わない。
その瞬間の真実なのだろうと思う。
しかし真実とは時と共にうつろうものなのだ。
理性によって確立した「答」とは違って、
感情によって凝結した「愛」はたやすく溶解する。
「愛」が感情のひとつである限り、「永遠の愛」などあるはずがない。
だから「信じられない」のではなく、
傷つきたくなかったら、「信じてはいけない」なのだ。
ただ、勘違いしないで欲しいのは「信じるな」とは違うということ。
信じてはいけないのだけれど、信じてしまうことがあったっていい。
傷つくことに価値がないわけではない。
傷つくことで学ぶことはたくさんある。
だからあえて人を信じて、裏切られて、傷つくのもありだ。
ますます人が信じられなくなるだろうか。
それでも人を信じてみようと思うだろうか。
いずれにしても自分なりの答というものは経験によってしかもたらされない。
僕は、僕の経験に基づいて、
やっぱり「信じてはいけない」のだと、アタマでは思う。
数多くの人を信じてきた結果、
数多くの人に裏切られ、そのたびに傷ついた。
それでも、また信じてしまう自分がいただろう。
その結果、少なくない数の人と色あせない信頼を築くこともできた。
だが、それで人間すべてを肯定してしまうほど僕はおめでたく出来てもいない。
何よりこれ以上、
心の底から信じたものに裏切られるような経験をしたくないと、
心が望んでいる。
涙声にも似たその叫びは僕自身の中でいつも響く。
容易に人間を信じないことで、僕の世界は膠着するのかも知れないが、
それでも僕の世界を踏み荒らされるよりはマシなのだ。
だから僕は、実に前向きな意味合いにおいて、人を信じていない。
そのくせ、それを積極的な行動には出さないのがまた、奇妙に映るかな。
僕の中では絶妙なバランスなのだけれど。
ここまでのことは、僕の頭の中という形而上の世界でのことであって、
それをそのまま現実世界に持ち込んで、したり顔でいたくはないのだ。
引きこもるとか、友人知人を作らないとか、現実逃避に走るとか、
そういう安易な方法はとりたくない。
どこまでも矛盾を抱えて、現実世界でバランスをとって舵取りをしていきたい。
だから日常生活において僕のこの理念の発露はきわめて受動的。
一言で言えば、
「周囲の人間の誰が、いつ、どんな言動をとったとしても、
絶対に驚かないだけの心の準備はしています」
だ。
なぜあいつが、どうしてこんな、いつのまに、
そんなことは一切感じない。
ただ、泰然として一言、こう言うでしょう。
「…だろう、ね。」
…すばらしい。
…聡明だ。
…身勝手だ。
…罪深い。
…欲深い。
色々考えてみたんだけども、どうもネガティブな言葉ばかりが思い浮かぶ。
僕の人間観自体がネガティブなせいもあるのだろうけど(笑)。
人間は、進歩する、進化する。
しかし争いごとはやめられない。
人間は知恵を持つ。
しかし欲望の延長線上に自己破壊の結末が見えていても止まれない。
人間は、希望を持てる。
しかし絶望もする。
人間は調和する。
しかし裏切りもする。
人間は愛を語る。
しかし嘘もつく。
逆立ちしたって僕には性善説なんて一生とれそうにない。
だから僕がただひとつ言葉を続けるとしたら、
「信じられない」だろうか。
いや、ちがうな。
この言葉は「信じられるだろうか?」という問いかけに対する答だ。
僕に言わせればその問いかけ自体、ナンセンスだ。
「信じちゃいけない」だな。
何も、世の中を悲観して言ってるワケじゃない。
何か辛いことがあったわけでもないよ(笑)。
いつかここで語ったとおり、僕は悲観でも楽観でもない、「達観主義者」だ。
事実をありのままに認識し、
「しょーがねーじゃんよー」と受け容れる。
その前提となるべき事実として、「人間を信じちゃいけない」を挙げたいのだ。
ではなぜ人間を信じちゃいけないか。
信じられる人だっているじゃないか、
現に私にはそういう人がいるぞ、
単にお前の周りにロクデナシが多いだけじゃないのか、
予想される反論はこんなとこだろうか。
性善説の、正義派の、甘ちゃんの、世間知らずの、
きわめて思慮の浅い意見だと斬って捨てさせてもらう、すまん。
そういう人は、非常に限定的な条件下にあるということを自覚すべきだ。
すなわち、人間には理性と感情とがあり、
前者が後者を完全に制御しているか、
後者の発露が他者の心証を害さないという前提においてのみ、
信頼関係というやつが辛うじて成立するのだ。
自分はこういうことをしたいけど、
実際に行動に移したら、顰蹙を買う、罰せられる、嫌われる。
そういった客観的な自己判断に基づくコントロールが出来なければいけない。
そのためには自分の「ライフ」がある程度満たされていることが必要だ。
衣食住に事欠くことなく(生命・生活)、
適度に愛されている実感があり、
仕事や社会における自分のポジションで自分の存在意義を確認でき(人生)、
自己を省み、他者を思いやる余裕がなければ、それは生まれない。
評価で、恋愛で、学業で、就職で、収入で、
明確な差がついてしまったために壊れる人間関係なんて枚挙に暇がない。
あるいは、この人のこういう言動は嫌いだけれど、
我慢して関係を保持していれば自分に利益がある。
お金だったり、試験前のノートだったり、容姿だったり、肉体であったり。
他者に対する我慢の度合いと、もたらされる利益や便宜とを秤にかけ、
後者に傾いている間は良好な関係を築こうとするが、
逆に転じた時にはいとも簡単に断ち切ってしまう。
こういう人間もまた、数多い。
そして人間は変節する。
どれだけ言葉を重ねようと、すべては「その時その場での気持ち」に過ぎない。
時が経てばどうにでも変わりうるものなのだ。
あえて、それをウソだとは言わない。
その瞬間の真実なのだろうと思う。
しかし真実とは時と共にうつろうものなのだ。
理性によって確立した「答」とは違って、
感情によって凝結した「愛」はたやすく溶解する。
「愛」が感情のひとつである限り、「永遠の愛」などあるはずがない。
だから「信じられない」のではなく、
傷つきたくなかったら、「信じてはいけない」なのだ。
ただ、勘違いしないで欲しいのは「信じるな」とは違うということ。
信じてはいけないのだけれど、信じてしまうことがあったっていい。
傷つくことに価値がないわけではない。
傷つくことで学ぶことはたくさんある。
だからあえて人を信じて、裏切られて、傷つくのもありだ。
ますます人が信じられなくなるだろうか。
それでも人を信じてみようと思うだろうか。
いずれにしても自分なりの答というものは経験によってしかもたらされない。
僕は、僕の経験に基づいて、
やっぱり「信じてはいけない」のだと、アタマでは思う。
数多くの人を信じてきた結果、
数多くの人に裏切られ、そのたびに傷ついた。
それでも、また信じてしまう自分がいただろう。
その結果、少なくない数の人と色あせない信頼を築くこともできた。
だが、それで人間すべてを肯定してしまうほど僕はおめでたく出来てもいない。
何よりこれ以上、
心の底から信じたものに裏切られるような経験をしたくないと、
心が望んでいる。
涙声にも似たその叫びは僕自身の中でいつも響く。
容易に人間を信じないことで、僕の世界は膠着するのかも知れないが、
それでも僕の世界を踏み荒らされるよりはマシなのだ。
だから僕は、実に前向きな意味合いにおいて、人を信じていない。
そのくせ、それを積極的な行動には出さないのがまた、奇妙に映るかな。
僕の中では絶妙なバランスなのだけれど。
ここまでのことは、僕の頭の中という形而上の世界でのことであって、
それをそのまま現実世界に持ち込んで、したり顔でいたくはないのだ。
引きこもるとか、友人知人を作らないとか、現実逃避に走るとか、
そういう安易な方法はとりたくない。
どこまでも矛盾を抱えて、現実世界でバランスをとって舵取りをしていきたい。
だから日常生活において僕のこの理念の発露はきわめて受動的。
一言で言えば、
「周囲の人間の誰が、いつ、どんな言動をとったとしても、
絶対に驚かないだけの心の準備はしています」
だ。
なぜあいつが、どうしてこんな、いつのまに、
そんなことは一切感じない。
ただ、泰然として一言、こう言うでしょう。
「…だろう、ね。」