電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【自東京至巌槻道】
【自東京至巌槻道】
文明開化期の地図を見ると、現在の六義園脇に「自」、
駒込妙義坂下に「東」、
旧古河庭園脇に「京」、
滝野川警察署脇に「至」、
王子駅前に「巌(岩)」の異体字(山+品)、
十条台小学校脇に「槻」、
荒川小学校のところに「道」と書かれ、
直角に折れる丁字路の岩淵宿あたりに「赤羽村」と書かれていて、とてもよくできている。
元和 3 ( 1617 )年、徳川家康の遺骸を駿河の久能山から日光に移し、2 代将軍秀忠が江戸を出立して日光に向かった道を日光御成道(にっこうおなりみち)という。
日光御成道は日本橋からはじまった中山道(国道17号)が最初の一里にあたる本郷追分(東大農学部正門前の駒込追分)で左折して分岐し、そのまま左折せず直進すると日光御成道となる。荒川の手前に岩淵宿が置かれ、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎ、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流して日光御成街道(にっこうおなりかいどう)となる。将軍一行が日光御成道で唯一、岩槻宿に宿泊したので岩槻街道とも呼ばれた。その辺の事情が「自東京至巌槻道」七文字の置き場所でよくわかる地図になっている。
自東京至巌槻道は「じとうきょうしいわつきみち」でもいいし、わかりやすく読み下せば「とうきょうよりいわつきみちにいたる」ということが書かれている。
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【巣鴨一丁目のお茶屋】
【巣鴨一丁目のお茶屋】
【急がば借りろ】
2020年10月4日
【急がば借りろ】
板橋区の歴史について民俗学者萩原竜夫(1916 - 1985)が書いた一般向けのガイドブックが欲しくて数年前から探している。シリーズで他の区に関するものは安価で容易に手に入ったのだけれど、板橋区だけは出物が少なく数千円などというとんでもない値段がついている。ちょっと買う気にならない。
板橋区に郷土史好きが多いからか、名著だからかはわからない。たしかに出版社名は名著出版である。萩原竜夫氏は大学の遠い先輩になる。板橋は中山道や川越街道に沿って開けた土地なのであれこれ知りたいことも多く、また読んでみたくなった。ふと思いついて文京区の図書館を検索したら、蔵書していたのでネットで借り出し請求した。23 区内の図書館なら当然 23 区の歴史ガイドくらい蔵書しているだろう、という単純なことになぜ気づかなかったのだろう。
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【夏のトロッコ問題】
2020年8月6日
【夏のトロッコ問題】
午後になって日差しが弱まる頃合いを見計らって散歩した。本郷台地をくだり、上野台地にあがってまたくだり、下町を荒川近くまで歩き、小台駅で東京さくらトラム早稲田行きに乗った。
夏のトロッコは2両編成でときどき来るより、1両ずつ間隔を詰めてしょっちゅ来る方がありがたい。しょっちゅう来るトロッコは乗客数が分散されて空いている。適度な他人本位が保たれる乗り合い状態である。
王子駅前で乗客が降りて別の客が乗りこみ、ケーブルカーのように飛鳥山を登って本郷台地に戻った。その先は沿線に学校が増えるので混み始める。コロナ禍の三蜜を避けるため庚申塚で下車して自分本位に戻り、人通りまばらな旧中山道を歩いて帰宅した。
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◉今日の散歩
2019年3月14日(木)
◉今日の散歩
昼休みの散歩で豊島区南大塚の東福寺まで疫牛供養塔を見に行って来た。
Canon New FD F 3.5-4.5 f=35-70 mm
施主名に「牛乳搾取業巣鴨支部」とあるように、明治になって巣鴨もまた牧場産業が栄え豊島区域には大小あわせ 59 牧場が存在した記録があるという。日本の酪農は都市で始まって農村へと普及した。
Canon New FD F 3.5-4.5 f=35-70 mm
北原白秋作詞、山田耕作作曲『からたちの花』の碑も近いせいか、ここにもまたからたちが植えられている。
Canon New FD F 3.5-4.5 f=35-70 mm
もと来た坂を登って帰るとき、坂下から見る空は明るく高い。斉藤和義『歩いて帰ろう』が口を突いて出るのはこいう景色を見た時になっている。
Canon New FD F 3.5-4.5 f=35-70 mm
江戸橋を渡って旧中山道に出たら、巣鴨地蔵通り商店街は「 4 の日」で賑わっていた。
(2019/03/14)
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◉土地の高低
2018年9月9日
僕の寄り道――◉土地の高低
どこのサイトだったかもう見つけることができないのだけれど、海面の水位がどんどん上昇していま住んでいるこの場所まで水が迫ってきたという極限状況を、数値入力して地図上にシミュレーションできるサイトがあった。
そんな事態が来てしまったら、ここから徒歩で東京郊外の高台へと逃れる道はひとつしかない。千石交差点から白山通りに出れば巣鴨駅前から中山道を、尾瀬の遊歩道のように板橋まで辿ることができる。板橋までたどり着いたら落ち着いて、北からの避難民に混じって環七を南下し青梅街道で山を目指せばいい。
友人宅の 8 階猫
もしそんな天変地異に遭遇したら迷わずカメラマンの友人が暮らす街を目指して逃げるようにと言ったら、そんな災害が起きたら逃げずに観念すると妻は言い、カメラマン夫人はなんでよりによって我が家に向かって逃げるのかと笑う。地図の上に水を張って確かめてみるとわかるのだけれど、友人夫婦が暮らす街は地図上でぽっかりと高い。地名もそのことに関連しているかもしれない。
友人宅からの眺め
友人宅で酒を飲みながら窓外の景色を眺めていたら、おなじ 8 階で生活しているのにこの部屋はどうして遠くまで見通しがよいのかと妻が聞くので、周りに高い建物がないこともあるけれど、この土地自体の標高がちょっと高いのだ、周りの街並みが逆に低いのだと言ったけれどピンとこないらしい。土地の高低は自分で試して納得しないと正しく認識しづらいらしい。
夕 暮 れ て 山 へ と 辿 る 家 路 か な
(2018/09/09)
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◉武蔵野のコンビーフ
2018年9月8日
僕の寄り道――◉武蔵野のコンビーフ
8 月 27 日、友人から
熱 帯 夜 静 か に 消 え る 赤 い 月
という自称俳句もどきを添えて「今朝、見た?」というメールが届いた。
今朝の NHK ニュース「朝ごはんの現場」コーナーで埼玉のハム・ソーセージ店一家の朝食を見たか、あのコンビーフと温泉卵をのせたご飯が食べたい、お義母さんがいる老人ホームの近くらしいから「食べてみてよ」(買ってこい)…とソフトバンクのお父さん犬のような書き方をしている。
義母がいる老人ホームの近くといえば近くではあるけれど、武蔵野は広い。東京砂漠などと言うけれど、東京 23 区は起伏に富んでいて坂の上り下りが多い。そのぶん街に表情があるので遠い道も遠く感じさせない長所がある。それに比べて埼玉の武蔵野は平坦で表情がない。大好きな古歌に
む さ し の は 月 の 入 る べ き 山 も な し 草 よ り 出 で て 草 に こ そ 入 れ
とあるけれど、埼玉のハム・ソーセージ店を探す買い物も、草より出でて草に入るような心細さがある。
旧中山道(大宮)
9 月 8 日雨天決行、16 時にコンビーフと温泉卵と自家製糠漬けと酒を持ってうかがいますと約束したのでこれから買いに出る。
武 蔵 野 に 満 月 の せ る コ ン ビ ー フ
(2018/09/08)
追記:
残念ながらコンビーフは開店早々に完売したそうで、試食だけさせてもらい、あれこれ相談しながらご飯に合いそうなのを買ってきた。
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◉牛の話
2018年7月5日
僕の寄り道――◉牛の話
大宮駅前で待ち合わせし、仕事の打ち合わせも済んだので、ドキュメント72時間で紹介され人気爆発の『伯爵邸』に場所を移して飲んだ。旧中山道交差点角の中央デパートが解体されて再開発が進んでいる。打ち合わせ相手の女性映像作家は大宮育ちなので、思い出深い地方百貨店だったと言う。
旧中山道中央デパート跡再開発
『伯爵邸』で『フィッシュ&チップス」「チーズサラミ」「沖縄おにぎり」を注文し、ワールドカップサッカーベルギー代表の勝利を祈念してベルギー産ホワイトビルで乾杯
友人と別れ、酔って駒込まで帰ったら空にはまだ昼間の明るさが残っていたけれど、朝から動いて長い一日だったという妻は疲れたと言って寝てしまう。四半世紀ぶりにインターネットの SNS サービスをやめたら気が散らなくなったおかげで、集中して本を読む力が戻ってきた。ひとり発泡酒を飲みながら民俗学者宮本常一の続きを読む。
まさに目から鱗の話ばかりで読書が楽しい。かつて中部山地で塩を運んでいた小ぶりで屈強な牛たちは佐渡で産出されたそうで、その佐渡の牛の話が長塚節(ながつか・たかし)の写生文にあるというので驚いた。長塚は子規の門人であり、関川夏央の評伝『子規、最後の八年』で知って『土』は読んでみたいと思っていたけれど、『佐渡が島』のことは知らなかった。
ひょっとするとと思って手元のスマホで検索すると青空文庫で読めるので、早速ダウンロードして一気に読んでみたけれどたいへん面白い。旅の写生文学というのは自然に民俗の記録になるのだなと再認識した。(2018/07/04)
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◉ひとり富士山お山開き
2018年6月4日
僕の寄り道――◉ひとり富士山お山開き
旧川越街道沿い浅間神社の境内に練馬区指定有形民俗文化財「下練馬の富士塚」があった。
旧川越街道
この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
江戸城(時代か)には中山道板橋平尾宿の追分で別れる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
下練馬宿は「川越道中ノ馬次(うまつぎ)ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
浅間神社の冨士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。
平成六年三月 練馬区教育委員会
7 月 1 日の山開きにはちょっと早いけれど、せっかくの御富士様なので酔った勢いで登山してみた。
山頂の標高が 37.76 メートルで、本物の 100 分の 1 スケールになっている。スケールの小さい発想が素晴らしい。登ってよかった。
登らずに下で見ていた連中は、
「はい、私たちはここで手を合わせて登ったことにしておきましょう」
などと言って笑っていたらしい。
この人たちにも 100 分の 1 くらいのご加護があらんことを請い願う。(2018/06/02)
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◉空襲警報と撃墜――明るい方へ
2018年5月15日
僕の寄り道――◉空襲警報と撃墜――明るい方へ
夜になっても気温が下がりにくい気候になると、寝室の窓は開けたまま網戸だけ閉めて就寝している。原理的には蚊の侵入を食い止めているはずの密室に、「蚊がいる!」という空襲警報が出ることがあり、わが家ではそういう時だけ昔ながらの紙マット式蚊取り器をつけて撃墜している。
昨夜も今年初めて蚊が侵入し、夜中に「蚊がいる、顔を刺された!」と言うのであわてて蚊取り器をつけた。蚊取り器をつけてしばらくすると蚊の羽音は聞こえなくなり、そのまま刺されることもなく朝までぐっすり就寝できるので、紙マット式でも迎撃性能は高いのだろう。
夜が明けて「昨夜は蚊がいたね」という話になり、人の血を吸って撃墜された蚊たちはどうしたのだろうと思う。原理的には密室なので、フローリングの床の上に落ちて死んでいるはずなのだけれど見つからない。そのまま掃除機をかけるので見つからないままになっている。
一度だけ深夜の空襲警報が出て起こされ、蚊取り器にマットを入れて撃墜体制に入り、目が覚めてしまったのでうつぶせになり、スマートフォンをいじっていたら明るい画面上に蚊が落ち、仰向けになって絶命したのでびっくりした。ハエもそうだが蚊も明るいところを好むそうで、蚊取り器の攻撃から逃がれるとき、明るい方を目指して墜落するのかもしれない。(2018/05/15)
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昨日は北池袋で編集会議を終え、要町のえびす通り商店街を抜け、本駒込まで歩いて帰った。古い民家、お堂、石塔も多いので中山道から分岐する古道だったのだろう。調べてみる。
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◉北沢楽天と寿能城
2018年5月8日
僕の寄り道――◉北沢楽天と寿能城
大宮の『伯爵邸』にあった無料のタウン誌『Acore・おおみや』。酔っ払っていたので中身も確かめずにもらってきたけれど、「楽天」とは明治から昭和にわたって活躍した漫画家北沢楽天のことだった。14ページにわたる特集で図版や写真も興味深い。
楽天が生まれた家があった場所は今の大宮高島屋の敷地に重なっており、北沢家は見沼にあった寿能城(じゅのうじょう)の家老職で、中山道大宮宿紀州鷹場本陣の家柄だったという。
義母が暮らす老人ホームへ通うバス路線に「堀の内」という停留所名がある。高島屋向かいのバス停からバスに乗ると、大宮駅前側から順に南堀の内、堀の内一丁目、堀の内橋の順に停車し、名前から連想した妻が
「この辺にお城があったの?」
と聞く。
城の有無はわからないけれど、堀の内橋が跨ぐ見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)を「堀」と呼ぶなら、農業用用水堀の内側から来ているんじゃないかと答えていた。見沼代用水西縁は義母が通う彩の国東大宮メディカルセンター脇を流れ、寿能城跡をかすめ、バスで渡る堀之内橋までやってくる。
寿能城は永禄3(1560)年頃、岩槻城の支城として見沼に面して築城されたという。場所はさいたま市大宮区寿能町二丁目あたりになる。脇を流れる見沼代用水西縁は、たいした川幅でないぶん常に水量があり、流れが早く堀の内あたりの護岸は垂直に切り立っているので、落ちたら大人でも這い上がれそうになく、まさに堀のように見える。荒々しい水路の景観を宥めるように、毎年早咲する河津桜の並木があってバスから見える。
寿能城初代城主の潮田資忠は、通説によると岩槻城主太田資正の四男とされ、太田資正は太田資頼の子であり、太田資頼は太田資家の子であり、太田資家は太田道灌の甥…というように人の流れも川のように遡れる。
フリーペーパーの北沢楽天特集のおかげで楽しい勉強をした。北沢楽天の生涯はイッセー尾形主演『漫画誕生』と題されて映画化されたそうで、年内公開予定だという。ぜひ観たいと思っている。(2018/05/08)
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◉すずらん通りのカヤの木
2018年3月19日
僕の寄り道――◉すずらん通りのカヤの木
大宮駅東口駅前に明治五年創業の鰻屋がある。鰻屋の裏手にはすずらん通りという古びて小さなアーケード飲食街があり、気取らない飲食店が並んで朝から賑わっている。大好きな小路である。
大宮駅前から旧中山道へ100メートルほどの通り抜けなのだけれど、入って20メートルほど行くと左手に入る袋小路があり、突き当りが赤い鳥居の祠になっている。飲食店の壁に挟まれた暗い路地ゆえ、酔っ払った不届き者が入り込むこともあるせいか、ロープを渡して立ち入り禁止にしたような痕跡もある。住所はさいたま市大宮区大門町になる。
突き当たりの祠左手に古木があり、木はそれ一本しかないのでこれが御神木ともいえ、どうもカヤの木に見える。どうしてカヤの木とわかるかというと、わが家に一番近い神社である上富士の駒込富士神社、その御神木がカヤの木だからだ。
富士神社のカヤの木は巨大な古木だがひどく焼け焦げている。東京大空襲で焼けたのだと書かれた新聞記事もあるが、地元古老は落雷によるものだともいう。本当のところはわからない。
大宮のカヤの木も古びており、場所の異様さもあって地域の貴重な語り部の資格十分なのだけれど、ネット検索をしてもこの祠の縁起がわからない。
手元にあった大宮市発行『大宮のむかしといま』を読んでいたら「明治35年の大宮町略図」があり、駅前の鰻屋が現在と同じ位置にあるなら赤丸がその店で裏手の路地がすずらん通りということになる。とするとその道は岩槻馬車、川越馬車の馬車道だったということになる。
であれば、昨年歩いた中山道板橋宿もそうだけれど馬つなぎ場もあれば死んだ馬を悼む石碑もあったことだろう。そんな関係で祠が残ったのかもしれない。通りすがりの他所者が書く想像に過ぎない。(2018/03/19)
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◉春風やまりを投げたき草の原
2018年3月3日
僕の寄り道――◉春風やまりを投げたき草の原
春風に誘われて上野の山まで散歩してきた。上野駅前からは三本のエスカレーターを乗り継いで西郷さんが立つ山上に登れる。
2006(平成18)年、上野恩賜公園野球場は正岡子規記念球場と名称が改められ「春風やまりを投げたき草の原」の句碑が設置されている。
東京芸大は入試の最中だった。上野桜木から台東区谷中6丁目へ抜けると、左手にある大雄寺には高橋泥舟の墓があり、その先の三崎坂を下る右側に全生庵があって山岡鉄舟の墓がある。山岡鉄舟は泥舟の義弟にあたる。
昨年の夏、中山道板橋宿を散歩中、声をかけられた女性に「なんでここに渋沢栄一の像があるのか」と聞いたら「渋沢先生といえば養育院、養育院といえば板橋」といわれて「ああそうか」と思った。
その養育院の文字が大雄寺境内で目についたので読んでみた。
養育院義葬の冡
養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
平成22年(2010)4月 養育院を語り継ぐ会
なーる。犬も歩けば棒に当たり、東京でまりを投げると渋沢栄一に当たる。(2018/03/03)
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◉明治五年の鰻
2018年1月24日
僕の寄り道――◉明治五年の鰻
大宮通いが始まって足掛け八年目になる。大宮駅東口にある老人ホーム行きバス乗り場近くに古い鰻屋があって、創業明治五年と赤い暖簾に染め抜かれている。
こころや身体が疲れたとき、ちょっと贅沢な昼食で立ち寄ると、なんだか元気になった気がすると妻が言う。老人ホーム近くの斎場で義父のささやかな家族葬を終えたあとも、やはりこの店のお世話になった。
鉄道のターミナル駅として栄えた大宮駅とともに歩んできた老舗のように思うけれどそうでもないらしい。この店の創業が明治五年なのに対して、大宮駅開業は意外に遅くて明治十八年まで待たなくてはならない。
東京・熊谷間に鉄道が開通したのは明治十六年のことで、開通当時、県庁所在地である浦和駅の次は上尾駅で大宮駅はなかった。それでは鰻屋創業当時の大宮はどんな町だったのだろう。
新橋・横浜間にはじめての鉄道が開通したのが明治五年であり、江戸時代の伝馬制度が同年廃止されたことにより、中山道大宮宿の宿場機能は低下し人口減少が始まる。鉄道が通過するだけだった当時の大宮宿には民家が 243 戸しかなかったという。
そんな大宮宿の支えとなったのは武蔵一宮氷川神社の存在だろう。明治元年十月二十八日、明治天皇の氷川神社僥倖があり埼玉県誕生は明治四年。明治四年には「断髪・廃刀は勝手」という布告があり、明治六年になると埼玉県で男女混浴が禁止になっている。町の衰退の裏で文明開化は進む。
明治四年氷川神社神官が人力車所有の許可願いを出している。明治九年になると大宮宿には 98 台の人力車があったと記録にある。明治五年横浜居留地にわが国初のガス灯がともり、同年全国一般郵便制度が施行され、大宮にも郵便取扱所ができた。明治六年には奥州街道に沿って東京・青森間の電信線が開通している。
創業明治五年の鰻屋は「う匠山家膳兵衞」といい駅ビル内にルミネ大宮店もある。大宮駅近くで鰻を食べるなら埼玉県さいたま市大宮区宮町 5-27 にある「小室屋」も好きだ。駅前からちょっと歩く分だけ閑静で、こころと身体に「待つ余裕」「歩く余裕」があれば、時と場所を忘れてのんびりできる。
引き寄せて結べば草の庵にて解くればもとの野原なりけり
(慈鎮。1155~1225、鎌倉初期の天台宗の僧)
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◉すずらん通りはいま
2018年1月15日
僕の寄り道――◉すずらん通りはいま
大宮駅東口。鉄道に沿った繁華街と並行する旧中山道とを結ぶたくさんの路地があり、そのうちの一本をすずらん通りという。細い路地の左右には昼間から飲める飲食店が立ち並び、雨に濡れずに歩けるようアーケード状の屋根がある。
アーケードの構造物とそれを支える柱は大宮アルディージャのチームカラーであるオレンジ色に塗られ、郷里清水エスパルスと同じ色あいなので、故郷の町に帰ったように懐かしい。
郷里清水の商店街は目を覆うようなシャッター通りになっているが、大宮の町は賑やかで人通りが多く、なんて繁盛する都会なのだろうと思う。だが古くから大宮に住む人たちは、往時に比べると見る影もなく寂れたという。
郷里清水も大宮も日本中どこでも、日本が戦後復興と高度経済成長を遂げた時代の面影は消えて行く。そして時代に取り残された商店主たちは嘆く。ネット上の記事を読めばいたるところ再開発待望論で溢れている。
郷里も大宮も日本中どこでも、高度成長期などもちろん知らず、生まれた時からすでに商店街がシャッター通りだった時代に生を受けた若者たちが、まもなく成人式を迎える年齢になる。彼らは「いま」に生まれて「いま」を生きている。
古びた味わいのある街を嬉しそうに歩いている若者たちも、余所者としてやってきてこの街が好きな自分たち夫婦も、みんな古びたこのアーケードが好きなのだろう。「むかし」の栄華など知らないし、再開発の先にある「みらい」が良いものとも思えない。
「いま」に対して「むかし」と「みらい」は誰のためにあるのか、「むかし」と「みらい」が「いま」「ここ」にいない者たちの私利私欲を満たす道具にされないか、そこはちょっと注意したほうがいい。
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