明日への日記…55 加賀藩と射水(いみず)

 

【【朝の螺子締め】12月14日水曜日。ノストラダムスの大誕生日(1503/12/14 文亀3/11/26)。

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朝の螺子締め余話。今日は高山右近が荒木村重に造反して織田信長方についたとされる日なのだけれど、その後の右近を調べたら、旧・越中国射水郡あたりで家内のご先祖様の話に繋がってびっくりした。ご先祖は武士で家内はクリスチャンだが、右近の末裔というわけではない。

家内の父方の菩提寺は富山県射水市にある。義父の遺骨を清水の寺に納め、富山には分骨することにしたのだが、その際、寺のご住職に面白い話を聞いた。

射水郡というのは前田利家の息子利長が、秀吉による佐々成政制圧後、砺波郡・婦負郡とともに与えられた32万石の一部だった。慶長の危機の際に利長は徳川との開戦回避のため隠居を宣言し、家督を異母弟の利常に譲り、越中国新川郡富山城に隠居した。その富山城が焼失したため高山右近に命じて射水郡関野に高岡城を築き移った。

現砺波市戸破(ひばり)に金胎寺(こんたいじ)という真言宗の寺がある。江戸の始め頃、加賀藩から山田某という武士が家来十名ほどを連れてこの地にやってきて、最初の住まいとして建てた家がその寺の前身なのだという。やがて家来共々それぞれの土地屋敷を持つようになり、最初の家を、山田某と家来たち一族を弔うための寺にしたのだという。というわけで寺の小さな墓地には代々彼らの子孫を葬った墓があり、そのひとつが家内の家で当時までの過去帳が残っている。

加賀藩からやってきた武士が、なぜ富山市ではなく射水市のこんな場所にやって来たのだろうと聞いたときは思ったが、加賀藩と射水は昔から縁の深い土地だったわけだ。

 
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