【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:塩田川】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:塩田川】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 18 日の日記再掲)

幼い頃、北街道が塩田川を渡る橋のたもとに大きな石碑があった。

北街道を通るたびに何となく気になり、大人たちはその場所で記念撮影をしたりする妙に晴れがましい場所だった。実家のアルバムにも母とこの石碑前で撮影してもらった記念写真が残されている。おそらく撮影されたのは昭和 30 年だと思う。

大内観音参道から保蟹寺前を通り、古道とおぼしき山沿いの道を辿り、高部ゴルフの脇を通って塩田川にかかる鴨田橋上に立ったら、塩田川の堤防が見事な桜並木のある遊歩道として整備されているのに驚いた。

幼いころ通った高部幼稚園に勤めている方から、例の石碑が塩田川の土手、北街道から少し上流に行った場所にちゃんと残されていると聞いていたので歩いてみたらちゃんとあった。

碑文には「治水安民生」と大書され、その下に小さな文字がびっしり書き込まれている。読んでみると大意は次のようなものである。

「梅ヶ谷と柏尾の山地を水源にするふたつの河川が合流して塩田川になっている。遙か昔から山林が荒廃して土砂が流れ込み川底を埋め、大雨の際は水が溢れて田んぼを荒らしたので延宝貞享の昔から両に争いが絶えなかった。そのことは柏尾神戸家に伝わる古い記録で明らかである。以来二百有余年の間に川底はどんどん上がり天井川になってしまい、大雨の度に氾濫や決壊を引き起こし、下流の押切、大内、大内新田、能島などの田んぼを押し流し、家屋を破壊する災害を繰り返し、しかもその復興費は民の負担となっていた。「県費支弁編入」を村当局と村民はねばり強く県当局に懇請し、昭和四年九月にようやく準用河川の指定を受けることが出来た。しかしこれによって受けられた援助も姑息な災害復旧援助の範囲にとどまり、根本的方策は採られず、折悪しく日華事変の勃発により戦時体制下の一般土木事業打ち切りの憂き目にあう。終戦後、土地改良食糧増産等の必要に迫られ村民の意識も盛り上がり、熱意ある誓願は国と県当局を動かし、高部改修事業として昭和二十二年六月から継続事業として河川改修が始まった。川底をさらい川幅を広げ、堤防を補修し溢れそうな水が速やかに巴川に流入するようにし、昭和二十九年度をもって事業は終わることとなった。総工費二千万円は国費と県費で賄われたが、潰地家屋移転等の補償に関しては援助が得られず紛糾した。村長が自分の土地を提供し、その熱意に住民が村費四百万円の支出を認め、事業は円満に完了された。村民は話し合い、後の世にこの偉業を伝えるために石碑を建てた。昭和二十九年三月」
 
ぼくが生まれた年の春に塩田川の改修は終わり、この石碑が建てられたのであり、大人たちはこの真新しい石碑の前を通りかかるたびに晴れがましい気持ちになって記念写真を撮ったのだろう。

桜が花吹雪を散らす塩田川の上にコイノボリが渡され、勢いよく下流に向かって泳いでいる。一番左にある吹き流しにはこう書かれていた。
 
「祝高部小入学おめでとう」

Data:SONY Cyber-shot DSC-T1

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