諦念と気楽

2012年7月5日

 先月のある日突然、義母の右手首から先がぶらりと力なく垂れ下がってしまい、箸もスプーンも持てなくなった。

 骨や筋を痛めたのかしらと思ったけれど、毎日特養に通って食事介助している妻が、無理矢理スプーンを持たせ、食べ物を口に運ばせようとしているのを見ると、まったく痛がるそぶりもないので怪我ではないらしい。義母は話しかけても反応がほとんどない状態なので、右手がどうしてそうなってしまったかを、本人の口から聞けないのでじれったい。食事介助している昼食以外、食事はどうしているのだろうとケアワーカーに聞くと、なんと左手で食べていると言う。特養ホームの嘱託医に相談したら、脳に軽い出血があって右手に麻痺が出たのかもしれないとのことなので、病院に連れて行きCTスキャンで検査して貰ったが、出血した様子もないという。

 血のつながりのない義理の母だからというわけでもなく、実の母親に対してもそうだったし、実は自分自身に対してもそうなのだけれど、どうしても原因がわからない身体の不調は、まぁ仕方ない、そういうものだと思って暮らすしかないと、さっさと諦めてしまうことにしている。かといって諦めきっているわけでもないのは、気楽に構えて苦にせずにいたら、原因のわからない不調が原因のわからない何かの拍子に、突然治ってしまうことも体験しているからだ。あるいは調子がよかった頃のことを忘れてしまい、いまの状態が当たり前になっていることもあるので、それはそれでよいという気楽な対処をしている。

 義母は特養に入所した直後、首ががっくり前に垂れ下がって、前を向いて顔を上げられなかった時期がある。入所前に、何度か深夜徘徊の途中で転び、顔面を強打して怪我をしていたので、首に損傷でもあるのではないかと、検査も受けたが結局原因はわからなかった。  それがある日すっと顔が上がり、今度はイスに両肘ついて胸を張り、そっくり返って威張っているような堂々たる姿勢になり、定期検査で通う病院でも

「わあっ、顔が上がってる!」

と看護師さんたちを驚かせたことがあるのだ。

 右手が使えなくなってしまった義母にもまた、まぁ仕方ない、そういうものだと思って暮らすしかないと、心の中で思っているのだけれど、右手があることを忘れてしまわないように、ふにゃふにゃと不思議な触感のあるゾウさんとヘビくんを買ってきた。妻に持って行かせ

「かあさん、どういう反応してた?」

と聞いたら、

「不思議なものを持つようにそっと両手で持ってた」

と言うので、我が意を得たりと嬉しい。物を持たせると渾身の力で握りしめてしまい、車いす介助で苦労することが多く、手を握ればケアワーカーによってはつねられたと思わせてしまう義母が、そっと、しかも両手で持ったということは、自分にちゃんと使える手があることを意識しているわけで、気楽に見守ればそのうち

「わあっ、スプーン右手に持ってる!」

と、まわりの人たちを驚かせる日が来るかもしれない。

 気楽に暮らすお守りのゾウさんとヘビくん、ヘビくんの方はケアワーカーが車いすのアームサポートに、くるくると巻き付けてあったという。

(Bricolage209号)

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