トランプ雑感

2017年1月20日
僕の寄り道――トランプ雑感

凄惨な殺人事件のあった現場に置かれた献花台に、やってきては手を合わせている人々をテレビのニュースでよく見る。そういう場面には、このようなことを二度と引き起こしてはならない、事件を風化させてはならないとニュース的な解説がつく。

二度と引き起こすまい、風化させまいという思いで手を合わせている光景、そういう解釈はしごく真っ当なものなのだけれど、はらはらと涙を流している人が、実は被害当事者家族や関係者ではない一般人であることに、ちょっと釈然としないものを感じることがあった。とても他人の悲しみ方には見えないから。

先日テレビを見ていたらそういう人たちのうちの一人がインタビューを受け、逮捕後もとんでもない主張を繰り返しているという犯人に対して、自分もまた犯人と同じようなことを考えてしまうときがあり、実際に凶行に及ぶか及ばないかという違いしかないことに気づくと、こうしてやってきて手を合わさずにはおられない、という意味のことを言っていて合点がいった。えらいなぁと。

間もなくアメリカ大統領就任式。一貫してトランプ氏が嫌いなのだけれど、トランプ氏の主張が嫌いだとか、トランプ氏支持者たちの傾向が嫌いだというわけではなく、間違っていると思っているトランプ氏の主張や支持者たちの傾きに、勢いで共感を覚えてしまうもう一人の自分がいて、そういう自分が嫌いという、実は好悪を分かちがたい捻れた嫌い方になっている。

人を憎む、犯罪を憎む、人を嫌う、世の傾向を嫌う、そういうことの背景には不意に同調しかねない、自分自身を憎み嫌うということがあるかもしれない。憎くて嫌いな人を見るたびに、あれはもう一人の自分という鏡像ではないか、だから鏡を見るように憎くて嫌いなのではないかと問うてみると、意外に図星でドキッとすることがある。


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