真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「隣の女房 濡れた白い太股」(1998/製作・配給:新東宝映画/脚本・監督:深町章/企画:福俵満/撮影:飯岡聖英/照明:多摩三郎/編集:酒井正次/助監督:佐藤吏/録音:シネキャビン/スチール:津田一郎/現像:東映化学/出演:村上ゆう・相沢知美・麻生みゅう・樹かず・久保新二)。
 開巻モノローグで自ら絶倫を誇る黒井新一(久保)は妻のマンk・・・・もとい満子“ミツコ”(村上)を朝つぱらから強引に抱きながら、旺盛どころでは片付かぬ性欲が治まることはまるでない。そんな風でこの夫婦に子供の居ないのが、頗る不思議であるのは劇中に於いて触れられはするものの綺麗に通り過ぎ、近所に住む共働きの部下夫婦・赤川、次郎ならぬ四郎(樹)の細君・サセコ(相沢)にも心中秘かに食指を伸ばしつつ、黒井は満子が度重なる同窓会とやらで家を空けるその夜に訪ねて来る予定の、義理の妹・みわ(麻生)に下心をときめかせる。ところで、どうでも最早構はないが、サセコなどといふ名前は、一体漢字でどう書かせるつもりなのか、佐瀬子?親は何をトチ狂つてゐやがつたのか。ところでところで、赤川夫婦揃つての鮮やかではない茶髪には、どんな勤め人なのかと首も傾げざるを得ない。等々と野暮な与太はさて措き、借金を頼み込むも姉に完全却下される、当該シークエンスに限つては十全な前振りも経た上で、首尾よく黒井と、みわ二人きりの夜。若い肉体をポップに狙ふ黒井と、実は五十万もの金が入用なみわの思惑とが愉快かつ熾烈に交錯する件に、ここまでは娯楽映画としての充実を予感させもしたのだが。
 嫁の居ぬ間に嫁の妹と命の洗濯、だなどといふイベントから、一般的には容易に予想し得る緊迫感もさして漂はせない一夜明け。みわが金が手に入つた旨を彼氏(一切登場せず)に電話で嬉々と報告するカットまで差し挿んでおいて、肝心の五十万に関しては清々しく何処吹く風と、呆れるほど鮮やかに正しく等閑視して済ましてのける辺りには、正直逆の意味で凄い勇気―直截には、蛮勇である―だと驚かされた。斯様な次第で、流石に一本の物語としての満足な求心力を保ち得なくなつた展開は、以降は仕方なく一昨日から明後日へと流れて行くばかり。黒井が巡らせるルーズな姦計を軸とした、連れ込みにて既にオトしたサセコとの、赤川宅不倫ミッション。対みわ戦同様クロスカウンターを成立させるべく、もう一つの不貞が用意されもするまではいいにせよ、下手に伏線が丁寧過ぎる分、オチといふ起爆装置が早々に地表に露出してしまつた感は強い。よくいへば、安定感ともいへるのかも知れないが。兎も角強度不足の起承転結を、尺の満了に合はせ「アシャアシャアシャ」と久保新二独特の口跡によるしたり笑ひで締め括るフィニッシュには、そもそもこれで万事締まつてゐるのかといふ疑問が激しく残る。尤も、開巻から全篇を休みなく走り倒す、久保新二一流のアドリブ台詞と顔芸の際限ない数々数々を前にするに、そもそも今作は深町章の脚本・監督による劇映画といふよりは、御存知稀代のエンターテイナー久保新二こと久保チンに支配された、コント映画としての色彩を見るのが、より適当であるのかも知れない。さう捉へた時、端的には自堕落な、始終に対する物足りなさが幾分以上に緩和されもするのか。今作が十二月公開の1998年最終作、即ち1999年の正月映画である点を踏まへるならば、ある意味賑々しいともいへ、村上ゆう×相沢知美×麻生みゅうといふ、芝居の出来る二番手ばかりを集めたやうな女優三本柱の微妙な面子まで含め、矢張り如何なものかと思へなくもない。

 朝食時、澄ました顔で食事を摂る満子を前に、至らぬ妄想に人間の限界まで鼻の下を伸ばした黒井が、「鼻の下伸び過ぎた・・・・」と自らの手で人中を慌てて元に戻すギャグには、どんなメソッドなのかと感動的に笑つた。一方、黒井が赤川を自宅での夕餉に誘ふ線路際の件。黒井が大袈裟によろめいてみせるのは、素面で面喰つてゐるやうに見える相沢知美のリアクションをみるに、あれは恐らく、久保チンが普通に蹴躓いたのではなからうか。


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