思いちがい記憶ちがい

2017年3月15日
僕の寄り道――思いちがい記憶ちがい

記憶ちがいは思い込みによる思いちがいであることが多い。人はみんな自分に都合がよい記憶をつくっており、みんなの違う記憶が一人ひとり別々の自分を作っている。みんな違ってみんな間違っていると言えなくもない。《事実》はひとつしかないけれど《真実》は生きている人の数だけある。

思いちがいによる衝突は他人の記憶との照合があるから生まれる。記憶の照合が頻繁に発生するのは当然ながら家族の間であることが多い。家族同士の記憶違いなどあり得ないと思っているから、かえって自分の記憶に対する自信が強い。それゆえに頑固なのが家族であり、双方が正しさを主張しあうと喧嘩になりやすい。

わが母とも生前は記憶の相違でよく口喧嘩をした。自分の思いちがい記憶ちがいにあとで気づき、どうしてあんなに強弁してしまったのだと後悔することほど辛いことはない。思いちがい記憶ちがいに固執している自分は孤独である。

三年前からスマホで十年連用日記をつけている。自分のメモと妻からのメールをまとめて一日の記録としたものを、毎朝メールで妻に配信することで、「今日はどんな日通信」と題した家庭内極小ミニコミになっている。そしてそのミニコミを読むことで、去年の今日の出来事について時間的空間的にさまざまな記憶ちがいがあることに気づき、ふたりで「えっ」とびっくりしている。

思いちがい記憶ちがいで喧嘩をしないコツは、記憶をともに作ってそれぞれの思い込みと照合し、それぞれのいい加減さに驚きながら苦笑しあうことかもしれない。それは加齢とともに大切になることだ。照合しあえる共同の記憶さえちゃんとあれば、みんなちがってみんないい。


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