真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「こほろぎ嬢」(2006/製作:株式会社旦々舎/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/special thanks:吉行理恵/企画:鈴木佐知子/原作:尾崎翠『歩行』・『地下室アントンの一夜』・『こほろぎ嬢』/撮影:小山田勝治/照明:津田道典/音楽:吉岡しげ美/美術:塩田仁/録音:福田伸/編集:金子尚樹/助監督:酒井長生/制作:横江宏樹/ヘアメイク:馬場明子/タイトル題字:住川英明/ポスターデザイン:横山味地子/撮影助手:大江泰介・北原岳志/照明助手:入山美里、他一名/制作部応援:小山悟・広瀬寛巳/協力:シネオカメラ株式会社・報映産業株式会社・有限会社シネキャビン、他/後援:鳥取県・倉吉市・岩美町・若桜町・米子市・鳥取市/助成:鳥取県支援事業/協力:鈴木静夫・中満誠治・柳東史、他個人名多数/出演:石井あす香、鳥居しのぶ、大方斐紗子、外波山文明、宝井誠明、野依康生、平岡典子、イアン・ムーア、デルチャ・M・ガブリエラ、リカヤ・スプナー、ジョナサン・ヘッド、片桐夕子、吉行和子)。
 町子(石井)が祖母(大方)と二人で暮らす小野家に、精神病患者のフィールド・ワークで全国を渡り歩く、心理学者の幸田当八(野依)が三日間逗留する。町子は自身の運動不足も解消がてら、幸田にも紹介した引きこもり詩人・土田九作(室井)の下に、頭の病には甘いものが効くだとか妙な開明性を発揮した祖母の勧めで御萩を届けに行く。途中町子は九作の姉(吉行)が嫁いだ動物学者・松木(外波山)邸に立ち寄り、姉が直した破れズボンと、実物を知らずに詩を書く九作に松木が渡してやれといふ、オタマジャクシとを新たに託(ことづ)かる。実物を前にするや書けなくなる九作は、実証主義者を“ポカリ”とやるべく松木の研究室に鼻息荒く乗り込む一方、実は成人後の町子の姿との、こほろぎ嬢(鳥居)登場。こほろぎ嬢が図書館で見付け胸ときめかせる書物の中では、英国神秘詩人のウィリアム・シャープ(イアン・ムーア)が、自身の脳内に生み出した恋人のフィオナ・マクロード(デルチャ・M・ガブリエラ)と逢瀬を交す。最終的に“地下室アントン”に、対峙する九作と松木に加へ幸田、そしてこほろぎ嬢が勢揃ひする。
 リカヤ・スプナーとジョナサン・ヘッドは、フィオナに会はせろと詰め寄る、シャープ友人。ポジション的には、何れかが黄金の暁教団のメンバーでもある、詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツに相当するか。往年のロマンポルノ女優片桐夕子は、図書館食堂にて台詞もなく悪戦苦闘する、産婆試験受験者。浜野組初参戦のビッグ・ネームを、相当贅沢な使ひ方をしてみせる。出演者中ただ一人現地調達された平岡典子は、図書館売店のパンの売り子・山根嬢。華は感じさせないが、綺麗な顔をしてゐる。
 1998年の第一弾「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」(憚りながら未見)、2001 年の第二弾「百合祭」に続き一作跨いで、目下第四弾となる「百合子、ダスヴィダーニヤ」を鋭意制作中の浜野佐知にとつて、何れも自主製作の一般映画第三作である。いきなり話を本丸たるべき本作の中身からは逸らせると、自身の女流監督として世界最強ともいふべき膨大なキャリアは一切等閑視し、六本の田中絹代を日本最多本数であるとか称した、1997年の東京国際女性映画祭にあつての薄ら惚けた発言に対し憤慨した浜野佐知は、一般映画で世間に殴り込む腹を固める。いよいよ一戦交へんとする並々ならぬ気迫と、そもそも当時それを下支へた作家としての充実とが反映されてか、エクセスを主戦場に例年滅茶苦茶な本数を量産してゐた1990年代中盤が、堂々と筆を滑らせてのけるが現在は円熟期に当たる女帝の最高潮ではなからうかと、私見では秘かにでもなく目するところである。円熟期とはいへども、他の監督と比較すれば勝負にならないほどの轟音を、未だ奏で続けてもゐるのだが。話を戻すと今作は、近年再評価が進む尾崎翠の小説家生活晩年の短篇、『歩行』・『地下室アントンの一夜』・『こほろぎ嬢』の三作を、連作として統合した上での映像化を図つた意欲作である。尤も、予めお断り申し上げておくと、例によつてピンク映画に首まで浸かるしか能のない小生は、尾崎翠は清々しく未読。原作つきの作品も、それはそれとして純然たる別個の映画単品として取り扱ふといふアプローチを物臭の免罪符に、以下加速して筆禍を唸らせる。
 筋金入りのラディカルなフェミニストにして、同時に頑丈な娯楽映画のアルチザン。といふこれまでの平板な浜野佐知像を期待して観てゐると、自由奔放といへば聞こえもいいが、直截には手前勝手に撮り過ぎたといふ印象が兎にも角にも強い。コミュニケーション不全の者同士がある意味苛烈な応酬に明け暮れる、構成としての抑揚も欠いた一幕一幕の羅列に正直をいへば、決死で睡魔と居心地の頗る悪い上映会会場環境とに抗ひながら、ひたすら堪へてゐたものである。オーラスの地下室から大宇宙への正しく超大飛躍と、「ハロー、木星」といふこほろぎ嬢の声に触れ漸く、内向する精神に―のみ―保たれる強靭な飛翔力といふ主モチーフと、裏八十年代のアングラ歌謡にも似たコンセプトには確かに触れ得、両面に於いての、尾崎翠の先駆性―逆からいふと、実は我々の現代が、別に進歩してゐる訳でもないことの証左ともいへよう―も認められる。ものの端的な感触としては、センス・オブ・ワンダーの一点突破で勝負するには、演出部俳優部双方とも些か脆弱ではなからうか。意図的に外連を排した展開に付き合ひ続ける苦行を観客に要求する作り手の潔癖が、果たして実際の結果として何処まで通るものかも甚だ疑問である。自主映画なのだから出資者にも観客にも媚び諂(へつら)ふことなく、思ふがままに好きなやうにやり散らかしても構はない、などといふのは単なる為にはならぬ方便に過ぎまい。如何程か制約の存する環境下にあつた方が、時に却つて自由になれることも、力強くあれることもある。さういふ一般論を、改めて想起させられた一作ではある。この、何某かの枷に屈せんとする文字通りの反発力は、依然頑強に闘ひ続ける浜野佐知が、当然に有してゐる装備の筈でもあるのだが。

 実も蓋も自ら無くし手の内を明かすが、劇中登場人物に即していふと、九作あるいはこほろぎ嬢の世界に、あくまで松木の方法論で挑んだ負け戦である。そもそも娯楽映画ぢやねえんだからよといふ誹りならば、甘んじて受けよう。ところで開巻即座に途方に暮れたことだが、平素ピンクに慣れ親しんでゐると、一般映画の間のまあ長いこと長いこと。佐藤寿保の「名前のない女たち」を観た折にも、同じ眩めきを覚えた。主戦場のピンクならば八幡から小倉に流して、計五本立ての五時間をどうにか戦へる反面、一般映画の百分に、もう俺の体は耐へられないのか。


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