【各務原】

【各務原】

各務原という漢字三文字の地名があることは知っていたけれど読み方を知らず、存在生活でも認識生活でも縁がないので、各務原という地名が本に出てきても声に変換せずに読み飛ばしていた。

老人が書かれた中山道歩き旅の紀行文が岐阜県南部、中山道鵜沼(うぬま)宿に差し掛かって各務原が出てきた。よい機会なので辞書を引き「かかみがはら」という読み方を復唱して覚えた。

銅鏡などの鏡をつくる技能集団「鏡作部(かがみつくりべ)」がいたというのが語源らしい。

尾久を「おぐ」と読んだり「おく」と読ませたり、「二子」を「ふたご」と読んだり「ふたこ」と読ませたり、地名の「にごる」「にごらない」のごたごたが、ここでも「かがみ」と「かかみ」として存在するらしい。

若者が二子多摩川を「にこたま」と呼び飛ばすように、各務原の若者が「みっぱら」と呼ぶとウィキペディアにあって笑った。

2023年12月20日 豊島区駒込『桜キッチンカフェ』


NEW
20 音オルガニートで

20 音オルガニートで『ジングル・ベル Jingle Bells』
作詞作曲/J.R.ピアポンド

20 音オルガニートで『赤鼻のトナカイ Rudolph the Red-Nosed Reindeer』
作詞作曲/J.マークス

20 音オルガニートで『サンタが街にやってくる Santa Claus Is Coming to Town』
作曲/F.クーツ

を公開。

***



2023年11月号(通巻13号)まで公開中

 

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【中山道を読む】

【中山道を読む】

仕事の打ち合わせ帰りに旧中山道蕨宿をチョロっと歩いたら、この古い街道を歩きながら何かを考えて書いた人の本が読みたくなった。本を読むことの最大の楽しみは、「この人はなんでこんなことを考えたんだろう」と、さらに自分が考えることにある。

書店に注文するため適当な本を探して検索したら、「歩いて旅する」とか「ちゃんと歩ける」とか「ホントに歩く」とか「歴史と文化を訪ねる」とか目的をうたった中山道本が並んでいる。

2023年12月4日 蕨市中央5丁目にある旧中山道蕨宿への入口

本当に歩きたいわけではないし、歴史的蘊蓄などを聞きたいわけでもない。実際に歩いた人が言葉にして残した文章の中から「あらかじめ期待し得なかった何か」が見つかるのを楽しみに読んでみたいのだ。

1933(昭和 8 )年生まれだという菅卓二さんの『八十歳「中山道」ひとり旅』論創社(2015)という本を見つけて書店注文した。子ども時代の戦争でひどい目にあって生き延びた、わが親たちと同世代、昭和一桁生まれの書いたものが好きだからだ。彼らにはその世代ならではの着眼がある。(*)

2023年12月4日 旧中山道蕨郵便局前

2023 年 10 月 31 日、拳銃を持った男が人質をとって立てこもった蕨郵便局は旧中山道に面している。事件翌日にもこの近所に来たのだけれど、妻に
「事件現場なんて見に行っちゃダメよ(いい歳こいて野次馬なんてすんなよ)」
と釘を刺されたので、ほとぼりもさめただろうと、この日初めてそばに行って眺めてみた。

(*)著者の経歴を調べて興味をひかれたので『四国へんろ道ひとり旅』論創社(2011/11/1)も古書で注文した。


NEW
20 音オルガニートで

20 音オルガニートで『ワシントン広場の夜は更けて Washington Square』

20 音オルガニートで『オーケイ! OK !』

20 音オルガニートで『なんとなく なんとなく Nantonaku Nantonaku』

を公開。

***



2023年12月号(通巻14号)まで公開中

 

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【桜と恐竜】

【桜と恐竜】

戸田公園駅から中山道の裏通りを元蕨(もとわらび)方向に歩いたら道路脇にアロサウルスがいた。

2023/03/29
DATA : PENTAX Optio RZ10 1 : 1 format

戸田市立児童センター こどもの国にある彫刻群のひとつらしい。

2023/03/29
DATA : PENTAX Optio RZ10 1 : 1 format

元蕨第二公園の桜も満開で、青ざめた恐竜ですら浮かれ出る春の日である。

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カレー南蛮百連発054 :文京区本駒込、『戸隠そば満寿美屋』のカレー南蛮

カレー南蛮百連発054 :文京区本駒込、『戸隠そば満寿美屋』のカレー南蛮
 

樋口一葉が暮らした本郷菊坂町の旧居跡付近には井戸が残っているが、終焉の地となった本郷区丸山福山町あたりの路地を歩くとやはりいまも現役の井戸がある。

2023/02/19
DATA : LUMIX DMC-SZ3 1 : 1 format

興津に別荘があった福山藩主阿部家の江戸屋敷跡にあたる誠之小学校裏手から坂道をのぼって本郷台地へと戻り、旧中山道沿いの文京区本駒込一丁目『戸隠そば満寿美屋』に初めて入ってみた。

カレー南蛮を注文したら蕎麦か饂飩かと聞くので蕎麦と答えたら「カレー蕎麦ですね」と言う。

2023/02/19
DATA : LUMIX DMC-SZ3 1 : 1 format

麺の間からぷくぷくと熱気の泡が浮かんでくる正統派的な登場に心の中で拍手。真上にカメラを構えるとたちまち湯気でレンズが曇る。

店を出て白山上を歩いたら南天堂書店が入るビルがもう出来上がって新装開店を待つだけになっていた。

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【ある正月の日記】

【ある正月の日記】

一月七日
 明日から、学校だ。また、予習もはじまる。大いにしっかりやろう。橋本先生は、僕たちのために、いつもおそくまで残っていてくださる。あ、先生に、年賀状をあげるのを忘れた。(小川未明「ある少年の正月の日記」)

一月七日
 関東地方の松の内があけるので今日は正月飾りを片付けよう。明日から連休だ。けれど、連休明け締切の仕事があるので大いにしっかりやろう。(小川未明風、今日の日記)

2023/01/05 戸田市上戸田中山道沿いの種苗店
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種田山頭火の昭和三年は伊予路の遍路宿で明けている。相部屋になった遍路は荷を広げた一隅に正月飾 りをしたという。『遍路の正月』にこうあった。

同宿は老遍路さん、可なりの年配だけれどがっちりした体躯の持主だった。彼は滞在客らしく宿の人々とも親しみ深く振舞うていた。そしてすっかりお正月の仕度――いかにも遍路らしい飾りつけ――が出来ていた。正面には弘法大師の掛軸、その前にお納経の帳面、御燈明、線香、念珠、すべてが型の通りであったが、驚いたことには、右に大形の五十銭銀貨が十枚ばかり並べてあり、左に護摩水の一升罎が置いてあった!(種田山頭火「遍路の正月」)

護摩水という言葉を初めて聞いた。般若湯と同じように便利な仏教的特殊用語なのだろう。山頭火はこの老遍路さんの「酒と餅と温情」によって慰められ寛ろげられて孤寒を凌いだという。

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【川面をわたる風】

【川面をわたる風】

関東平野を吹きわたる風が平らで真っ直ぐで一目散であるとき、ああ自分は「武蔵野原をゆく人」という点景になったのだなと思う。

国木田独歩は『武蔵野』の中で、

東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ。
しかしその市の尽くる処、すなわち町外ずれはかならず抹殺してはならぬ。

と、書いている。

2023/01/06
DATA : PENTAX Optio RZ10 1 : 1 format

埼京線が赤羽駅を出て荒川にかかる鉄橋をを渡るとき、たしかにいま東京が抹殺されて武蔵野に抜け出たなという感がある。

その証拠に、戸田駅で下車して市役所通りを中山道めざして東進する人になれば、「平らで真っ直ぐで一目散」な風が容赦なく吹きつけるのであり、荒川を挟んだ岩淵や戸田あたりは、いかにも武蔵野らしい「町外ずれ」になっている。

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【戸田再訪】

【戸田再訪】

新年の仕事始めは埼玉県戸田市に事業所を移転した出版社で、移転後初めての打ち合わせがある。二十代終わり頃に勤めていた電機メーカーの工場があったり、映像作家で亡くなられた森田恵子さんの住まいがあったりで、たびたび訪ねた懐かしい町だ。埼京線戸田公園駅か戸田駅から歩くことになる。

両駅からは北大通り、市役所通り、市役所南通り、五差路通りなどと名前の付いた道があり、後谷(うしろや)公園や戸田市役所などの目印もあり、しかもめざす出版社は中山道沿いなので迷うはずはないのだけれど、懐かしくて地図に見入ってしまう。

2006年2月19日 日曜日 12:31 後谷公園にて
DATA:RICOH Caplio R3

旧中山道の蕨宿は目指す出版社に隣接した蕨市中央 5 丁目から錦町 5 丁目までのあたりにあったが、古くは埼玉県戸田市にあたる元蕨にあって、のちに移転してきたのだという。未明のスマホで中山道の道筋を辿っていたら児玉幸多『中山道を歩く』を読み返したくなった。その文庫本は仕事場の本棚にあるので、電子書籍化されていないか調べてみたけれど見当たらない。ああいう紀行本こそ電子化されたら寝つかれぬ人の役に立つと思うので残念だ。

寝床にスマホのあかリ灯し凍える夜に街道をゆく

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【トクホンと二人の徳本】

【トクホンと二人の徳本】

幼い頃、祖父母の脇にのべられた布団の中で寝付かれずにうとうとしていると、ぷーんと爽やかな臭いがして
「(ああ、おじいちゃんがトクホンを貼ってもらったな)」
とすぐにわかったものだった。そのせいか今でも外出時にトクホンの臭いを嗅いだりすると幼児期にタイムスリップしたように眠たくなる。

豊島区西巣鴨、地蔵通り商店街である旧中山道を北西にどんどん進み都電荒川線庚申塚駅脇の踏切を渡ったところに餃子の人気店『ファイト餃子』があり(2008年当時)、郷里静岡県清水帰省の際の土産にして友人たちとよく食べたものだったが、久しぶりに買いに行ったら定休日なのか閉まっていた。

『ファイト餃子』店頭から旧中山道を挟んだ場所に路地があり、その奥に「延命地蔵尊」という赤い幟(のぼり)が見え、清水駅前銀座の延命地蔵尊を思い出して懐かしい。

どんな延命地蔵尊があるのだろうと見に行ったら、大変大きくて古びた石柱があり、四方に「徳本」と刻まれているのだった。

祖父が愛用していた貼り薬『トクホン』の名の由来となった医師永田徳本(とくほん:室町から江戸にかけて実在した)ゆかりの石碑かと一瞬思ったけれど、これは1758(宝暦8)年、紀州日高郡志賀村久志(和歌山県日高郡日高町)に生まれ、苦行しつつ全国を行脚し、最晩年小石川伝通院、一行院で過ごしてその地で没した徳本(とくほん)上人の蔦文字と呼ばれる「南無阿弥陀仏」六字名号を刻んだものだった。4 面すべてに「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれておりその下に徳本と上人の名が刻まれている。

……羽黒山の修験者は民間宗教なものですから、正規の僧侶ではありません。その正規の僧侶でない人を、敬称を付けて、どう呼ぶのかというと「上人」と呼ぶのです。
 いまは日本語が紊乱しておりまして、上人というと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。(司馬遼太郎「浄土」より)

全国を行脚して1000基以上の「南無阿弥陀仏」六字名号を残した徳本上人もまた正式の僧ではなく苦行により自らの力で念仏の教義を悟った人だったといい、目に一丁字もない人だったらしいが、十一代将軍家斉や奥の者の帰依をうけ江戸庶民にも熱狂的に受け入れられた「上人」に相応しい人だったらしい。

そばに掲示されている資料に
「「ずっと以前、トクホン本舗の人が拓本を取りに来たのよ。何か関係あるかも…」と教えてくれたのは地元の人。早速、トクホン本舗に伺うと、永田徳本と徳本上人のコピーを送ってくれた」
と微笑ましいエピソードが書かれており、この場所でトクホンと二人の徳本がちゃんと結びついている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 17 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【トップ・オブ・ザ・ワールド】

【トップ・オブ・ザ・ワールド】

人間の感覚は麻痺する。

平家(ひらや)暮らしをしていた頃は二階家に憧れ、明るく風通しが良く見通しのきく二階暮らしこそが、文化的な暮らしだと思ったりした。
 
そういうちっぽけな文化的暮らしというエセ優越感が手に入るようになると、人間は、もっと文化的な高みに登りたくなる。高い場所での暮らしの方がより文化的だなどと思い始めるのは、類人猿が石のハンマーを手にし、手にしたら何かを打ちすえたくてたまらなくなるようなもので、進歩という仮面を付けた感覚的麻痺、退行の始まりと言えるかもしれない。

小学生時代、高いというだけでそこは文化の高みにいると錯覚できる場所だったのが JR 御徒町駅近くにある上野松坂屋で、休日に母親と出かけるのが楽しみだった。退屈な買い物もそこそこに、どんどん上の階に上って窓から景色を見るのが好きだったし、屋上の遊園地は平地のそれより更なるめまいをともなう高度な歓楽空間だった。

旧岩槻街道日光御成道を本郷方面に向かって歩くと、右手に文京区立第六中学がありその先に老舗酒店の高崎屋( 1751 ~ 63 年の宝暦年間に創業)がある。高崎屋のある場所は道が二股になる分岐点であり、日本橋方向から来て左手に折れれば中山道、真っ直ぐ行けば岩槻街道となり、かつては追分と呼ばれた土地であり店の前には一里塚があった。


区立六中(旧追分尋常小学校)前に立つ石柱
Data:MINOLTA DiMAGE 7

区立六中前に石柱があり、東経 139 度 45 分 41 秒にあたるこの地点は海抜 21 メートルなのだという。
そういわれてみれば本郷は台地であり、団子坂上、森鴎外の観潮楼からは海がよく見えたというし、確かにそれくらいの高さはあるのかと思う。階高 2.5 メートルとして計算すると海抜 21 メートルに建つ建物は 8 階建ての建物に匹敵し、たしか上野松坂屋も 8 階建てだった。

そうか、本郷台地の縁に建つ観潮楼から東京湾を眺めていた鴎外は、上野松坂屋屋上の縁に腰掛けていたのに等しいのだな…と恐ろしい想像をする。マンション上層階に引っ越した当時は、しばらくの間、窓際に立つと目眩がしたものだけれど、最近では親たちの暮らす部屋のベランダから下を見ても、このくらいの高さから飛び降りたくらいでは死ねないのではないかと思ったりする。高さの感覚が麻痺している。


JR秋葉原駅前に鹿島建設が建設中の40階建てマンション
Data:MINOLTA DiMAGE 7

上野松坂屋の上層階にあった食堂で食べるお子様ランチは、窓からの眺望もさることながら、子どもにとっては文化的高みの極みであり、そのチキンライスでできた山の頂上にはいつも小さな日の丸がはためいていた。デパートで食べるお子様ランチの旗が立っていた場所こそが、実は子どもにとってのトップ・オブ・ザ・ワールドだったのであり、それもまた歳をとるにつれて麻痺してしまう大切な高さ感覚のひとつである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 18 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【伊勢五】

【伊勢五】

古い商家を見るのが好きだ。
古いということは暮らしのやるせなさと容易に結びつきやすいので、古い民家をあけすけに眺めたり写真を撮ったりするのも失礼にあたることもあって憚られる。だからそもそも他者の視線に晒され、見られることを覚悟の商家を遠慮なく眺めるのが好きなのである。というか商家は見せるのが商売だから「見世」なのであり、人生の晴れ舞台を遠慮なく見てほしいはずなのである。

文京区千石、白山通りの裏通りに古い商家が残る場所があり、現在は千石四丁目になる。1745(延享 2 )年に小石川村から町奉行の支配下に入り、広大な野原の真ん中にある町屋だったため大原町と名付けられたという。この辺りが野原だった時代を思い浮かべようとしても東京都内ではなかなか出来ない。

旧中山道と併行するこの道も江戸時代から既にあった古道だ。
『伊勢五』という蔵をともなった米店の建物が素晴らしい。明治初年の建築だそうで平成 15 年文部科学省告示第161号により文化財に登録されている。

『伊勢五』というのはおもしろい屋号だと思うのだけれど、岡本綺堂などを読むと伊勢屋はよく登場するありふれた名である。酒屋には伊勢屋が多く、落語や古川柳でも酒屋といえば伊勢屋が記号として用いられている。

ともかく江戸の町には伊勢屋がたくさんあったので、伊勢の下に名前の一字をつけ独自性ある屋号として名乗ったらしく、谷中には江戸千代紙の『伊勢辰』もあるけれど、考えてみたらその谷中三崎坂を上ったあたりにある酒屋が『伊勢五』だったのを思い出した。調べてみたら 1703(宝永 3 )年に伊勢屋五右衛門が開業した酒屋なので『伊勢五』なのだという。

千石の『伊勢五』前に立つと年代物の表札があり、小石川区大原拾番地の表示とともに今井五郎右衛門とあるので、こちらは伊勢屋五右衛門ではなく伊勢屋五郎右衛門で『伊勢五』なのだろうと推察できる。現在当主の五郎右衛門さんは七代目にあたるという。

現在は文京区だけれど明治時代にこのあたりは小石川区だったのであり、小石川区が本郷区と合併して文京区となったのは昭和 22 年のことである。区名は公募されたが、公募したくせに適当な名がないとの理由で職員が『文京』とつけたらしく、そんな郷里静岡県清水の合併に似たドタバタも、この建物は知っている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 4 月 30 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【一里塚】

【一里塚】

季刊誌の仕事で年 4 回だけ訪れる志村 1 丁目。
地下鉄都営三田線志村坂上駅で下車し地上に出ると中山道沿いに志村一里塚がある。日本橋から数えて三番目の一里塚(一里=三十六町= 4km 弱)であり、この手前が板橋宿平尾、そしてその手前が東大正門前で『食堂もり川』がある本郷森川宿だったのである。

江戸時代につくられた一里塚には榎が植えられたそうで、四月の空に新芽が芽吹いて美しかっただろう。
今の日本社会はすべてどんどん平板になる仕組みになっているようで、過半数の人が残したら良いと思うものが失われ、過半数の人がつくらない方が良いと思うモノがつくられ、社会の舵取りの意図が見えにくい。行政側に立つ人間が責任を取らない仕組みにも首を傾げるけれど、一般市民側の責任ある民意というのも実感しがたくて、行政も市民も暗黙の合意の元で平板な社会を目指しているような気がしてしまう。

箱モノ乱立で立体的に見えながら、実はどんどん社会は平板になっていく。
都内で江戸時代のまま完全に保存されているのは北区西ヶ原にある岩槻街道西ヶ原一里塚のみだけれど、力ずくで撤去してしまおうという行政に対して、市民有志と渋沢栄一が強く運動した末にかろうじて保全されたものである。志村一里塚が中山道拡張により両脇に移動されたとはいえ、それでもこうして一里塚らしい一里塚として中山道沿いに保全されたのは奇跡に近いことかもしれない。

妙な無力感を感じる暮らしの中で、志村一里塚脇にある『斎藤商店』の風情を見るのが楽しみだ。
志村一里塚と共に都市景観に関する賞を受賞したこともあるそうで、一里塚が保全されなければ、この商家もこうして残っていなかったような気がする。一里塚が保全されたことに力を得た個人の強い意志を見るようで気持ちがいい。

文京区播磨坂環三道路が花見で賑わい通行止めになっているのを恐れて、毎週土曜日恒例の買い物は湯立坂を上り、母校跡地脇を通り、春日通り茗荷谷駅前に出てみたけれど、角にあった同潤会大塚女子アパートが跡形もなく撤去されて更地になっているのに驚いた。数日前、文化遺産を破壊した都に対する住民訴訟のニュースを見たけれど、なくなった現場を見て、なんとかならなかったのかなぁ、と今になってやっと思う。それくらい近所で暮らしながらも自分の住民意識も平板化しているのだろう。

人類は平板化を志向し、妙にいじらないで残した方が良いものを力試しに破壊しようとする欲望が、無意識に独裁的な悪意として働いているのではないかと感じる。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 4 月 5 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【近藤勇の秋】

【近藤勇の秋】

勤労感謝の日。最近新聞で知った意外と近所にある近藤勇の墓まで散歩してみた。

六義園正門前から白山通りに出て、白山通りを巣鴨方面に歩き、JR 山手線跨線橋を渡って左斜めに分岐する道を入ると、旧中山道『巣鴨地蔵通り商店街』である。超高齢化翁(おきな)媼(おうな)をかき分けて直進し、『庚申塚商栄会』を過ぎ、明治通りを渡り、さらに旧中山道を進むと住所は北区滝野川になる。

官軍によって捕らえられた新撰組局長近藤勇は、中山道板橋宿手前平尾一里塚に設けられた刑場で斬首され、首級を京都へ送られたのち、残った胴体は現北区滝野川 7 丁目 8 番 1 号地に葬られたという。1868(慶応 4 )年 4 月 25 日のことである。

1876(明治 9 )年、元隊士永倉新八の発案、旧幕府御殿医松本順の協力で立てられた供養塔が残っているという。


Data:SONY Cyber-shot DSC-F707

近藤勇の墓は意外な場所にあった。地図で大まかな見当をつけ、JR 埼京線板橋駅前ロータリーから墓のありそうな場所を探して歩いたけれど見つからず、ぐるりと回って元の場所に戻ったら、墓所は駅前ロータリーに面していたのだった。


Data:SONY Cyber-shot DSC-F707
墓。正面には近藤勇とともに副長土方歳三の名も併記され、両側面には井上源三郎を筆頭に110名の隊士の名前が刻まれている。

意外なのは近藤勇の方かも知れなくて、目の前に大衆的電動軌道車の停車場ができ、個人的化石燃料無軌道車が喧しく走り回り、二本差しの鯉口を切っていつでも抜刀できるような緊張感で立ち続ける勇自身の眼前に、こともあろうか “ M ” のマークの亜米利加産 “ 簡便歩行食 ” の店がケモノ肉くさい匂いを発して客寄せをし、開国派に傾倒する若者達がたむろしているのである。


Data:SONY Cyber-shot DSC-F707
討ち入りの時を待つ近藤勇。

一方、近藤局長を慕う地元商店主も指をくわえて見ているわけではなく、“ 幕末茶屋 ” と称して喫茶『しゃとう』では「名物イサミあんみつ(栗入り)」、ベルグ洋菓子店では「名物ケーキセット」(慶喜セットと書けば良かったのに…)、和食『美濃』では「勇弁当」、『ピコリーノ』では「土方焼き(ひじかたやきであってどかたやきではない)」など、新撰組ゆかりの料理で応戦体制にある。


Data:SONY Cyber-shot DSC-F707
芹沢そば。芹沢鴨「幕末の水戸藩浪士。本名,木村継次。近藤勇らと新撰組を組織して,隊長となる。のち近藤らに殺害された。」三省堂新辞林より

中でもふるっているのが、そば・うどん『白井』の「芹沢そば」であり、文字面からして “ 芹そば ” だなとわかるのだけれど、「芹沢そば」の後ろに小さく「鴨入り」と書き添えられているのである。新撰組隊長芹沢鴨を知る者には、しみじみと可笑しい一品である。

頼んでみたら、やっぱりセリ(三つ葉)入りの鴨南蛮だった。


Data:SONY Cyber-shot DSC-F707
JR 板橋駅の東側は桜が夥しく街路樹として植えられている。近藤勇も嬉しいに違いない。


司馬遼太郎『胡蝶の夢』を読んだ友人から「松本順」とあるのは「松本良順」の誤りではないかとメールを貰い、ちょっと調べてみたのだけれど「良順こと松本順」の名前がどうして「順」と「良順」と二通りあるかの正確な理由がわからない。
「下総佐倉藩医師佐藤泰然(のちに順天堂を開く)の次男として生まれ、泰然の親友である幕医松本良甫の養子となった時点で養父の良を加えて良順と名乗ったのではないかと思うのですが、資料が見つかりませんでした」
と返事を書いておいた。

 
ちなみに松本順は近藤勇と親交が深く、隊士の回診、隊の衛生管理指導、傷病の診察、沖田総司の看取りもしたらしい。近藤勇に、どうして西洋の医学を熱心に学ぶのかと尋ねられた松本順は、西洋の先進性を懇々と説き、納得した時点で近藤の心の中で攘夷という大儀は崩れていたのではないかという。

2004年 11月 24日 水曜日 5:22:55 PM追記

近藤勇に関しては司馬遼太郎解釈による『燃えよ剣』の登場人物としてしか読んだことがないので、同小説中での勇像を思い浮かべながら墓所を探した。

今年は暖かいせいか銀杏の黄葉もまだ早いし、桜の落ち葉の色合いも鮮やかさに欠ける気がする。心の中で「燃えよ秋」などと呟いてみる。

桜並木の突き当たりに讃岐うどんの製麺店がある。こんな場所で、こんな年季の入った店舗で、うどんにターゲットを絞ったニッチな分野で頑張っているということは、さすが近藤勇の墓所脇にあるだけに、ただ者ではないな、という気がし、白地に赤の手書き文字が美しいと思う。
 
美しいと思いながら、心の中で「燃えよ麺」などと呟き、自分のオヤジギャグぶりがつくづく嫌になる。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 11 月 23 日、17 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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カレー南蛮百連発:番外編 南ばんカレー粉のフタバヤ

2021年9月17日
カレー南蛮百連発:番外編 南ばんカレー粉のフタバヤ
 
 
東京都文京区白山 1 丁目。本郷追分から分岐した旧中山道を白山上に向かう途中に南ばんカレー粉のフタバヤがある。創業 1925(大正 14 )年創業だそうで昔は団子坂にあったと会社概要に書かれていた。
 
 
団子坂で蕎麦といえば藪蕎麦のルーツである団子坂蔦屋が思い出される。その場所に建ったマンションで十年近く暮らした。あの辺は菊人形で賑わったせいか古い由来の蕎麦屋がある。
 
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【母と歩けば犬に当たる……18】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……18】
 

18|ひとまず退院

 病院の入退院は慌ただしい。ベッドの空くまで入院を待たされる人もいるからだ。
 「良かったですね、明日退院できますよ」
などと言われて家族は嬉しさ半分、心配半分で大慌てする。
 検査入院最後の昼食をたべ、山ほど薬を貰い、荷物をまとめて午後には退院なので、身の回りの私物整理をするのだけれど、わずか一ヶ月の入院でも少しずつ病院に運びこんだ荷物の量というのは相当なものになる。ボストンバッグひとつ持って入院したはずなのに、帰りの荷物をまとめると四つにもなって、タクシーのトランクがいっぱいになる。人間というのはおそらく、カニが自分の身体に合わせて穴を掘るように、どんな場所でも自分の身体にあった暮らしを作ってしまうものなのだろう。
 寝て食べて治療を受けるだけの部屋であっても、病室もまた少しだけ所帯染みるのであり、見舞ってくださった方々の頂き物の残りとともに、ほんのわずかな期間の思い出が、ベッドサイドを片付けながらよみがえって来て、甘酸っぱい思いが胸を満たす。
 帰りのタクシーの窓から流れゆく町並みをぼんやり眺める。
 朝一番の新幹線で郷里に向かい、母と県立総合病院で診察を受けて紹介状をもらい、実家に戻って戸締まりをし、愛犬イビを動物病院に預け、ふらふらになって夜の東京に戻ったという、人生の一番長い日にもこの道をタクシーで走った。息子も感慨深いが、母の感慨はそんなものと比べ物にならないほど深いのだろうな、とドアガラスに映った母の疲れた顔を見て我にかえる。
 今後も月二回の通院による抗がん剤投与を受けるのだけれど、何はともあれひとまず退院したのでお祝いの準備をする。お祝いといっても重病人なので食も細く、好物を食べさせようと、自転車に乗って巣鴨地蔵通り商店街(★1)へと赤飯を買いに出る。
 年寄りの原宿などと呼ばれて人気のこの通りには、おいしい赤飯を売っている店が何軒かあり、友人の祝いの席に呼ばれると手土産に買って行ったりする。昔ながらの蒸篭(せいろ)でもうもうと湯気を立てて蒸かされている赤飯を買って手土産にする時は、大きな木製寿司桶と風呂敷を持って行く。
 お祝いは家族五人そろって、といってもうち三名は七十歳をとうに過ぎた病人ばかりなので食べる量も少ない。今回は赤飯一キログラムを買って帰ったのだけれどそれでも多いと驚かれた。義父母は酒を飲まず、母も飲酒を禁じられて乾杯できないので、最近評判の洋菓子店(★2)に立ち寄ってケーキも買った。
  食の細い年寄りたちにあわせて小さなケーキを選び、
「このイチゴショートケーキをください」
と言うと、
「メッセージをお入れしましょうか?」
と意外なことを聞くので、母親の退院祝いだと話すと、
「退院おめでとうでよろしいですか?」
と言う。小さなケーキに大きな文字プレートと細工菓子のバラを添えたので、アンバランスという意味で派手な祝いになって嬉しい。
 自転車なんかで来るんじゃなかったなぁ…と心の中でつぶやき、ふらふらしながらサドルにまたがり、一キログラムの赤飯と小さなケーキをぶら下げたアンバランスな片手運転で家路を急ぐ。

(2003年11月16日の日記に加筆訂正)

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★1 巣鴨地蔵通り商店街
JR巣鴨駅前から都電荒川線庚申塚駅まで旧中山道沿いに広がる商店街。高齢の客が多いことから「年寄りの原宿」と呼ばれることもある。母は『みずの』の赤飯とタンメンが好きだった。
★2 洋菓子店
豊島区巣鴨にある『フレンチパウンドハウス』。

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【帰巣者】

【帰巣者】

 

学生だった 1970 年代に聴いた和製ポップスには旅の歌が多く、どれも甘く感傷的で、旅を歌詞に折り込めば必ず売れると言われた時代だった。その頃の歌をときどき聴いて「なんて甘ったれてセンチメンタルなんだろう」と思うくせに、老人の年代になった今でも、懐かしい感傷が胸を満たして聴き入ってしまうのが不思議だ。

旅が甘ったるく感傷的なのは、待っていてくれる人がいて、いずれ戻る場所があるからだろう。いずれ帰りゆく旅だからこそ、甘えに身をまかせて流離(さすら)えるのだ。もし完全にひとりぼっちになったら、旅も変質するだろう。

そもそも人間にとって「帰巣」とはなんだろうと思い、検索したら『帰巣者の芸術―芭蕉からモンドリアンまで』という本を見つけた。安東次男が 1969年 に読売選書から出した本で、「帰巣者」という言葉と、芭蕉とモンドリアンの意外な取り合わせに惹かれて注文した。どこに共通点を見ていたのだろう。

そもそも「帰巣者」という慣用句があるのだろうかと検索したがほとんど見当たらない。数少ない使用例に島尾敏雄『帰巣者の憂鬱』みすず書房があって 1955 年に発行されている。読んでみようかと思ったら、この古書は高値がついていて手が出ない。

島尾敏雄は映画化された『死の棘』が有名で知っているが、原作を読んだことも映画を観たこともない。それでも人と作品のおおよそを知っているのは、学生時代に好きだった写真家島尾伸三が彼の息子だったからで、その生い立ちを読んだのでお母さんの島尾ミホと敏雄の経緯も表層的には知っている。

島尾敏雄の「帰巣」におおよその見当をつけて経歴を読んでみると、妻ミホを伴って上京した 1952 年から都立向丘高等学校定時制の非常勤講師をしていた。吉本隆明、奥野健男、清岡卓行らと雑誌『現代評論』を始めて作家活動をしていたのはこの時期だ。

都立向丘高校(2021年4月21日)

ミホとの夫婦生活における諸事情と、この時期と、『帰巣者の憂鬱』とが重なる。読んでみたいので全集の方にあたったら『島尾敏雄作品集 〈第3巻〉 』晶文社がバラ売りだと安いので注文した。発行年は 1962 年になっている。晶文社の本は先日亡くなられた平野甲賀の装幀が好きで、学生時代はいわゆる「ジャケ買い」をして集めていたが、この時代のはずいぶん素朴だ。晶文社設立は 1960 年なので、創業当時はこんな姿の本を出していたのだなと思う。

白山上商店街(2021年4月21日)

島尾敏雄が都立向丘高校勤めをしていた戦後の地図を見ると、戦前の地図では都電が走っている白山上商店街から本郷通り肴町と中山道白山上をつなぐ連絡軌道が消えていて、この頃はもう徒歩で通るだけの商店街になっていたのかと驚いた。

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